風餐判定とは何か?


 芝居を見て、ひいきの役者や脚本を絶賛したり、文句を言ってストレスを解消したりすることは、観客のごく自然な反応である。しかし、風餐は芝居を見た後で、改めて観劇料を決める。それが”風餐判定”です。

 例えば、Aという芝居は5,000円を支払って観たが、3,500円だという風に決める。

 誤解されやすいが、この行為は、決して、観劇料を査定することを方法として、芝居を ”批評”することではない。そうではなく、3,500円がAという芝居に置換するという意味である。全く別のものに、それを置き換えることである。そして、もっと言えば、”Aという芝居が3,500円を実現すること”、その行為をすることである。

 一般的に、”価格”は合理的、客観的な指標と考えられている。もしも、それが観劇料にも応用されるのならば、生身の人間が何かを再現するという不合理な事態に対して、一定の”金”が置き換えられるとき、”芝居”の側は激しく抗うのである。
 観劇料と芝居とは本来、”等価不可能な”関係で対峙しているからである。

 有料のパフォーマンスを見るときに、大戸屋式と、吉野家式がある。何のことはない、前者は先払いで、後者が後払いである。ほとんどの演劇は大戸屋であり、ストリートパフォーマンスなどで例外的に吉野家式(食い逃げもある)である。そして、先払いした瞬間から、観客は、実は”主観的”な、”感情的”な思いを、未来に見る芝居に対して抱き始める。これがすべての誤り、つまり、価格と劇との置換をやすやすと認め、その恋愛関係のようなものを深めようとする始まりである。その結果、私を含めた間抜けなる観客はぬけぬけとこう言うのだ。「今日の芝居は、安かった。トクをした」と。

 風餐は、価格というものに扇情的である意識を際立たせる装置を作り出しているのである。
 それによって、”従属された側に立つ芝居”を復権させようとするのである。

 そんじょそこらにある"劇評”とは水準が違うのである。ここまで、風餐判定について、短く書いたことで、鋭敏に本意を理解してくださる方は賢明な方々です。しかし、残念ながら、そういう方は極めて少ないでしょう。風餐判定のテキストを通じて、今後も実践していきます。

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