超える5


 未成年にワイセツ行為を行ったということで、吉本興業を解雇された漫才師、極楽トンボの山本を私は以前から気になっていた。相方の加藤が、朝や夜のテレビ番組の司会その他で活躍していて、すっかり売れっ子タレントとなり、2人の間に溝ができていたからだ。深夜放送のパーソナリティーを2人は担当していたが、漫才のコンビなのに、お互いが遠慮しあって、”さん”づけで呼び合っていたのが不自然に思えた。山本は加藤を皮肉っているように聞こえたし、加藤は山本に過剰にへりくだっているような印象を与えていたからだ。リスナーとしては妙な意識で漫才師のトークを聞くのは愉快ではない。腹の底から笑わせてもらいたいからだ。

”罪人”となったこの山本を、たけし軍団が拾うという情報を耳にした。(信憑性は定かでないが)聖書の中で、イエスが当時、罪人とされていた人々とともに食事をしたり、癒したりする記述を思い出した。イエス自身、世間から外れてしまった者たちのために、この世に来たとも言っている。

 最近、キリスト教を独自解釈した韓国人が、新興宗教の教祖となって、女性にワイセツ行為を繰り返しているニュースが話題になっている。日本人も学生を中心に被害者が100人いるなどという報道もあった。その教義の中に、”○○をしなければ地獄に落ちる”というものがあった。地獄に落ちるという概念はキリスト教の本義ではない。イエスが説く地獄とは、死んだ後の裁きによって人間が赴く世界ではないとすら私は考える。地獄とは、今ここにあるし、反対に天国も、今ここにあるのではないか。

 つまり、その教祖の言動の動機が地獄だし、山本とたけし軍団を結びつける心情は天国であると私は思う。キリスト者からは違うと言われるだろうが。”超える”とは、地獄が地獄のままでないということだ。その教祖は逃走中とのことだが、現時点どのような心境なのかが、教祖自身の地獄と天国を決めるのではないか。信者たちは、教祖という人間の”能力”を過剰に信じてしまった。こうした偶像崇拝はキリスト教の本義ではない。キリスト教の広宣の先頭に立ったカリスマ、パウロですら、自分の偶像化を自分で戒めている。聖書を少しでも読めばわかることだ。人間は完全ではなく、年中、失策ばかりしている。これが全な人間認識だろう。

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