超える4


 近代人間とは、一貫した”自分”を持ち、自己意識に基づく言動に全ての責任を負っており、一個の人間として法に即した社会生活を送り、人生を全うすることが当然とされる。
 ならば私は近代人間ではない。はっきり言う。私は意識としては近代人間からおりた。近代を完遂する能力も意欲もないし、なったとすれば、たちまちストレスで憤死するだろう。
 今の日本には希望がないと言う。”近代人”としては確かに未来がないだろうし、無理な希望を抱いても苦しむだけだ。けれども、別の希望があるのだ。

”近代”をカッコに入れた普遍人間(風餐人)になることだ。生身の人間の徹底的なできの悪さを直視し、自覚する。決して不遜にならない。ただし、だからといって、”自己卑下人間”や”厭世主義者”にはならない。自分の心底の評価をできるだけ客観化するための頭を持つことを心がける。

 その上で、”超える”ことに希望を抱きながら生きる。

 人間一人一人は生まれてから死ぬまで一個の人間として一貫して矛盾なく存在はしていない。あるとき死に、あるとき頂点に達し、あるとき滅び、あるとき他者と入れ替わり、あるとき再生すると私は考えます。
 近代人としては希望がなくても、別の希望がある。それは”超える”ことだ。”超える”とは、今ここに置かれている自分や周囲の事態がすべてだと思わないこと、また現在の事態の延長がそのまま未来だとは考えないことだ。”超える”ために何の修行も要らない。ただ、認識を変えることだ。聖書の中に見られるキリストの行った奇蹟とは、まさに”超える”ことの見本だ。

 恩寵として、自分では決して成しえぬ力で、自分や世界に歓喜や至福が襲うことを待つこと。
 ちょうどロスタイムの決勝逆転ゴールのように。ちょうど台風の猛威の去った後にかかる美しい虹のように。
 ちょうど連続殺人犯に訪れる悔恨の涙のように。ちょうど末期癌の男が生還するように。
 まず、この認識を持つ。さらに、人間は誰もが必ず死ぬという冷厳たる事実も忘れない。これらを徹して思うとき、ときに(いつでもではないが)生への無前提の信頼感が湧き起こってくる。なぜ自分が生きるのかの前に、死にたいと思うより先に、まず自分がシャーシャーと出し抜けに今、生きていることを全身が肯定していることを覚える。
   
 自分を超えた力によって、自己が満たされることが、聖の意味、体現である。何もキリスト教だけの宗団的概念ではない。誰にも無条件に開かれていると思う。

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