森林公園への道


 かつての武蔵国の中心、大宮に住む中村稔の詩の中に、”森林公園”が登場する。中村稔の詩を理解するためには、森林公園を体験しなければいけないのだ。東武東上線で、小江戸と呼ばれる川越から、さらに20分ほど下ったところに「森林公園駅」がある。駅前のレストラン「武蔵」で850円のしょうが焼き定食を頼んだら、ヤクルトがついてきた。なぜか一気飲みする。今思えば、このときすでにアホの予兆があった。

 ZENは自転車で、公園内を一周することに決めた。400ヘクタールもある公園を歩いて回るわけにはいかないからだが、滅多に来れないところまで来た以上、中村稔の詩をこの際、一気に体験してしまおうという貧乏根性が働いたことも確かだ。

 しかし、その野望は早々に打ち砕かれる。12キロを超える園内のサイクリングコースを走り出すとすぐわかることだが、決して”お気楽なもの”ではない。アップダウンの連続で、平坦な道がほとんどないからだ。ZENは森林公園は、日比谷公園を大きくしたような公園だと勝手に想像して、午前上がりの仕事の後、背広で、革靴で、ビジネスバッグを下げて、全くのノーガードでここまで来た。そんな来園者は一人もいない。みな、ハイキングやスポーツをする心得の服装で臨んでいる。ここまで来るといいわけのできないアホである。

 浮きまくっている自分のサバイバルを考えた。このままでは帰れない。サイクリングコースはF1レース場と同じだ。とにかく目の前を走る者は全部、抜こうと決めた。すでに、この瞬間から、中村稔の詩理解は完全に吹っ飛んだ。周囲の自然など眺めるヒマはもはやない。幸い、コースはアップダウンが激しいだけあって、しかも土曜の快晴の昼下がりということもあって、子供を連れた若い夫婦やカップルがのんびりこいでいる。楽勝のレースなのである。

 一度だけ、ピットインした。園内には随所に、自転車止めの場所がある。近くに滝、吊り橋があるという看板を見て自転車を下り、小山を上ったら、今度は険しい下りの坂道になっていて、完全にハイキング、山登りの世界である。昨夜3時間くらいしか寝ていないこともあって、息苦しい。しかも背広でビジネスバッグ持ちである。まわりの人間はみなシャツやジャージ姿である。明らかにサラリーマンであるはずの子連れの家族サービス真っ最中のお父さんたちがZENに向ける視線が厳しい。最初、理由がわからなかったが、ハッと気づいた。「会社の仕事のことを忘れて、ここに来ているのに、イヤなことを思い出させるな」という視線だったのだ。アホというより、存在自体が来園者のハラスメントになっている自分に気づいた。息を激しく吐きながら、自転車止めまで戻った。肉体の疲労よりもストレス疲労のほうが身体にはこたえる。

 完全に開き直った。アイルトン・セナになることにした。そして、実際、何度も何度もカーブを回るとき、F1ドライバーの気持ちがわかった(本当かよ!)。彼らは同じコースを高速で何度も巡回するとき、人生をやり直しているんだと。今、ZENの前の視界に、三十代前半のお父さんが後ろの荷台カゴに小さな娘を乗せて、落ちないように片手で抑えながら全力疾走するのが入ってきた。後ろを、懸命になって追いかけて走るお母さんと息子に向かって、大声を上げている。「もっと早く、早く」と盛んにけしかけているのだ。

 ZENは思った。家族を持った男が自分のオタク性を貫くには二つしかない。一つは、家族から馬鹿にされ、無視されながらも孤高の時間と空間を守る。もう一つは、わがままオヤジになって家族の迷惑を顧みず、自分のオタク道に巻き込む。ZENの目前にいる男は後者だ。しかし、ZENは容赦しない。子供が音を上げて泣き、自転車を払い落とすようにするトラブルを尻目に、一気に家族全員を追い越してしまう。

 最後の難関があった。若いカップルがかなりの速さで平行して走っていたのだ。道幅がさして広くないので、2人の間を抜くことが難しい。ZENはしばらく、2人にプレッシャーをかけるように牽制しながら追走していたが、下り坂の急カーブのところで、2人が減速したのをチャンスと見て、男の横を外側ギリギリから抜いた。実際、かなり危ない追い抜きだった。抜いた後、男が「ワケー」と言うのを聞いた。ZENのことを揶揄したのか、隣の恋人との話しのネタができたと思ったのか知らないが、思いもかけない言葉だったので嬉しくなり、その嬉しさいっぱいのまま、ゴールまで全速力で下りをおりきった。心の中で、アホを絶叫連呼しつつ。

帰りは川越まで戻って、秘密のサテン(喫茶店オタクとしては本当は教えたくないのですが、この際、教えましょう。喫茶ルミエールです。ここの珈琲はお薦めです)で腰を落ちつけ、レースの余韻にひたった。帰りの車中はさすがに爆睡状態で、駅のトイレで鏡を見たら、目が真っ赤に充血していた。中村稔の詩理解への道は遠い。

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