普遍識

 われわれ日本人は、普遍認識を獲得してはるか後に科学を獲得したのではありません。科学を経験的に受け入れる中で、普遍認識を学んできたことを私は率直に認めます。科学が、人間生活において実際に役立つことを知ることで、その背景にある”普遍性”の存在を意義あるものと考えるようになりました。

 普遍認識は科学よりも大きな概念であり、全人格的承認を必要とするものです。しかしながら、わが国では、残念ながら全人格的承認をともなう普遍認識が未熟と言わざるをえません。その理由は、われわれにとって、科学は隣の家に咲く美しい花々であり、その種子と育て方をいただいたに過ぎないからです。確かにその花は美しい。美と技に鋭敏なわれわれは、いつのまにかその花を改良し、隣の家よりも美しく咲かせることもできるようになった。しかし、なぜ、その花を美しいと思うのか。また、なぜ自らがその花を咲かせようと意志するのかを科学は決して教えてはくれません。それを識るためには、まさに一人一人の全人格的な承認という作業が加わらなければなりません。

 普遍認識は、目に映じる、肌で感じる現実の諸現象ばかりでなく、心のうちに想起されうるさまざまなイメージなどもすべて包含しています。つまり、自己の存在すべてを賭けて獲得するものです。それは決して”自然”に受け入れるものではなく、他人と同じことを言えば、それで済むというような村の寄り合いの共通事項でもなく、ましてや自分勝手な判断でもなく、自分の能力を駆使して否定せざる世界観をうちに確信することです。それが、個人の自由意志と呼ばれるものの本意であり、人間固有の価値です。

 普遍認識を持たない人間は、精神の病いを招きます。そして現にわれわれ日本人の多くが精神の病いに犯されているか、軽度の症状を呈しているのではないか。”価値観の多様さ”は、人類の発展の証であり、個々の相対的な認識間の融和や対立のなかで、社会は形成されると、われわれは考えているのではないか。それは未だ普遍認識に至らない、途上の旅人が抱く観念にすぎません。今日の日本人の精神的混乱の原因は、わが国に真の普遍認識が根づかぬまま、科学的成果の恩恵に依存しすぎていることにあります。

 宇宙年齢から見れば一瞬にもすぎぬわれわれの短い生涯にあって、普遍を認識できぬままに世を去ることほど無為なことはありません。一体、何のために思考能力をわれわれは具備しているのか。われわれの日々の欲望を果たすためだけに奉仕される能力であるのならば、他の動物の能力と大差がない。ましてや、それが世界の破壊につながるものだとしたら……。

 人類の発展は、個々人の普遍認識の涵養と成長であり、そのための最も重要な機能が教育であることは論を待ちません。


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