超える3


 自己超越というが、それは自分の力で超えることなのだろうか。例えば念力のようなものによって。超越とは自分の意志によって成されるのではなく、むしろ自分の意志という”狭さ”から解放されることによって成される。これは私の言葉だから不全だ。言葉で説明しても仕方ない。

  実在はすべてを包み込み、
  すべてを包み込めば、自己はなくなる。  
  自己がないということはすべてが満たされており、
  すべてが満たされれば、超越することになる。
  超越すれば、『道』に達する。
  「道」に達すれば永久に続く。
  身体が死んでも、それは終わらない。
  (『老子の思想』  張鐘元  講談社学術文庫より)

 身体が死んでも、”それ”は終わらないとはどういうことか。私たちは、別に目的を持って生きているわけではなく、世の中を平和にしたいとか、隣人を愛したいとか、総理大臣になりたいとか、大金持ちになりたいとか、悪い奴を殺したいとか、ギネスブックに自分の名前を載せたいとか・・・・・、そういうことすべては人間が短い人生の中で勝手に作り出した架空の目標だが、猫から見れば実は生きていようがいまいが、全くどちらでもよい存在である。にもかかわらずこうして生きている意味を知ろうとするなら、自分の意志や知力などによってではなく、自分をなくさないとわからない。そして自分が肉体的に死んでも終わらない自分の存在を確かめれば、今の狭い自我を”超える”道が開けてくる。これは私の言葉だから不全だ。言葉で説明しても仕方ない。私自身にそれができるからどうということではなく、またできないから語れないというものでもない。なぜなら、私の言葉は常に不全だから。

 聖書の福音書を読んでいると、イエスが”自分の身体や意識は決して自分のものではないんだ”という決定的自覚や覚醒に貫かれていることが伝わってくる。キリスト教の言葉では、イエスが伝道を始める前を私生涯、その後を公生涯と分けるが、こうした分け方には、イエスを矮小化し、宗団の教宣活動の目的とイエスの言行を合致させる意図すらも連想させる。自分の身体でなければ、では何かというときに、神のものという説明になるが、イエスがそこに至る飛び越えを、誰もがインスタントに共有できるとは思えない。しかし、私はイエスの中にある”危機意識”を何にもまして感得する。凡人にあっては、超越は”非日常的”なものであり、あるいは観念的なものだ。一方、イエスが持っていたと想像できる意識は、”超越の日常化”であり、言い換えれば、”超越の日常への介入”であり、そういう事態に有限的身体や意識は限界的に耐えるほかないだろうという身体もろともの危機だ。

 私が常にイエスの言行録から揺り動かされるのは、”イエス自身に満ち満ちて、それが周囲に溢れ出てくるような生身の人間の危機の様相”である。それに自分が打たれることこそが、自分の超越の可能性を希望させる。しかし、それは老子のような静的受容とは違い、圧倒的な外力の自己への襲来ともいうべき激しさ、強さである。

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