超える

 霊には二種あります。神道的霊とキリスト霊です。これは他人の知識の受け売りではなく、私自身が全身で受感したものなので、他者からいかなる批判を浴びても撤回できない。霊経験とは論理や思想を超えています。それゆえ、独善、狂人という反応を浴びます。歴史が豊富な実例を示しています。

 神道的霊は、地霊的エネルギーのことで、人間だけでなく、生物一般が受感します。古い神社は地霊が横溢する場所に作られている。私は縁あって氷川神社を20社まで現在、参拝しました。そのうち3社から受霊しました。渋谷氷川、千住大川氷川、上高田氷川です。そのときは、全身に実際に霊を強く受けて、身を以って、自分という存在は、この世界の中で本当に謙虚でなければならないという自然な嘘偽りのない感情に満たされて、ひたすら手を合わせ、「ありがたい。まことに、まことにありがたい。深く感謝いたします。ありがとうございます」という言葉が心の底から湧き上がりました。身体が震えて、ただ頭を下げて、手を合わせるほかにすべがありません。何もこの3社だけに霊が存するのではなく、私が受霊したのが、この3社だったにすぎないと思います。他の方はまた違うのかもしれません。

 すべての神社に霊的エネルギーが存在するわけではありません。地域のみんなが参拝するからとか、お正月だからとか、家族が昔からみな行くからとか、縁起がいいと言われているからといった理由でただ形式的に黙礼したり、頭を下げたりする方が多いです。私自身、そうでした。しかし、それはほとんど意味がありません。そんなことなら行かなくてもいいです。時間の無駄です。いにしえの人は、ただ形式で参拝したのではない。実際に全身に霊を受感したのだと私は確信しています。だからこそ神社を参拝した。全です。
 末世というのは、いわば霊を受感する能力が衰えた人間が大勢生きている世界のことである。裕福になるとか、便利になるとか、幸福になるとか、それらへの果てしない追求は、ただ霊的受感の衰えた者が勝手に生きている間に発見した価値観にすぎず、霊とは全く無関係のことです。

 今の日本の神社は明治時代以降の近代化の過程の中で、”人工的”に再編されたものが多く、見た目は立派な建物でも、全く無用の長物のものが多い。そういう場所に参拝して、寄付をして、何かを祈願して、自己満足にひたっていても、意味がほとんどありません。地域振興で、神輿を担いだりするのも、連帯感を味わって、地域の人同士の気持ちが安らぐという意味以上のものはない。伝統的な行事といっても、それを守るために命を投げ出すほどのものではなく、多くはたかが知れています。繰り返しますが、全身が受霊しなければ、ただの虚礼です。神社を参拝しないから不幸になるということはありません。その人に受霊力がないだけです。

 神道的霊は、邪欲を抑えろとか、何か人間に道徳的に生きることを要請しているのではないし、ましてや家内繁栄とか厄除けとか平和安寧といった世俗の願望を満たすために存在しているのでもない。あるいは祟りとか怨霊とか呪いといったものが機縁で存在し、増幅するものでもない。それらはすべて、受感した人間が、霊の存在に覚醒したときの反応のヴァリエーションにすぎない。神道的霊は、純粋なエネルギーであり、これを受けると非日常的に肉体が活性化し、精神が高揚します。それを聖霊と捉えるか、悪霊と捉えるか、どのように自分が心で受けとめるかで、人間が分かれるのだと思う。しかし、繰り返し申し上げますが、神道的霊は確かに存在します。理屈では証明できない。ただただ、あなたも心をできる限り赤ん坊のように素直にして、受感してくださいという他にありません。だから神道に教義がなくても少しも不可解なことではありません。

 キリスト霊は神道的霊とは全く違います。どこが違うか?はっきり申し上げます。キリスト霊は人間固有の霊です。他の動物は受霊しない。これこそが神道的霊に親しんできた日本人がキリストを受け入れない最大の理由だと私は思います。人間にだけ受霊するのは、”自然”ではないのではないか、”傲慢”なのではないかという疑問を招くから。もしも、人間自身が動物的にでなく、人間として生きようとしたときに、好むと好まざるとにかかわらずキリストが立ち現れます。しかし、別に動物的に生きようが人間的に生きようが、一人一人の縁と選びの問題で、倫理性は入ってきません。人間として生きる者の間で、倫理は生まれるにすぎません。

 私はカトリックでもプロテスタントでも無教会主義者でもありません。そういうキリスト教の一切の宗団に属していませんし、もちろん洗礼も受けていません。しかし、キリスト霊は受感します。これこそは自分が人間であることを真に納得する瞬間です。自分が猿ではなく、蟻でもなく、ただただ何にもまして人間以外の何物でもない(それが上等なのか下等なのかは全く関係なく)ことを深く自覚することができます。これは傲慢とか不自然な認識ではなく、理性と照らし、自分の生に対して腑に落ちる瞬間でもあります。キリスト霊の受感にあたって、キリスト信者であるという条件は必要ありません。誰にも開かれているからです。

 ペテロを始めとするキリストの弟子たちやパウロらは、実際に全身でキリスト霊を受感したのだと思います。けれども時代が下って、形式的に堕落したあまた多くの信者を生み出して、今に至っている。時おりキリスト教の刷新運動が起こりますが、これはキリスト霊を強く受感した者たちが、誰に頼まれるでもなく、全く自発的な動機で始まります。

 キリスト霊は、たった一つのことを全身に教えます。愛を生きなさいです。だからといって、自分にそれができるかどうかは全く別です。別ですが、人間とは愛なのだという人間固有の本質をひたすらに啓示します。愛は論理や思想や哲学で語りつくせるものではなく、それを最初から超えています。というか論理や思想、また行動や言葉の源泉です。新約聖書のヨハネ伝の冒頭に、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神であった。」とあります。つまり、キリスト霊は、人間固有のものである”言(ことば)”に働くことを示している。

 私がここまで書いてきたことを以って、「真性の妄想狂信者だ。邪教の使徒だ」と思われても仕方ありません。が、私自身は、自分のうちに確かに起こる受霊体験によって、ある一定の価値観を他者に押しつける気は毛頭ありません。なぜなら、実人生と霊とは全く別次元だからです。私が体験することを人に勧める気もないですし、また勧めたからどうなるものでもありません。そういう目的的なもの、ハウツー的なものではないからです。

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