私小説


 アゴタ・クリストフの「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」の三部作と「昨日」を続けて読んだ。これらの一連の国境(亡命)小説にはコスモポリタン的要素と土着的要素を自在に往還する新鮮さがあり、コスモポリタン的VS土着的という近代小説の二大潮流を統合するようなダイナミズムを持っていて、表現様式は日本でいえば安部公房に似た分裂症的演劇性に満ちている。私小説が、作者であるところの確固とした”私”を赤裸に描くことであった時代はもはや過去のものであり、もはや、作者のうちにある”今、テキストを書きつつある自分”の状況をかろうじて書き留めるものであるが、アゴタの小説も私小説の範疇に入る。

 物語においては、作者としての”私”は重要な課題ではなく、例えば”愛”や”歴史”や”時間”といった観念こそが主役である。日本で今、物語が書ける作家は存在するのだろうか。消費される物語のことではない。一度読めば終わりという今日の出版市場に溢れる新奇なテキスト、いわゆるノベルのことではない。繰り返し繰り返し同じ箇所が読み返されるようなテキストのことである。聖書はその一つである。なぜ、何度も何度も聖書を繰り返し読んで、なお読み尽くせないのかといえば、書き手ではなく、”読み手=自分”のことがそこに書いてあるからだ。いわば曇りのない鏡であって、それを見ると自分の姿が露になるからだ。

 聖書はキリスト信者の信仰の書だけではなく、知識人の歴史の書だけではなく、恋愛術の書であり、健康法の書であり、諸芸術のモチーフの源泉でもあり、経営指南書でもある。このような多面性を持ったテキストは、そもそも作者自身が”私”を全然顧慮していない。では、私小説は、すべて”私”を問題にしているのだろうか。

 ぼくらのうちの一人がハーモニカを吹きはじめ、もう一人が、出征した夫の帰りを今や遅しと待つ妻のもとに夫がまもなく凱旋するという、よく知られている歌を歌い出す。人びとが、一人、また一人と、ぼくらのほうに振り向く。話し声がやむ。ぼくらはだんだんと声を張り上げて歌い、ハーモニカも次第次第に強く吹く。ぼくらのメロディーが地下室の丸天井に反響して、まるで誰か別人が演奏し、歌っているかのように聞こえる。歌い終え、ぼくらが視線を上げると、そこには頬のこけた、疲れ切った人びとの顔がある。女の一人が笑顔になって、拍手する。
(「悪童日記」アゴタ・クリストフ(早川書房) 146P 掘茂樹 訳)

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