超える6


 聖書の福音書中で、イエスが伝道を始める前に『サタン』から誘惑を受ける記述がある。サタンとは何だろうか? キリスト教には、”悪魔”=人間を誘惑して神に反逆させる者 という考えがある。

(ルカによる福音書4章3節〜4節)悪魔は言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

 悪魔の質問の内容は、馬鹿馬鹿しいくらい人間くさい。つまり、悪魔とは”人間そのもの”のことだ。神に反逆するなどといってもお里が知れている。人間が作り出した妄念のようなもので、”超える”ことができないものだ。人間は自分で悪魔を作り出して、自分で勝手に苦しんでいる。
 なぜ人は石をパンに変えたがるのか? なぜ人はダイヤモンドを欲しがるのか? なぜ人はパンを奪い合うのか?・・・・・・・・。つまり、人には欲望があって、つまり”規定”されている。よって”超える”ことができない。

 イエスのミッションとは、人間が自傷行為を繰り返している現実に創造主が慈愛を示していることを伝えたことにある。もし、そうでなければ、どうして”神の愛”などをわざわざ危ない目にあってまで、人間に説く必要があるのか? 人間は勝手に地上でやっていてよろしい。何をしてもいいんだという唯物的考えに立てば、本当にイエスの存在意味はないし、それを信仰する者の価値もない。単に人間社会内で日々発生する暴力や不和や強奪や中傷や嫉妬やらといったものの処理、調停の手段として、あるいは平和や幸福のイメージ共有のために神概念を用いるのなら、そんな神など虚しい。

”超える”とは、超えるものが確かにあるから超えるのであって、そうでなければ意味がない。最初からそのようなことを抱く必要もない。私は太陽というものの存在を、可視的に、神的なものととらえることを認めたい。自分の光をすべて他のもののために惜しみなく与える、揺るぎなく与えるという意味である。しかし、太陽にも寿命があるだろう。よって絶対的なものとはいえない。だから、根源的存在ではない。

”超える”とは、根本的な自己認識の次元を、自力で構成することをやめること。では廃人になりやしないかといえば、違う。例えば、腰痛の原因の大半は、身体物理的要因ではなく、潜在意識の中に隠伏した”怒り”(トラウマとかストレスなどの総体)であるという説がある。怒りが起こす痛みに対して、痛がっている当人が意識に対して、叱りつけるというのが療法の一つとしてある。

 聖書の中に、イエスが説教中にサタンを叱りつける場面がある。悪魔ばらいとは、人間自身が作り出した妄念に支配されている状態からの解放だと思う。そのときに、せっかく”自力”で作り出した妄念を粉砕する”勇気”が要請されている。しかし、そもそも自力の価値など大したことがないと思えば勇気も要らない。その意味で自己愛の過ぎる利口者というのは一番タチが悪いかもしれない。ガハハと自分で自分を笑い飛ばすことができれば、粉砕できるのだろう。

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