皆吉司さんのこと 正統派の怪人


 ZENは、俳人・画家の皆吉司さんと西荻窪の喫茶店でお話をすることがある。
 皆吉さんは「火事物語」という文学上の奇跡を処女句集として所有している。
 奇跡はたんに才能と努力だけの所産ではなく、自宅の火事という悲劇を”天啓”に変えうるディモー二ッシュな創造神の恩寵なくしては決して成り立ちえないと思う。果たしてこの句集の革新性を越えうる現代俳人の作品はありや?

 私事恐縮ながら、ZENがかろうじて次世代の俳句界を担う皆吉さんとお話ができるのは、かつて永田耕衣の「琴座」の同人として末席を汚していたという俳歴と十代後半からの現代詩の読み込みに対するいささかの自負心から来ている。

 恍惚と火事みる祖母の素足なり  (火事物語)

 火事跡を見つつ少年縄跳びす   (火事物語)

 モナリザをすこし離れて雷を待つ (船は鰐)

 耳あまたゆれて真昼の蓮池は   (船は鰐)

 夢の中で燃えてゐるチェロ西行忌 (燃えてゐるチェロ)

 引き出しを鹿が出てゆく星月夜   (燃えてゐるチェロ)

 インコ生く二百十日の鳥籠に    (夏の窓)

 春の夜のビデオ屋に犬入り来し  (夏の窓)

 夏の夜長き食パン見てねむる   (赤い絵の馬)

 珈琲と砂糖の距離や春の暮    (赤い絵の馬)


 皆吉さんの俳句は、句材や主義に依存しない柔軟さに富んでいるから一つの枠でとらえることなどできないが、ZENは画家の眼を持つ俳人の句として上記を挙げたい。これらの句からは、一枚の揺ぎない構図を持つ画を、また画家独自の生活模様や鋭敏な感性を見ることができる。俳句に無縁だった読者は、これを機に皆吉ワールドへ”侵入”されることを是非、望むばかりだ。

 皆吉さんの「どんぐり舎の怪人」は、俳壇にとらわれない爽やかな俳人論であり、滋味深い俳句論であり、外連味のない自伝的エッセイであり、俳句を通じた人間論でもある。こうした奥行きを持った、読み切れない味わい深さを持った俳人のエッセイというものが、いかに稀有なるものか、それは一にその人の資質の中にある。ZENは口悪いから言ってしまうが、俳句結社の”政治”に束縛されたあまたの俳人の教条的著作の跋扈するなか、本物の正統派は、”怪人”たらざるをえないという宿命を負う。

 荒らぶる詩魂は、西洋的には否定されるべき悪魔の業としても、俳句は日本のもの。見えすぎる過剰さは、伝統的自然観も突き破って進む。絵画において許される意志が、俳句にあって禁じられるはずもない。誠に唐突ですが、皆吉さん。加藤郁乎論をいつか上梓されますことを!

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