チケット料金=前売5,500円






楽座風餐 第21回  兄帰る    2013年8月24日

〔観劇者〕 府川 雅明  林 日出民


第一印象

 2時間半のお芝居ですが、隙がなく面白かった。一人の人間の家族への帰還によって巻き起こる人間ドラマという単純明快なプロットですが、この一本の筋を最後まで引っ張った魅力を考えたい。

兄の幸介が長い放蕩の末に家族のもとに戻ってきて、家族の協力の中で更生していくプロセスが、観客から見ると安心感を与える。この安心感とは、安定や幸福を願う人間の本能的なもので、極端な形になると勧善懲悪ものです。善良な観客は心のどこかで、幸介が最後にスーツ姿となって会社に通うシーンを夢見さえするわけです。

ところが同時に、この安定や幸福に向かうと思われる時の流れが、じわじわと見えない不安の亀裂を思わせる。これが現実感覚というもので、作者は幸介に何一つ不穏な動きをさせることなく、いやむしろひたすら安定路線を持続させることで、底に流れるリアルな得体の知れない不安感を醸し出すことに成功していると思いました。中途で登場人物の「鬼の面」をチラリ見せてしまう芝居やドラマは現実感というものがわかっていないね。幸介周囲の劇中人物たちも、そしてすべての観客も、平等に幸介の今の顔を知らないというところにリアリズムがあり、その芝居を演者とともに呼吸する生きた時がある。もちろんラストのドンデン返しを予想していたのではありませんが、例えれば半年も一年も全然地震がない不安感、このまま行くわけがない、今に来るぞという不安感がどことなしかあって、最後まで引っ張られたという印象です。

と同時にまた、幸介が実はただの悪党だったというのではなく、面白いことに心理的に本当に一種の更生をしている過程がうかがえる。「悪党はしょせん悪党」という型に嵌まらない、これもまたリアリティです。

府川 幸介が更生している感じというのはどこから特に感じられましたか。

 やはり真弓が子育て、仕事、家事などすべてにわたって不器用なほどに正論を貫く姿に感化されたのだろうと思います。幸介は真弓とは初対面で、中村家のしきたりに従わない人柄というか人間力に目を覚まされた。どの場面でという決定的なものはないが、家を出たらミニバラを真弓と思って部屋に飾りたいと告白した時には、幸介は真弓の生き方に惹かれていたと考えるのが自然でしょう。真弓の友人の金井塚は、真弓の生一本さをはっきりさせるために宛がわれた役柄でした。


演劇のテーマ サバイバル

府川 僕は、この演劇台本は卓越していると思います。その理由は、日本の経済問題と家族問題の核心をきちんとおさえているからです。この芝居を見れば日本の姿がかなりわかる仕掛けになっている。

まず経済問題についてですが、この芝居の初演は1999年です。前年に銀行の自己資本比率が対外圧力によって国際会計基準まで強制的に高められた結果、銀行が市中に出す金を絞ってしまい、企業の倒産増加、あるいは経営防衛として自己資金の確保から賃金低下、従業員の合理化が始まった。開発費も急速に冷え込んで国際競争力を失います。自殺者も突然、1.5倍に跳ね上がりました。現在に至る慢性的な日本経済の悪化の端緒の年に上演されている。劇中で叔父が「本当にね、人減らしがすごいんだよ。」ってしみじみ言いますね。これは極めて重要な一言です。山一証券倒産のエピソードも見落とせません。

なぜ、好き放題をしていた兄が家に戻ってきたのか。それは日本経済が悪化したからです。そうでなければわざわざホームレスのふりまでして家になんか帰らないでしょう。大きな経済変動を一人の人間に象徴的に集約している。男のやんちゃ遊びは終わったぞという最後通牒ですね。

今回、再演しましたが、日本経済は1999年と全く変わっていない。ですから、さすがに放蕩できる余裕のある幸介のような存在は絶滅したけれど、状況に変わりなく、むしろ深刻化しているので、少しもテーマは古びていません。中村家のスタイリッシュとも言える建物はまさしくバブルの遺産です。幸介が売春ツアーコンダクターで正春がその買春ツアーに参加していたのもバブルの産物です。

第二の家族問題については、1945年の8月に敗戦した日本は家父長制が崩壊して、家族をつなぎとめるアイデンティティが消失しました。それでも生き残った日本人たちの慣性の法則と、死んだ夫の遺産を引き継ぐ嫁の保身によって何とかごまかしてきました。しかし、20世紀も押し迫っていよいよその付け焼刃の偽装も剥がれた。中村家を巡る悲喜劇はここから発生しています。

 家族の当事者にとっては真剣なことも、外の人間からは滑稽に見える。

府川 本当にそうですね。真弓が結婚したとき、すでに中村家の御柱は死んでいてこの世にいない。中村家のしきたりの価値など思い込みの幻想にすぎない。叔父だって高血圧ですから、余命いくばくもない。

私はこのお芝居は日本人のサバイバル劇だと思っています。これから日本で生き残るのは、善人の真弓と悪人の幸介です。幸介は真弓が持つサバイバル力に感化されたのだと僕は思う、やろうとしていることは真反対ですが。ですから二人が指切りげんまんをしたシーンは象徴的です。登場人物のほかの誰も指切りげんまんするだけのパワーすら持っていません。

 私の子育ての経験からも実感しますが、真弓と金井塚をめぐるごたごたは、子供を通じての親同士のつきあいの厳しさをよく出していました。

府川 欧米では決してありえない日本の集団主義、グルーピズムが生んだ悲喜劇ですね。

 われわれは途方もなく無駄な労力を使っているわけです。

府川 絶望ばかりでは先に進めません。演劇には世直しの機能があると僕は思う、どこまで影響力を与えるかは別にして。なぜなら、わが国にはもはや確たる家族や世間づきあいのフォームはないんですね。もしあるとすれば、テレビドラマなどで演じられる世界だけです。そのモデルが受け入れられたとき、見習って模倣する人たちもいるでしょう。現実には無理でも一つの目標として。例えば、武田鉄矢が演じた金八先生のように。

 ひとつの合意形成に収斂することを当然のものとする日本の共同体、そんなものはもうないと多くの人が思いながら、しかし新しいコトバが見つかっていない不幸。21世紀に入って、若い人の間で“KY”(空気読めない)人間を糾弾するかの言葉がはやる気味の悪さ。金井塚もひとつの合意=空気の中に納まろうとするし、中村家の「上野の件」とかいう符牒も同じことだ。だから幸介と真弓を除いて、金井塚と中村家の面々は皆滑稽です。同時にこの滑稽さを笑うわれわれ日本人の顔が歪んでしまうところにこの芝居の今もなまなましく生きた力がありましょう。


演技について

府川 冒頭のシーン。出戻りの兄を嘆く保と百合子のかけあいの場面。私はあまり高く買いません。お二人ともテレビドラマの予定調和的演技をしていた。相手が話す前からリアクションがわかってしまうような感じ。ですから率直にいって、この水準のまま芝居が続いてしまうのかと不安になりました。しかし、その後すぐに真弓役の草刈さんが非常に自然な感じで入ってきたので、杞憂に終わりました。個々の役者の表現のテイストが違うのは、プロデュース公演にありがちな傾向ですが、それがうまく生かせるときと生かせないときがありますね。

 出だしが、長く不在の兄が突然戻ってきたという、非日常なシーンですが、表現の仕方はいろいろあるわけで、やや誇張しすぎていたのかもしれません。それにしても背筋の立った草刈さんの凛とした立居振舞はバレリーナ出身ということもあって動きが決まっていましたね。役柄にぴったり合っていた。

府川 同感です。芝居を引き締めるのは、セリフや展開だけでなく、演技者の立ち姿だなと思いました。その意味では、草刈さんが相手役なので努力されたのか、いつもそうなのかはわかりませんが、鶴見辰吾さんの背筋もまっすぐ伸びていたのが印象的でした。


正春の位置づけ


府川 男4人に女4人。バランスのとれた配役ですが、小沢正春という役が本当に必要だったのかは一考に値します。

 芝居ではよく日常ではありえない偶然事が起こります。ずっと以前買春ツアーでツアーコンダクターと客として顔を合わせた正春と幸介がまったく状況を変えて今度は義兄弟として出会った。これは日常ではありえないことが起こるから芝居は面白いというサービス精神なのだと思うが、こんなことがいくつも重なったら芝居はぶちこわしでしょう。観る側の現実感が奪われ、心の共鳴がなくなるからです。

舞台上の役者たちは知らないが、観客だけは正春と幸介の間に何かあることを知っている、これは本当にドラマの面白さというものなのでしょうか? たとえば映画でも劇中人物たちは皆知らないが観る側だけはお姫様が食べるリンゴが毒入りだと知っていてはらはらしてしまうのはよくある構図ですね。しかし私は最初に、幸介の今の顔を劇中人物たちも観客も平等に知らないところに芝居を観客が演者とともに呼吸できるのだと、つまりこの芝居のリアリティの秀逸さを申しました。多分そこには映画と芝居の同じからざるところがあるのではないか。芝居は確かに幸介や真弓と今このとき同じ空気を呼吸している。このリアリズムを裏切るか裏切らないかは、大人と小人ほどの違いがある。今回の芝居は大人の芝居です。ただし正春についてだけは「よくできたお芝居ですなあ」。

府川 幸介の過去の“罪行”のアリバイ証人としての正春の設定ならば、他の役者と比べてやや必然性が軽く、百合子の現在の夫になっているのはやや無理がある。しかし、林さんが言われたように、金井塚が真弓の引き立て役だとしたら、正春は幸介と同じようなポジショニングになるのかとも思うが。

 正春以外の役柄はいずれもプロットの流れの中では必然性があって無理がない。その無理のなさを前提にしてこそ、この芝居は生きてくる、つまり観客の生きた心の共鳴があると思うので、正春の登場はやはりマイナスだと思う。


楽座価格=7,000円

 


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