チケット料金=前売3,500円






楽座風餐 第23回  武器と羽    2013年10月26日

〔観劇者〕 府川 雅明  林 日出民


 嘘と小麦アレルギー

 今回の芝居が何かメッセージ性を持っているとしたら、嘘が主題ということになります。現代人の生活は嘘で塗り固められている、あるいは真実はどこにもないことを批判的に暴く、あるいはこの世界は虚実ないませであるといったものか。私自身はそれらいずれを選ぶのでもなく、また、いずれでもあると思いますが、それより何より、これは劇評ですので、主題がどうあれ、いかに演劇的に表現されているかが一番の関心です。そのあたり、府川さんはどう見ましたか。

府川 うーん。僕が一番面白かったのは、舞台が始まる前の作・演出者である林灰二さんの口上で飛び出した体験談だなあ。ピザを食べすぎて急性小麦アレルギーになって、救急車に運び込まれたっていう“事実”。その後に始まるお芝居がどんなにインパクトがあって、みんなで懸命に作り上げたものだとしても、この事件の切実さの前では所詮は嘘、作り物でしょうということになる。

誤解されると困るけど、僕、今日のお芝居が面白くなかったって言いたいんじゃないんですよ。本編の面白さはあとで改めて話します。つまりね、はっきり言うと、この劇団は林さんのものという印象です。舞台上でも林さんがホームレス役で出てくるけど、その場面だけ浮き立って一番面白い。まだ三十代半ばで演劇者としては若いんだけど、人生がよく見えている人なんですよ。勿論、舞台表現上は経験不足とかごまかし方とかいろいろまだまだ工夫すべきところがあると思うし、林日出民さんからも厳しくそのあたりの指摘があるでしょうけどね。

若くて資質に富んだ表現者を発見したなって、僕は少し高揚した気分です。


 ハグと引きこもり

府川 少し理屈を言わせてください。理屈ですから、平面的解釈です。演劇は立体なので、あしからず。社会学者の山岸俊男さんの主張する理論に、今日の芝居は見事にあてはまっている。文化功労者の山岸さんの理論を知りたい知識層は、今日の芝居をまず見てくださいと言いたいくらい。

山岸理論を僕なりに解釈すると、日本は戦後からつい最近まで、安心社会を維持してきたんです。安心社会というのは、終身雇用制に見られるように、同じ穴のムジナの共同体世界で、良い意味でも悪い意味でも呉越同舟のぬるま湯の中で暮らしてきた。ところが、経済がグローバル化した今はもうそんな時代じゃない。警察のような公務員を除けば、いつまで仕事が続けられるか保障がないという不安の中で日々を生きている。かといって、例えば米国のように多民族で、一歩外に出れば見知らぬ他人ばかりのような社会で生き抜くために、自分から積極的に動いてゼロから信頼を築いていく知恵や伝統もない。ネット社会の情報過多の中で耳年増になって、行動が規制され、怯え切っているのが現状でしょう。勿論、経済が低迷していることが一番の要因ですけど。

だから、今の日本の若者の多くは、親や大人が生き方の模範にならないし、日々の不安定さの中で何をしていいのかわからない。仲間内で寄り合って、嘘も本当もわからないみたいな宙ぶらりんの中で、ソウル・サーチングしている。

 気分としてのモラトリアムということですね。生まれてきたことに意味を求めようとするのは若い人間の特徴で、それが高じて世界全体が暗澹たるものに見えてしまう。登場人物が共通して何かみな苦しげだね。私などは根本的に生きる目的、理由などはないと思っているので、実際は、目の前にある状況に対して見切れば、何ということもないんです。

府川 “今の若者”っていう言葉は、いかにもジジイ用語なんだけど、僕は上から目線で言いたいのじゃなくて、若者のほうが体力も時間的余裕もあるし、現在の状況を、意識無意識含めて一番敏感に察知していると思うので、あえて強調したいんです。

今日の芝居で、正義感に溢れた新人警察官と、手練れのベテランというテレビや映画でおなじみのコンビのパターン・シチュエーションが出てくるけど、あれは安心社会が今でも生きている日本の公務員社会の一つの写像です。

 お隣の中国をはじめとして警察くらい信用がおけない職業はないというのが世界の常識で、今日の芝居で、警察が信頼失ったらどうするのかと言ってましたが、改めて日本は特殊な国だと再認識しましたね。その意味で、今日の芝居は日本国内のモラルから出ていない。

府川 ホームレス役の林さんが、初対面の女の子の胸にタッチしますね。あれは役得のシチュエーションなんで許せないけど(笑)、日本人がこれから進む流れを象徴的に垣間見せているんですね。胸をいきなり触るなんていうのは勿論犯罪的なんだけど、外国社会では相手を信頼しているから、“安心できる存在”とわかっているから、キスをするわけじゃないですね。

この国では、安心社会が壊れて、何かのアクションを起こして信頼を得るグローバル化の波の途上なんだけど、アクションをちょっと起こすと過剰反応ですぐ周囲から犯罪者扱いされるような、不器用なナイーブな中にいるんですね。

まず肉体接触をすることをきっかけにして、信頼関係をスタートさせようというのが、ハグだったり、握手やキスだったりする。多くの日本の若者は潔癖症に縛られてこの一歩を踏み出せずに引きこもっている。今日のホームレスは、いわゆる本当のホームレスじゃないんだけど、別の象徴になっている。潔癖症や安心症候群の外にいる存在。携帯を見ないから行動が生き生きしている。

 面白いことに、欧米から帰ってきた若い連中は一様に、ハグや握手やらに感動する。あの感じと言うのは、違う共同体の人間が現場で確認しあう作法です。

府川 前々回の『兄帰る』の劇評のときにも取り上げましたけど、戦後、家父長制というのが完全に崩壊して、父性が芝居の中から脱落してしまった。残る権威は冷たい官僚機構の法律文書ということになる。今日の作品でも、官僚の下部機構としての警察は出てくるけど、父性的存在は出てこない。ホームレスはあれは父性でも何でもないですから。

 府川さんのいう父性って何ですか。

府川 簡単にいうと、良くも悪しくも、理不尽だろうが信条だろうが、とにかく物事を決めてしまうことです。情報選択の乏しかった時代の人間像です。

 なるほどね。親父が息子の人生を決めつけるから、息子としては当然、反発する。そこにエネルギーが生まれる。何故生きるのかとか何故そんなことを言うのかという悠長な問いかけの前に、まず親父という壁と戦わなければならない。

府川 それで必死に戦っている間に、かなりの時間とエネルギーを食いますからね。家を出て、仕事を得て、結婚して家庭を持って、初めて対抗できるみたいな。逆にそういう頑強な壁がないと日常が平板になって、何故何故ゲームを不毛に続けるヒマも出てくるし、自分探しの旅も終わらない。どっちがいいってわけじゃない。と、以上ここまで理屈を言いました。元に戻しましょう。


 二つの課題

府川 林さんのほうから、まとめて今日の作品の課題を挙げてもらいたいのですが。

 大きく二つあると思いますね。一つは、状況設定の突き詰めの甘さです。最後のほうで、警察が古い遺棄死体を発見して、それを報告すると仕事が増えてしまうので、また埋めてしまう件があります。常識的に言って、こんなことを警察がやればどういう事態が起きるかははっきりしています。それに気づかない警官という設定自体が現実には全くありえないことですし、あまりにも浅はかでギャグになってしまい、そこまでの物語を支えていたシリアスな前提は崩壊します。しかし、「このお芝居は嘘です。」というエクスキュースを最初に明らかにしているので、ありえないこともありえることになる。この境界を曖昧にしてしまうと、どこまでも作る側の任意な拡大解釈が許されてしまい、現実の足場としても虚構の足場としても中途半端な作りになって、リアリティーの乏しい舞台になってしまう。「前シーンは嘘でした。このシーンも嘘でした。」のはぐらかしの繰り返しで観客の関心を引きつけ続けたとしても、結局のところ、コンビニ店員が客をカッターナイフで刺すラストシーンも何を示しているかが不明のままで、消化不良は否めない。

ところが、舞台上には変な魔物がいて、われわれの実生活のリアリティーとは違うリアリティーが確かに流れている、実人生では決して許されない原則も乗り越えてしまう時空間が確固として存在します。それに対して、それにのっかって「舞台上のリアリティーだからいいだろう。」で甘えてしまうとしたら、金を払って、期待して舞台を見る側から良い反応は得られないと思う。

府川 コンビニで働く男とか猫に餌をやる女とか、現実社会をあまり背負っていない人物像には説得力があるんです。一方、警察官は受け売り的な感じ。推測するに、作者が実体験で知悉しているキャラクターの造形はリアリティーがあるけど、そうでないのは、“作って書いたな”という感じで、全体としてでこぼこした感じがある。登場人物を多くするとそういうことが出てきますね。

 社会を背負う背負わないでいえば、それが対立軸になってドラマを盛り上げているわけでもない。

小説と単純に比較するのはいけないかもしれないが、例えば山崎豊子の『大地の子』なんて満州を舞台にした小説は、自分が体験してもないのに読んでいて心打たれるのは、著者が取材調査の中にハートを入れているからなんですね。現実に片足を置きながら、舞台上、あるいはテキスト上に片足を置くというのが説得性を高める上での共通点ではないか。

もう一つ設定の曖昧さでいうと、ホームレス役の林さんはなかなか良い演技をしていたのだけれども惜しいと思うのは、行方不明の義理の子供を探しまわって、11年間も同じ場所にいるというのが全く解せない。本当に狂気の世界の住人なのであれば納得がいくんですが。

演出としての林さんは、一人一人の配役に気を配って、各役者を見ながらあて書きしたのではないかと思えるほどに、ミスキャストはないんですが、状況設定のほうを細かく見ていくと雑な面がいろいろと出てきます。それが第一の課題として挙げられます。

府川 なるほど。

 もう一つは、時代が移り変わっても芝居としての全うさというものがやはり変わらずにあって、その正攻法の作り方を古いとか考えると、横道にそれてしまうのじゃないかと言うことですね。今日の芝居で観客の心の琴線を震わせるところは、浮浪者の男の生き様であり、その実姉の生き方だと思うんです。それは林さんも承知しているんでしょうけど、その全面展開だと紋切型で新しくないと判断したのか、今日はその他の人たちで勝負したわけだね。

府川 紋切型とはどういう意味ですか。

 姉弟の二人とそれ以外の登場人物との間の対立軸を立てることで、主題を際立たせるという構成ですね。その軸が見えないので、ラストシーンが何だかよくわからなくなる。題名もわからない。羽が生えて飛んでいきたいといったセリフが複数の若者にあったが、嘘の世界の中で、純粋な心の思いが出た言葉なのか。あるいは、そうした純粋な言葉に対して、人を傷つけ、自分をも傷つける武器を対置せざるをえないという意味なのか。そうした言葉に現代の若者の心象風景を表徴させているということなのか。

ただ、武器が刃物の連想に直結するのは幼稚です。そうではなくて自分の内面の鍛錬が、つらい現実から脱却する武器になる、何故を問い続けることが武器になるのじゃないか。もっとも、こんなことを言うのは、若者にとっては、五十代の頭の固い親父なのかな。そのような批判を浴びてもね、忘れちゃいけないのは、繰り返すけど、心の琴線に触れるということは芝居ではなかなかに普遍的なんだと思う。

府川 自分をふりかえっても、歳を取るまでは、その“普遍”には満足できない。一番反抗したい部分なんですね。それはわかる。でも、ただ反抗のための反抗で終わってしまう虚しさがないかどうかの点検は必要ですね。それでも表現って、そのときに真摯に思ったことをやむにやまれず表に出すことだから、常に超えていける魅力がある。どんな芝居も無価値なんてありえない。

 2時間たっぷりこれだけの世界を創り出しているのだから、なぜを問いながら苦しんだというのはよくわかります。


 二つの可能性

府川 僕は今日の芝居に二つの可能性を見ました。一つは、先ほど林さんが対立軸が見えないと言ったが、僕は登場人物間の対立ではなく、並列が意図されていた芝居だと思うんです。そこには宗教的要素も絡んでくるんですが、登場人物たちは、、いわゆる世俗的な、この世的世界と超越的な、あの世的世界の両義的なものの中で生きている。ただ、その両義性の認識をはっきり自覚している人間、その認識の前で戸惑い、混乱している人間、両義性を気配でしか感じられない人間の大きく三種類がいて、そのグラデーションがドラマを動かしている。この演劇構造は、かなり面白いし、日本にもこうした演劇が出てきたんだというリトル・サプライズがありますね。

で、一番両義性を自覚しているのがホームレスの実姉ですね。特定はされていないが、キリスト教らしき宗教の信者です。子を失っても、それを運命として甘受し、祈ることで自分を強く保とうとしている。さっき、自分探しで不毛な時間を費やす若者みたいなことを言いましたけど、林さんは舞台の中で実はモラトリアムに対する答をきちんと出しているんですね。真実か嘘かというのは、信じるか信じないかの問題だということです。信じる決断がない限りは、問いかけの前で延々と時間が過ぎゆくだけですから。

ホームレスや犯罪の狂言者たちやコンビニの店員たちは、両義性の認識の前で自分が不安定になっている人たちですね。彼らはこの世的な世界と折り合いがあわず、あの世的世界を認識しつつも、その把握が曖昧なために自我が翻弄されて、事件を巻き起こしたり、犯人の肩代わりになったり、自死を願ったりする。事件の部分に目を当てて芝居を見るとき、一番ドラマっぽいのですが、ここに引きずられすぎると意味がよくわからない印象が残ってしまう。そこが目立ってしまうと観客には本筋が見えないので、失敗と言えます。

警察官たちは、この世的世界と折り合いをつけている人たちです。が、彼らにも目に見えないあの世的な存在の気配を感じることもある。しかし、舞台上では彼らにはモノローグが与えられない。現実に張り付いているからです。

僕が強く関心を持ったのは、ホームレスとコンビニ店員の会話ですね。形而下の日常の話をしていて、ホームレスがいきなり形而上的話に移ると、店員がそれにすぐ呼応して形而上的な話をし始めるところです。これは非日常的な演劇的な会話ですが、しかし、潜在的に全くの他人同士の魂が深部で共鳴し合っていることを暗示させている。ユング的とも言うのでしょうか。このシチュエーションの創造に、可能性を感じました。

世の中が不景気になって、生産性が停滞して、人々が未来に悲観的になり、価値観も崩壊してくると、かつての西洋の中世に似た世界がじわじわと押し寄せてくるんだと僕は思う。その雰囲気が出ていましたね。

もう一つの可能性ですが、さっきの話とも関係しますが、並列性を際立たせるためにたくさんの人物が登場するということです。本筋とは絡まない人物も出てくる。その広がりに僕は注目します。今日のお芝居は、7、8人のキャストで展開できないこともないと思います。その場合、時間は当然短くなりますが、それでも僕が考える先ほどのテーマを示せるとは思うし、むしろ多くの作家はキャストを絞ってより焦点を見えやすく構成するのではないか。ですが、それではダメなんですね。予算のことを斟酌しなければ、テーマが散漫にならない限り、できるだけ多くのキャストが出てくることが面白い。特に今日のように、人間がこの世的価値観ではなくて、あの世的価値観から選別されるような世界の物語では多くのサンプルが必要なんです。サンプルというのはちょっと非人間的な表現ですが、要するに、観客が、登場人物の誰に自分が一番近いかを認識させる効果を持たせることができるからです。


 楽座価格

 3、500円です。つまり、マイナスでないということは見た甲斐があったというプラス評価なんです。ただし、何か強烈なインパクトのある一本の矢を受けたかった。それを受けたら価格がグっと上がるんですが。やられちゃったというところまでは達していない。

府川 僕も3、500円です。払った額と同じです。



楽座価格=3,500円

 


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