チケット料金=前売 3,300円





 

楽座風餐 第24回  それはまた別の話   2013年11月23日

観劇者   府川 雅明   林 日出民


 全体印象

府川 今回、この劇団スタンド・バイを選んだのは、51回目の公演という情報を公演チラシで見たからです。50回以上続いているということは何かしらの理由があるのだろう。それを知りたかった。電話予約したが返事がなく、心配になって、メールでも予約したが、こちらも連絡がなかった。こういう場合、経験上は、まず良い芝居は期待できないものですが、案の定でした。

 最初の5分で、あとの1時間45分をどう耐えられるかと直感したが、最後まで苦痛に満ちた芝居だった。どの部分かではなく、ずべてがつまらなかった。第一印象はそれに尽きる。ストーリーに何のドラマツルギーも感じられない。キャスト一人一人の演技がいずれも稚拙だが、そもそも造形すべき人間像が脚本の中でしっかり練り上げられていない。もし、それがあれば、役者は方向性を持って努力する動機も生まれてくるだろうし、こちらもそれに沿って、脚本の解釈が秀逸だとか、表現力が不足しているのではなどと言えるのだが、それすらないので、評価のしようがない。また、笑いのセンスが私にはことごとく空振りだった。

府川 テレビの主題曲のいじりとか、同じ絵描き歌を2回も続けるとか。

 とにかくいたたまれない。ただ暗記したセリフを体を動かしながら延々としゃべり続けているだけなのだから。学生の青二才ならば、まだ釈明の余地があるのかもしれないが、これは社会人の芝居だろう。こんなゆるい内容で3000円以上支払わせるという感覚が理解できない。少なくもまっとうなサバイバルをしている大人の社会ではこんなものは絶対許されない。しかし、これは作演出者一人で築いている世界ではないだろう。こうしたゆるい芝居を求める側、客層があるはずだ。

府川 だからこそ50回以上続いているのかもしれませんが、それについてはまた後で改めて話すとして、唯一良かったのは、役者の声がはっきり聞こえたということです。だから、声優さんたちの演劇集団というか発表の場なのかなと思いました。表情は乏しくて平板だし、動作も全く練られておらず、ただ立って交代でセリフの持ち分を言うだけでした。演出の手が全く入っていない感じです。一例を言いますと、新人編集者が作家宅で肩を揉むシーンがありますね。そもそもこういう設定自体、古臭いですが、とても肩を揉んでいるようには見えない。ただ形式的にさすっているだけなんですね。にもかかわらず、作家は気持ち良さそうなリアクションをする。どの演者も観客のほうにしっかり相対せずに目が泳いでしまっていた。

 ストーリ―、セリフ、動作があってこその複合的総体の面白さが身体の中に集約されているのが演劇なのだから、それが欠けるということはもはや演劇とはいいがたい。

府川 ですから、僕は演者が全員登場した後は、ずっと目をつぶっていました。

最後に存在感のある役者が出てくるのかなと期待したいたんですけどね。目をつぶって声だけを聞いて、自分の勝手な映像を作り上げました。すぐにわかったことは、これは芝居ではなくて、マンガなんだということです。でも、この発見は僕には嬉しかった。何しろ、生声の前で目をつぶって、絶対に舞台では許されない空想をしたりするのはスリリングなことだから。


 嘔吐と携帯

府川 芝居を見て、面白くないとか上手くないとか言う説明は科学ではないので、もとより説得力の問題ですが、僕は今日は、早々に芝居の内容に愛想つかしてしまって、なぜこの劇団が50回以上公演を維持できているのかを芝居内容とはまた別の視点で考えることに関心が向きました。会場に来ている客層に目が行くことになります。

この楽座風餐というのは、劇評が中心ではあるのですが、観客も含めた演劇という現場そのものを捉えたいという目論見があるわけです。それも込みでの楽座価格だと思っています。一つびっくりしたことは、私のすぐ前の観客の中年女性が、芝居が始まって30分くらいのところでいきなり嘔吐したことです。観劇中に嘔吐する人を初めて見たので新鮮でした。ビニール袋を用意していたので、習慣性のある人なのかとも思いますが、私自身は芝居が退屈でしたから、一瞬『芝居内容に率直に身体が反応したのか。』と錯覚しました。劇場ごと違う世界に迷い込んでしまったのかと不思議な感じがしました。これが、今日の一番の体験です。

 芝居の始まる前に、携帯をオフにするよう注意があったにもかかわらず、後半の盛り上がりのところで、客席から着メロが二回も鳴った。しかも、会場の中で電話の返事をしていた。この緊張感のなさ、ゆるさは確かに通常の世界ではないなと思った。

活字志向の、ある種の忍耐を要求してストーリーを深く追っていくような作品とは全く違って、ゆるい枠組みの中でワンシーン、ワンシーンごとの刹那的ひっかかりを用意する作りになっている。かといって、面白いコントがあるわけでもない。こういうものを受け入れる観客がいるからこそ成立するんだろう。

府川 活字には触れずに、テレビやコミックだけを見て生きて、そこから構成される価値観を表現に反映させるとこういう芝居ができるんだというわかりやすいサンプルではないですか。

僕はマンガ学会員なので、マンガに引きつけていえば、マンガというメディアは、物事を正確緻密にではなく、漠然と理解したつもりになるのにぴったりなんですね。『マンガでわかる日本経済』とかね。実際にはそんなに簡単に日本経済はわかるわけはないのですが。このわかったつもりでできあがったイメージの世界が、今日の芝居のベースです。劇中、テレビネタを言って、反応が悪い相手に「テレビ、見ていないの。」ともう一人が詰問するセリフがありますね。まさに、この芝居の本質を露わにしました。

 世の中のハードさに入っていけない人たち、通常、舞台で展開されるようなドラマチックな人間関係からはできる限り遠ざかって、傷つくことのないバーチャルな世界で生きていきたい。でも、部屋の中に引きこもってコミックやビデオばかりに浸っているのはさびしいので、そういう世界を共有している“外の世界”と出会いたい。その外の世界、実社会とは違うコミュニティーの機能をこの劇団は果たしているのかもしれない。

府川 それを象徴的に表していたのは、「赤裸々」という言葉に対する過敏な反応ですね。「赤裸々って、赤に裸って書くんですよね。」と。そういう言葉尻にこだわって、会話をできる限り当たり障りのないものにしようとする。

 踏絵なんだね。そこで観客から笑いが出たのは、『何、ナイーブなこと言ってるんだよ。』って排斥するんじゃなくて、それを受け入れているよという記号。人間が社会関係を持つ以上、軋轢があるのは当然なんですが、人と会いながら、互いの軋轢を回避しつつ、傷つかずに人づきあいしたいというナイーブでゆるい共同体の世界。しかし、それは決して目新しものではなくて、日本的な村落共同体と同じだが、今は村落社会が崩壊してしまったので、テレビやコミックのイメージや共感部分で、知らない同士でもつながろうということか。

府川 前回の芝居と比較すると興味深いです。前回は安心社会が崩壊したあとの人間像を模索していましたが、今回は安心社会にどっぷり浸る空想人間像ですから。

僕はコミック同人誌とかカラオケパーティーを想像しました。同人誌の世界は立派に市場が成立していますしね。カラオケでいうと、舞台に上がっている役者たちは観客と同じ地平なんです。また、同じ地平でないといけない。マイクの順番待ちと同じで、『次は自分が歌います。演じます。』という感じで他人の演技を見ている。だから、ここでもしもプロはだしの演技なんかやろうものなら、緊張して拒絶感が生まれて、逆にしらけてしまうわけです。

 作演出の高崎さんがやりたいことをしていて、ここまで続いてきたというよりも、続けるうちに、共同体を再現する役割が出てきてしまったように見える。だから、我々が外で何を言おうと変わらないでしょうし、変わりようがない。

府川 引き受けてしまっているんですね。

 芝居を取り囲む世界ができ、それが生き続けていて、作演出者はその中の代表者のような存在になっている。我々の批評の出番はないとも言える。

府川 例えば、鋭く社会を突くような単発の芝居などよりも、むしろこっちのほうがしぶとい根強さがある。

林 批評の言葉が要らない。その意味で、ぞっとするほど怖い芝居だ。こういう世界が現実に存在して、少ないながらも観客を呼んでいる。今日のような芝居を楽しみにやって来る観客がじわっと広がっていくと考えると不気味だ


楽座価格=700円

 


                                                                         ▲楽座TOPへ