風餐系散文 坂口1


 坂口の住む中古アパートは坂の途上に建っている。上りきったところに、三十七年前から看板を出す岡田酒店があって、多摩の地酒の澤乃井を置いている。今、酒店の前を一組の若いカップルが通り過ぎていく。HTとKNである。
「想像かもね」
「ああ、坂口の頭の中の」

 坂口の部屋には、クラシックギターが寝そべっている。その上の窓から外の景色が入る。カップルが坂を下りるのが見えている。季節はすでに秋半ばで、昼間とはいえ、窓を開ける家も少ない。坂口の部屋の窓は、坂口がいないときも空きっ放しである。泥棒に入られても盗むものがない。あえて言えば、小型冷蔵庫くらいか。テレビもパソコンもない。私はそんな坂口が好きだ。Hな意味ではない。

 カップル2体は直立動物として、坂を下りきり、左に折れ、道沿いの雑木林が風で音を立てた。もう、この21世紀が始まって六年が過ぎ、自然はまだ我々を絶滅させない。生殺しの感もあるが。そのことに感謝して私はときどき近くの神社に参拝に行く。ところが坂口は、香山リカの本などを読み、部屋には仏壇も神棚も聖書もない。

「小説とは、しょせん作者のエゴの産物で、登場人物が三人称だろうが、結局は自分のことを書いているだけじゃないのか」「そんなことはわかりきったことだ。馬鹿野郎。だが、坂口。おい、坂口。聞こえているのか。おまえの部屋(頭)の中は空っぽで、風通しが妙に良いじゃないか」
 カップルの一人は苛立って、少し早足で先を歩き始める。残されたもう一人は微妙な笑い顔を作る。読者のために。
「もう、いいよ。飽きたんだ、叙述には」「昼間っから、お酒なんていけないわ」「一体、いつの時代の話だ、これは?」
 坂口が一人でないと誰がわかるのだろうか?それに、今、坂を自転車で下りるアトミの両足は美しいと私は思う。
「おまえもそう思うか」「ああ」「ああ、じゃないよ。子供のように関心がバラけて、一体いつになれば、大人らしくなれるのかなあ」「・・・・・・・」

 今、岡田酒店に入るのは、猫。さっき、坂口のギターを踏んだノラだ。

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