関東平野文学


 四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出を出した田舎の姐さんがおりおり通った。



 田山花袋 作の長編小説「田舎教師」の冒頭のくだりである。ZENは、小説の主人公である林清三の半生をめぐるエピソード(都会で活躍する文士を夢見ながら、東京に出る勇気もなく、北埼玉で教師をしながら悶々と独身で暮らすうち、肺病にかかって死ぬ)には全く関心を惹かない。(もっとも、利根川を越えた遊郭のありさまや、田山花袋自身と思しき文士が登場する場面など、異様に濃密なリアリティを感じさせる部分は無条件で面白かったが)
 ただ、いたるところに登場する関東平野の風景と、そこに住まう人間の生活を淡々と描く田山花袋の筆致に、ZENはひたすら伴走する東武鉄道となった。
 東武鉄道にとって、関東平野に住まう者が対外戦争(日露戦争)を起こそうが、四季の草花を数えあげようが、見渡す限りの地平線の上を突風が吹き渡ろうが、全く等価値なのである。何の区別も差違もないのだ。もしも、この等価の視線の徹底の作風だけをもって、”自然主義”と呼ぶのならば、館林生まれの田山花袋は、誠に自然主義を”体現”しているというほかにない。
 ZENは、花袋が確かに関東平野の茫漠さとそこに生きる具体的人間の日常意識の深層を、独自の愛着心を持って描出していることに深く感銘する。京都人、東京人という言い方はあるが、日本最大の規模を誇る関東平野の関東人というものがない。それは大いなる不満であるが、その不満は「田舎教師」の作品の存在によって少しく緩和される。
 田舎教師は次のくだりで終わる。



 秋の末になると、いつも赤城おろしが吹渡って、寺の奥の森は潮のように鳴った。その森の傍を足利まで連絡した東武鉄道の汽車が朝に夕に凄まじい響を立てて通った。



 日本各地に赴き、その古社をたずね、土地土地の魂と交流し、受け取った真心を再現することは、風餐の実践の一つである。

 
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