受霊報告


 科学者の柳澤桂子さん(般若心経の現代訳をされた人。なぜ日本の仏教界の人たちは、お経に対してこうしたわかりやすい日本語の訳をされてこなかったのだろうかと率直に思う。キリスト教では聖書は各国語でわかりやすい言葉で訳されている。「観自在菩薩〜」と般若心経を葬式で何度も聞いてきたが、僕はこれまで意味がわからなかった。ただ有り難いことを言っているのだろうくらいの認識だった。僕の周囲の人間もおおむねそうだった。また、それでいいのだなどと勝手に思い込んでいた。しかし、こんなバカなことはないと今、痛感しています。われわれ日本人というのは、難しい言葉を言うと、意味もわからずに納得してしまう民族である。この態度こそが、欧米人とまともに話ができない最大の理由である。誰でもいいです。"日本語を理解できる"欧米人に対して、きちんとあなたが知っていることと知らないことを"日本語"で説明できる日本人はどのくらいいますか? 相手の話すことを聞いて、すぐに「ああ、わかった」などといい加減に対応してしまうことはないですか?マルチン・ルターが聖書を自国の人々に理解できるために訳したことが近代の始まりです。われわれは未だ近代人ではないのでしょう)が、著書の中でこのように書いている。
「宗教上の神は脳の機能なので、実際には存在しないが、自分を存在させている自然に対する感謝の念は持っている。人間の意識は、アニミズムから始まり、自我意識に対して人格神を生み、今はさらに次の意識へと進んでいる。自分自身の神秘体験は、極度のストレスにともなう脳内快楽物質の分泌によるものです。」
 
 私はこの本を駅前で立ち読みしたあと、自分の巡礼として、板橋区赤塚の氷川神社を参拝した。私は20代のときに出張で立ち寄った出雲大社で霊的なものを強く受感し、霊玉が建物を撮影した写真にたくさん写った。この意味が全くわからないまま、単に不思議な一度限りの現象として自分の思い出の中に隠していた。ところが、最近になって旧武蔵国(埼玉県から東京都にかけての地域)に多く点在する氷川神社がスサノオノミコトを祀る出雲系の神社であることを知り、しかも氷川神社の近くに住む人と自分との縁が偶然を通り越して多い(10件以上)ことを発見して以来、時間を見つけては各所の氷川神社に参拝するようになった。そして今日までに27社を参拝して、そのうち5社の境内やその近辺で霊的と思われる体験をしている。

 体験を具体的に言うと、全身に電気が帯電したような感じで総毛立つ。その場から離れると全く何事もない。私は現時点で、地場的エネルギーだと考えている。おそらくかつて武蔵の地に移り住んで来た人が、地場エネルギーの集中する場所に神社を建てたのだと推測する。だから神社やその近くで身体が不思議な反応を起こすのだと私は考える。

 そして今日、赤塚で再び全く同じ体験をした。赤塚の氷川神社は高台の上にあり、参道もあって、分社としては立派な体裁である。しかし私はここを参拝したときには何も感じなかった。高台から下りきったところに、荒川紙器の工場があり、新井紙材のトラックが止まっているのを発見した。荒川も新井も出雲姓なので、氷川と縁が深いなと思った。また、工場に隣接して荒川家一族らしきお墓もあって、間違いなく古くからお住まいの方なのだと確信した。
 そんなことを思いながら道路に出たとき、いつも感じる異常な帯電反応が全身に突然起こった。それは大きなお屋敷の横を通ったときだった。樹木に囲まれた旧家らしく、表札は池田とある。私が直観したのは、この家の敷地の中の何かに霊的なエネルギーを発するものが存在するのではないかということだった。お尋ねしてお話をと思ったが、人格を疑われ、不審者扱いされるだろうからやめた。

 私の身体の反応は、柳澤さんのいうところの"脳"が起こす反応であって、自分の思い込みから来るものなのだろうか。しかし、繰り返すが、氷川神社すべてで反応を起こすわけでもなく、私自身がその反応を期待しているわけでもなく、今日のように神社と因縁が考えられる場所で反応が不意に起こることもある。そして、その場から歩き去ると何事もなかったかのように反応は消えるのだ。どうしても自分自身の脳の心理作用が機縁になっているのではなく、環境的な外部的なエネルギーを受けるとしか感じられない。
 なぜ、このような反応が身体に起こるのかを因果論的に説明づけるのは"宗教がかって"しまうので避けたいが、しかし、私自身氷川神社を参拝するようになってから、各所で"呼ばれている"思いが強くなっていることは確かです。何で呼ばれているのかは全くわかりません。

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