チケット料金=前売 3,000円





 

楽座風餐 第18回  雨の街   2013年5月18日

観劇者   林 日出民   府川 雅明


見終っての全体の印象

 一人の男が雨の街という異界に迷い込むという見慣れた異界訪問のドラマだが、安部公房の小説『砂の女』のように元の世界に戻りたいという男の心理によって導入は進んでいく。ここで問題なのは、テクストではなく、あえて演劇形式にする必然性が今日の芝居に果たしてあったかどうかだ。

府川 まず最初に確認しておきたいのは、観劇料を支払って、往復の交通費をかけて芝居を見に来る一観客としての僕の基本姿勢です。それに値するものかを問うのがこの劇評と考えています。林さんが今、問われた“小説ではなく演劇である必然性”によって僕自身の体調が崩れました。小説は全部を読み通す過程で、気分が悪ければいつでも中断できますが、演劇ではそういうわけにはいきません。見終った今、非常に気分が悪いです。断言しますが、この芝居は観客に不要な精神的な負荷を終始与え続けることを明らかに意図していますね。それは僕が観劇に時間とお金を費やす目的と矛盾します。


演劇とは何だろうか

 この芝居はテクストを舞台化する必然性に乏しいと言わざるを得ない。役者が「ここは雨の街です。」と繰り返し言えば、音響で雨の音を流せば、観客が了解すると思っているのだろうか。実在感を持った虚構として、雨の街が浮かび上がってくることは最後までなかった。しかし、それをいかに説得力を持って本当らしく見せるかが演劇であり、それを期待するのが観客だろう。

今日は、露骨に言えば、作者のマスターべーションにつきあわされた感じだ。不条理性というのは、誰もが多かれ少なかれ心のうちに所有しているもので、それぞれがおのおのの個性に従って表現するのは自由であり、今日はまさにその一つだろう。しかし、説明の不完全な異界に迷い込んだ男がそのまま放り置かれ、異界の住人も連れ去られたうえに、最後に観客に対して「雨の街を知りたければあなた自身が雨の街に行ってください。」などと突き放したように言う。

作者は気持ちがいいだろうが、見せられたほうは腹が立つ。こちらは別に予定調和的にカタルシスを得るラストを求めているわけではない。そうではなく、見る側に対する最低限のあいさつが足りないと思う。

府川 全体として激しく演者が舞台上を駆け回って感情を吐露したり、予想外の出来事が次々と起こるような芝居ではありませんね。静かな演劇です。ということは、必然的に演者の微妙な表情の変化や台詞の調子などに観客の関心は吸い寄せられます。

今日の芝居は舞台を四方から観客が取り囲んで覗き込むコロセウム式ですね。偶然、前回観劇した『十字軍』と同じです。芝居開始5分くらい、雨の街に踏み入れてしまった男は、僕の席からはずっと背中向きの位置で座ったまま話し続けましたので、彼がいったいどのような表情や仕草をしているのかは全くわかりませんでした。従って、僕はこの静かな演劇を最初から十分に堪能できず、率直に言って、置いてきぼりをくったと思いました。反対側に座っている観客は逆に、雨の街の住人である女の表情が見えません。

『十字軍』においては演者が、こうしたコロセウム式の欠点を補うために役者が常に動いていましたが、今日は全くその配慮を感じませんでした。観客に対して根本的に傲慢というか不親切だと思いましたね。演出に問題があります。


 日本には能という伝統的な演劇形式があり、そこでは見立てが大きな役割を果たしている。雨の音が会場に流れ、役者が「ここは雨の街です。」と言いさえすれば、もう雨の街は見立てられて成立し、自動的に観客に了解されたものと考えるのだとすれば、伝統の間違った継承だ。

府川 おそらく作り手は頭の良い方なんでしょう。教師でいえばこんな感じです。「二次方程式を使ってこの問題を解いてください。二次方程式の解の公式は勿論、みなさん当然わかってますよね。」つまり二次方程式がわかっていない観客は最初から排除されています。

 演劇としてのオトシマエがついていなかったのが今日の芝居だと思う。小説ならば最後に「ここまでの話はすべて夢でした。」で終わっても許される。しかし、演劇は観客の目の前で生身の人間が演技をしている。厳しい言い方になるが、ただテクストを暗記して口から正確にアウトプットすればいいというわけにはどうしてもいかない。目の前の観客を無視して自分の素敵な夢物語を話せばそれで済むということにはならない。演劇はそこを観客に説得するための集団的努力を要するゆえにこそ、観客からすれば足を運んで見る価値を持つと思うし、素晴らしければ賛辞を惜しまない。

府川 演者が4人と少ないですから、一人一人の演者の人物造形をしっかり仕立てることが必要になってくると思います。僕の率直な感想ですが、4人とも立場、設定はそれぞれ違うのですが、言っていることはみな社会経験に乏しい真面目な学生のように見えました。

もしも雨の街の住人である女がもっと成熟した大人だったならば、ただ雨だれを見続けることにも凄みが出てくるはずです。たとえ記憶が失われているとしても過去の人生経験の重層性が暗示されるからです。あるいは比較的自由な立場にいる旅人がもっと感受性と精神性に富んでいれば、女の入れる紅茶の美味しさだけに単純に満足するような平板さは回避できます。雨の街に踏み込んだ男がもっと“人間的”であれば、当たり前のことですが、雨の街と比較した人間の世界の自由の良さを旅人や女に具体的に話せるはずです。その具体性の叙述は、われわれ観客の舞台への感情移入の入口になります。「そうだよ。人間世界はいいものなんだよ。」と男を弁護したくなるのが人情でしょう。


勿論、その男の言葉の後で、人間世界を全否定したり、揶揄する旅人が当然いてもいいわけですね。皮肉や同情や疑念や無視といった複雑怪奇な人間心理を反映した言葉のやり取りの面白さが演劇の妙です。なぜなら人間が演じるのですから、男に親切を分け与えるだけで満足するような女の設定では介護ロボットになってしまいます。いや、あえてそれを舞台化したのだと言うならば、それには成功しています。しかし、結果として僕の気分は落ち込んで体調を崩したので、僕は積極的に評価しません。

 今日の場合、深みのある人間造型は演出の力ではとても補えない。脚本自体、観客がどのような反応を示すかという客観性の前提を持っているのか。あるいはそういうものを考えないことを是としているのか。


最後に

府川 僕は楽座価格は500円です。2500円分のマイナス評価は、演劇の内容への不満もさることながら、繰り返しますが自分自身の体にとって良くないからです。観客に対する悪意さえ感じました。

 私は700円。かつて同じ駒場アゴラ劇場で見た東北の一家族を描いた小品の実在感溢れる内容に感心し、同じ青年団系の演劇ということで期待して足を運んだが、裏切られた思いだ。残念である。


楽座価格=600円

 


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