忘私録

 均整の取れた肉体を具備する美貌の義人が言った。『因果応報思想は嫉妬深い人間中心主義です。神の人間的道徳からの超越を目指せよ』。彼女は全裸で潔白清廉だった。そんな面白くない女が銀ラメのパンプスを履いて桜通りをゆっくり歩いていたとしたら、この世は男の天国である。そう思うと強欲の亡霊は悲しむだろうか。いや無神論の博徒なんかは積極的に仏壇を大量生産し始めるかも。また残忍な医者が退屈な絶望を終わらせるために輸血を止めたとしても、福祉の村から次々と重症患者が出現して来て、医者は睡眠もろくに取れぬほど泡銭が入るかも。いずれにせよ、浮浪者が泳ぐ泥沼から引き上げられた聖者の死体はどこから見ても両性具有の様子はなくて、意味不明の紫の盲腸の手術の跡ばかりが下腹部の存在を主張しているさまは、仏様が雲上から見たら破顔一笑するに決まっているか否かこそが、頑固で無為なる哲学の命題であるかなどは今、果樹園で林檎を頬張っている児童には何の関心も惹起しまい。しかし、その園の近くに駐車している中古のバスの中で酩酊している一団は、覚醒剤で集団交接を目論むという馬鹿げた貴重なる人類の実験にいそしんでいるではあるまいか。もっとも、注射は尻の穴にさしいれるためにあり、またその後の放尿をともなう快感の不純な恍惚を、性倒錯者から盛んに説得されたとしても、死ぬことすら面倒と頷く鬱病の中年には余計な話で、いっそのこと天使が気まぐれな飛行船に乗って地上に下りて来て、唯物論者を一度に改心させられたらいいのにと夢想する猫は、人間の言葉がしゃべれないから一生虚無主義の世界で、路上を勝手に走り回る自動車にぶつからないように用心せねばならないだろう。ゴキブリなどは、この果てしない宇宙の中で、人間が住んでいるのは地球しかないと最初から悟っているので、執拗に慇懃に情け深く人間に片思いするしか術もない。
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