忘れてはいけないこと


 ヨーロッパの知識人、ことにフランス人にとって、『広島』『長崎』という単語が、特別なイマージュを共有するのに反して、案外、日本人自身は忘却したがっているのではないかとZENはずっと思っています。
 なぜなら、敗北や被害者の悲惨は本能的に思い出したくない事柄だからです。
 広島・長崎の単語の意味に対する解釈を鏡にして、アメリカ人とフランス人は別れるのかもしれません。

 アメリカ人にとって、広島・長崎への原爆投下は、”ファシズム国家”だった極東亜細亜の蛮人日本から無条件降伏を引き出して、民主国家にするための(やむをえないが)決定的な手段だったという解釈です。

 フランス人にとって、広島・長崎への原爆投下は、戦争との直接の関わりを持たない多くの一般市民をたった一発の原子爆弾で即死させ、負傷させ、後遺症を持った人たちを生み出したという、人間が人間に対して行った最も卑劣で残酷な行為、ナチスがユダヤ人に対して実行したホロコーストと同様、全人類の歴史に投げかけられた、想像を絶する汚点という普遍的解釈です。

 ZENは、アメリカ人が極悪人で、フランス人がユマニストだと言いたいのではありません。
 アメリカ帝国が日本に原爆投下したことの正当性の一つとして、例えば、日本軍が中国で行った南京虐殺があります。しかしながら南京虐殺の実態の詳細は、広島・長崎の原爆と比較して、充分な事実客観性に乏しく、報復の正当性が果たして適合するのかは、ここでは質問の形で提出します。
”権力主体(国家)が別の権力主体に対して行う方法の中身”を人類史的視点から直視するとき、大量殺戮の結果を全く避けることができない破壊兵器を用いて、実際に、一瞬にして、それを遂行できることを示した事実の重さは、単に一帝国の暴走に非を求める主題ではなく、人類全体が負った十字架であることは間違いありません。

 北朝鮮のミサイル発射装置の脅威とは、広島・長崎の再現の恐怖です。もしも核爆弾がアメリカに投下されたらという仮定は、”そのようなことが起これば、世界はどのような未来を即座に持ってしまうのか”という暗黒の想像=ポスト核時代の人類共通の悪夢です。つまり、広島・長崎という単語の意味は、人間の最後というナイーブなメタファーでもあります。

 世界で唯一の被爆国である日本の国民は、歴史の中で無数に繰り返されてきた、日常的とも言える紛争や戦争における悲劇としてとは別に、人類全体を消滅させかねない、すべての希望を打ち砕く危機 を回避し、克服するために広島・長崎を思い起こすべきだと思います。ZENのここまでの言説はすでに言い尽くされたことですが、常に誰もが、忘れることでリスクをもたらす重要認識だから書きました。私たち人類全員の未来を奪う暴挙を防ぐことが、人類にも理性が確かに存在するかどうかの命題(これは決して一部知識人の机上の命題ではない)に応えるものだと思います。
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