超える 1


 先日、例によって仕事前に駅前の喫茶店で珈琲を飲んでいたら、私の隣席の中年男二人の話し声が聞こえてきた。親の癌を伝えるべきか否かという内容だった。相談を受けた側はクリスチャンのようだった。
『日本人は、欧米人みたいに癌宣告を堂々と受けて、残りの人生時間をたくましく生きるなんてことはできないんだよ。結局、本人には伝えずに騙すことになる。そこが苦しいんだよな』と、その人は通る声で言った。
 私はクリスチャンではないが、クリスチャンとの縁が比較的多いと思う。男の声を聞き、クリスチャンの一つの典型を感じた。クリスチャンの特質は、”死の意識に打たれ強い”ことだ。

 人間にとって絶対的なことは、ただ一つ。誰もが死ぬということ。その絶対さに”生”はどう向かい合っているかというと、私は大きく二つの態度があると思う。一つは、生は虚しいという意識である。例えば、わが国の伝統的文学の大半がこの意識から来ているのではないだろうか。もう一つは、生を超越する意識である。

 生を超越する意識とは何かを、今後、ラジオ風餐で何度も何度も書いていくような予感がする。
 唐突ですが、みなさん。自分が末期癌で、余命3ヶ月と医者から宣告されたと想像してみてください。

 そのとき、”もののあはれ”を強く感じるとしたら、その人は生を虚しいものとして意識している。富も地位も仕事も愛する家族も無事故の表彰も海外旅行の思い出も勤勉の誉れも何もかも死ねば終わり。しょせん、この世は仮の世ということだ。しかし一方、短い余命の中で、超越の瞬間の到来を待つ、あるいは自らそれを求めようとするなら、もはや伝統的日本人ではないかもしれない。

 超越の瞬間の到来とは何か? それは今まで生きていた中で最高の快感、法悦が自分に訪れるということだ。
 自分がそのような経験に遭遇する、賭けられた存在であることを自覚し、余命3ヶ月の間に、至高が来るかもしれないと期待すること。サッカーでいえば、試合終了直前のロスタイムでの大逆転シュートだ。

 これから私が書くことは、またまた唐突だが(今後おりおりくわしく書いていきますが)信じてもらえる人だけに理解してもらえればいいと思う。狂信者、ナルシスト、精神病者、感受性が異常な人間、現実逃避の意志薄弱な輩、何と呼ばれてもかまわない。
 
 人間は霊的な至高瞬間を体験する能力を持っていることを私は自分の体験から信じている。その瞬間には、自分が想像できる限りの欲望=大金持ちになりたいとか、美しい異性をモノにしたいとか、絶大な政治権力を持って多くの人間を自分の理想とする方向に統率したいとかいったことが全く小さく思えるほどの絶大で柔らかな光に包まれる。このとき、生は、虚しい生を”超えることができうる”可能性を常にはらんでいることを確信できる。
 なぜなら、現実の、例えば余命3ヶ月の末期癌の生が、”自己のすべてでは決してない”と全身が了解するからだ。

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