チケット料金=前売5,500円






楽座風餐 第32回  地の乳房   2014年 10月 26日

〔観劇者〕 府川雅明  林日出民


 第一印象

 重厚な芝居でした。休憩を含めての3時間、のめりこみました。方言が非常に良かった。タイトルの『地の乳房』の地とは、演劇上では方言のことではないかと思いました。地面に密着した言葉という意味です。私がふだん使っているいわゆる標準語は地面から浮いている気がした。この方言は作家、水上さんの故郷、福井県若狭地方の言葉であり、また主演のあいは、作家自身の母親像とも重なる。そうした深い経験、渾身の思いから出てきた戯曲ですね。

府川 自分が逃れようもなく日本人であることを改めて深く確認させられた。天照大神に遡る地母神の世界、それに覆いかぶさるような男性原理の封建的社会。もう一つは、舞台となる若狭地方の独特の土地柄、風土ですね。生産性の低さから来る貧困は、この地域ばかりではないでしょうが、それに加えて京都という伝統的な文化の厚みを持った経済都市が近くにある。露骨に言えば、その都市の持つ引力によって搾取される人材の供給地だった。今は、関西の経済と生活の基盤となる電力を生産する“原発銀座”なわけですが。

 府川さんが言うように大正期といっても地域は貧しかった。京都は舞台としては直接は出てこないが、陰に陽にその存在のリアリティーを垣間見せていました。言葉の力の持つ凄みというか、その言葉が演者の肉体から絞り出されるだけで、ぷんぷんと土地の匂いのようなものが醸し出されてくる。

脚本の素晴らしさと同時に、その匂いを引き出した演出家の手腕、そして実に手堅い青年座の演技陣、すべてが結び合い、絡み合って一つの世界を作り上げている。新宿歌舞伎町の喧噪を抜けて紀伊国屋のビルに入って、劇場に腰を落ち着けると、そこに異次元の世界が開かれて、それに浸る。この経験には唖然としますね。

府川 冒頭に、一族郎党が僧侶を中心に舞台いっぱいに居並んで座している。まずこの演出設定に引き込まれた。われわれが核家族化している今、典型的な現在の舞台劇というと、大概は数人が現れて神経症的な会話を始めるのがオチだが、家族、親戚が一堂に会して話し始める迫力というものに接すると、改めて人間の血縁、地縁の持つ宿命的な関係を想起せざるを得ない。

 確かに圧倒されますね。

府川 狭い家族、隣人の共同体の中で、どうして複雑な利害関係、血縁関係が生じてしまうのかといえば、やはり日本独特の農耕民族性というか、限定された耕作地への異常な執着だね。異民族に征服された経験がなく、祖先から連綿と相続する土地への愛着。それは天皇制を支えるものでもあるが、ウエットで詳細な差異に選別意識が潜む。しかも生産性が低く、制度的に作物も限定され、生産手段も限られているとなると、人口の過剰にともなって必然的にパイの争奪をめぐるさまざまな軋轢や葛藤、妥協が出てきます。それをいかに統御するか、あるいはやり過ごすか、諦めるか、合理化するかという知恵が必要になってくる。


 戯曲に脱帽

 前半での戦前、戦中の貧困の状況から、突然、月日が移って戦後の場面になる。四半世紀がいきなり飛ぶわけです。最初、唐突な感があった。最初はというのは、最後には腑に落ちるんですが。僕が思い出すのは、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』ですね。三代の家族関係が百年にわたって語られる。今日の戯曲もそれに比するものですが、前半、丹念に展開されていた舞台が、途中、抜け落ちて、戦後、土地に原発が建てられて、にわか成金の様相を呈している場面が登場する。これは戯曲のオリジナル台本を3:11の原発事故のテーマに無理やり合わせたのかと誤解した。しかし、芝居後に演出の宮田さんとお話しして、原発批判のシークエンスは、戯曲そのままの再現であることを知らされて、高度成長期に原発事故を鋭く見通していた水上さんの慧眼に脅威を覚えました。

実際、最初の唐突感は、父親の土地相続をめぐる息子たちの会話の中で少しずつ解消されていき、あいという一人の老婆のとどめの一喝で一気に二十数年の空白は埋められるんです。だから、最初の不自然さは、この一喝のために準備されたものなんだと思いました。もしもあそこで成長した息子だけが生き残っていたら、ふわふわした高度成長期の不自然さの雰囲気のままだったでしょうが、今も老母となったあいが生きていて、すべての人生、家を背負ったかのように息子たちを鬼気迫る声で怒鳴りつける。

府川 まさにあの一喝によって、時間が貧困に束縛された過去に戻らされた。田畑で働き、背中におぶった子に乳を搾りながら、おまえたちを育てたんだと言われたら、もう息子たちは何も返す言葉がない。おふくろには頭があがらない。

 あの一喝は、すべてを清算し、原発論議に一喜一憂する僕自身の見方に対する一喝でもあった。

府川 戯曲についてさらにいえば、遺産相続で集まった五人の男兄弟の書き分け方には脱帽しました。おっとりした無口の長男、場を仕切る次男、場の雰囲気に合わせる三男、長男に代わって親の面倒を見た篤実な四男、東京に出た五男は原発批判を理屈っぽくまくし立てる。今の時代は少子化だから、そもそもこういう設定自体が稀になってしまいましたが、水上さんの一人一人の人間を見る観察眼は誠に隙がない。坊さんが原発の問題を問い詰められてやんわりとやり過ごすあたりのセリフ回しも見事です。

 坊主の世界は水上さん自身、幼いころに寺に出されて知悉していますからね。その後、苦労して坊主になるんですから。大正、昭和の経験の中で培われた作者の人間観には降参するしかない。そこで思い出すのは水上さんの小説『金閣炎上』は印象深かった。これは三島由紀夫の『金閣寺』とは対照的で、三島のいやらしさ、ある意味の凄さもまた逆に浮き立つようでした。

府川 三島由紀夫のいやらしさって何ですか。

 三島由紀夫では、坊主が自己の内部の美の世界の崩壊を恐れて金閣を焼く。それは三島自身を坊主に投影させた、その傲慢さはいやらしいほど凄味がある。一方で、水上勉は、自己の実人生とからめて人間苦として坊主を描いている。まさに今日の戯曲に通じる世界を描いている。

府川 今日は小説を読むように演劇を体験しましたね。二重体験というか、それがありましたね。これは稀有のことです。

 シナリオというより、まさに戯曲だった。かなり骨太な小説を一冊読み終えた手ごたえがある。シナリオには役者の演技を通じて、ようやく鑑賞に堪えるが、文字ずらだけ見たら何か薄っぺらい感じがするものがあるけど、これは戯曲だけでおなかいっぱいになる。文学臭がぷんぷんする。

府川 連続上演されるのは当たり前と思いますね。

 特に妾に産ませた二人の息子の長男が戻ってきて、育ててくれた異母を犯そうとするあの生々しさ。そこで拒絶されて出奔し、流浪の中で知り合った盲目のおばさんを妻にする。

府川 あれは常人の発想ではありえない。水上さん独自の虚構世界。どうしてもそうしたかったんでしょう。

 並みの作家ならば、犬畜生に落ちぶれて死んでいく流れでしょう。その不幸を見せ場にする。ところが目の見えないおばさんと一緒になるというのですから。また、それを不自然でなく見せるところが素晴らしい。   

府川 あの結核の病いというのは流行り病いというよりも何か遺伝的形質のような感じすらしたなあ。その弟も同じ病いで早くに死んでいるでしょう。

 骨が見えていたのですから、カリエスでしょう。正岡子規の晩年と同じです。彼は最後に救われたんですね。ヨーロッパでいえば、最後に神の御手が差し伸べられるんでしょうが、日本人の多くはそれがないから苦しいですよ。

府川 あいのために丹精こめて作った形見の下駄には泣かせますね。

 あの下駄が最後に神々しさを持つわけですね、水上さんの人生体験が磨いたものでしょうね。

府川 どこから、こんなプロットが出てくるんだろう。あいが棺桶作りの家に自ら嫁ぐとかね。

 一つずつが心憎いんですよ。しかも緊密に関係しあっている。しかし、こういうのって、頭で組み合わせて設定できるものじゃないですよ。

府川 勿論、すべて虚構なんですけど、その各々がいきいきとした説得力を持って、辻褄が合うというのは、やっぱり机上の思いつきだけじゃ無理でしょう。さまざまな人生経験が最終的に作家の身体の中で統合されないとね。

 戯曲自体が完成されているんだから、まともに舞台に乗せる重圧も相当なものでしょう。しかし、子役も含めてこれだけの人数を集めて、しっかり舞台化したなと、本当に感心しました。


 日本人のアイデンティティ

府川 東京から故郷に戻ってきた左翼的言動を弄する五男が、原発ジプシーのことを予言的に語り出しますね。原発成金に浮かれる兄たちに食いついて、原発事故で汚染されて、先祖田畑を捨てなければならなくなったらどうするんだと警告する。ここはリアリティーがありましたね。

 あまりにリアルすぎてね。逆に浮いて見えたくらい。原発事故以降、アートの世界にテーマの変革が起こるだろう、すぐには無理でも数年後には、それを踏まえたしっかりとした内容のものが現れるだろうなんて言っていたけど、すでに書かれていたんだね。逆に今の芝居では書かれていない。

府川 故郷にもはや戻れない時、我々はどうするのか。現に福島では故郷を無理やり追われて、帰れない人間がいる。

 それは絶望です。われわれは原発以降、それをテーマにした舞台をいくつか見てきたわけだけど、どこかしら、とってつけたような印象があって不満が残った理由が、今日の芝居を見てわかりました。あの大震災と原発事故の衝撃の前に、いかに我々が土地と一緒に長く暮らし続けてきたか、その人間像が十分、濃厚に描かれて、われわれが同じ日本人としてシンパシーを持たざるをえないという十分説得力を持って作られた上で、土地、母性に戻れなくなった状況が提示されることで確認できるものがあるんです。それは今日の芝居でいえば、あいの息子たちに放った一喝だった。実は原発事故そのものを描かなくても、それと同じインパクトを与えることができるのかもしれない。田があって、母がいてということを十分に描けば、それだけでもう原発事故に直面した以降の生き方を表せるんですね。

府川 なるほど。どんな状況になっても、母親強しということかな。生命力というか。原発の事故があろうが、土地を失おうがね。人間へのたゆまぬ思いさえあれば生きていけるんだというのが水上さんの本意かと思う。

 つまりよりどころですよ。人間の根っこはどこかってことですよ。

府川 妾の子は生まれ育った土地から切り離されて、しかし、異母に対する強烈な愛慕を支えにして最後まで堕落することなく生きられた。ここに3:11以降の我々のアイデンティティを解く鍵が暗示されているとしたら、水上勉の文学は再び、考えられなければならない。僕はこれまで、水上勉を極力、避けてきました。しかし、ついにつかまったかなという実感がある。

 水上さんは人間肯定の人ですよ。


 楽座価格

 私は8、000円です。仮に8、000円の芝居だったとしても、損をしていないと思える宇宙を体験させてもらった。

府川 僕は7、400円です。今日の芝居に不満はないです。堪能しました。


楽座価格=7,700円

 


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