超える2


 日本人は『頑張ります』とよく言う。これは外人にも理解できる。が、『頑張ってください』これが理解不能だと言う。人間は懸命に頑張ってもあっけなく死ぬし、そこそこやっていても幸運に往生する。そんな実例は周りを見渡せば掃いて捨てるほどある。すぐわかることだ。では、なぜ、それでも”頑張る””とか”頑張れ”と言い合うのか?
『頑張れ』『頑張ります』という言葉の裏には、”頑張っても死ねば終わり”という虚しさがある。この虚しさを知って、それでもなお、生活や大義や意地、プライドなどのために頑張ることが、”大人”の証しなのだとも言う。
 
 ”聖”なるものは、虚しさを概念の中に持たない。キリスト教の秘密はここにあるが、ほとんどの日本人は知らない。根本は虚無感の中でつつましく生きている。虚無感共同体教だ。なぜ、”聖”なるものが虚しさを持たないのか。生を”超える”からだ。今後しつこく書いていきます。
 ところで、近年の日本には、”聖”なる場所や”聖”なる時間や”聖”なる行事が減った。そんなものは人間には必要ないと思われているふしがある。”聖”なるものなどは”原始的””未開的””非科学的”だという『新しい信仰』のためだ。

 人間はすぐ死ぬ存在である上に、自我意識まであるために祈りが必要だ。私は神社を参拝するとき、時間があれば絵馬を読む。『早稲田大学に合格しますように』とか、『子供のアトピーが治りますように』とか『司法試験を突破しますように』とか『今年こそ、結婚できますように』などといった、当人にとってはどれも切実な願いが自筆で正直に書かれていて、胸にせまるものもある。人間を知る貴重な機会になっている。
 こういう祈りは、他者依存的、偶像崇拝的、有限的(消極的)祈りである。目標が達成すれば終わる。勿論、達成する前に死んでしまうこともあるし、目標自体を取りやめることもある。日本人が普通、祈り、”頑張ろう”と声を掛け合うのは、この種のものだ。
『そんな他力本願で、どうするんだ!自分の念願は加持祈祷なんかに頼らず、自己責任で”頑張ればいいんだ”』と言う人もいる。私は誠に然りと思うから、神社に行っても一切、この類の祈りは行わない。しかし、人間が完璧に自力でできることというのは、尾篭な話になるが、小便大便、飲み食い、呼吸、絶叫くらいしかない。そして、”祈ること”だ。祈祷行為は動物には見られない。人間の特徴だ。

 実は祈りにはもう一つある。これまた日本人にはあまり知られていない。超越的、無限的(積極的)祈りである。アウグスチヌスは、『神(無限)の存在をどうか私に知らせてください』と祈った。自力でできる最高に積極的行為である。西洋の近代科学は、中世の修道者たちの無限認識の祈りや絶対者の探究から生まれ出てきた。クリスチャンなら、この祈りを知っている。認識や深度の個人差はあると思うが。

 じゃあ、ひたすら聖を求めていればいいのかと言えば、それはよほどの覚悟を持った聖者や修行者に限られる。私のような一般人は、俗(FOU)と聖(SAINT)の間を毎日行き来しなければ、とても生きていけない。私利私欲が好きで、しかし、同時に欲望の奴隷から解放されたい。だから、風餐(FOU=SAINT)です。

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