チケット料金=前売4,000円






楽座風餐 第17回  十字軍    2013年4月27日

〔観劇者〕 府川 雅明   林 日出民


第一印象

府川 まず戯曲の内容が素晴らしい。それに対して、演技、演出がどこまで迫っていたのかを考えてみたい。自分の劇団のアトリエでの公演、いわばホームグラウンドでの芝居という利点を生かして、照明、音響が演者の動きとぴったり符合して、奈落や出窓も効果的に使い、手慣れている。劇場の機能を熟知しているという印象だ。歌舞伎座しかり、自分の小屋を持つことは全うに演劇表現しようとするときに必須の条件だろうと確認した次第。

 小屋を持っているのは贅沢ですね。批評する側は勝手なダメ出しを後でするわけですが、各役者の発声や動きの基本的技量が整っていて、そういう面で特に何も言うことはありません。2時間たっぷり気持ち良く見ることができました。ただ原作が非常に独創的で、冒頭からすんなり入っていけるものではなく、開始から15分くらいは理解に遅れた感じですが、半ば以降は、抵抗なく持って行かれました。その感じを具体的に述べたいと思います。


プロローグについて

府川 パンフレットなどを見て少年十字軍の芝居かと思った人は、いきなり年配の役者男女二人が子役で出てきて、これが最後まで続くのかと不安になるだろう。いくら演技に熟達したベテランの役者であっても、はしゃぎまわるような子供の会話を続けるというのは見た目に無理がある。このプロローグのシチュエーションはすぐに終わって、作品の世界を支えるための入り口だったのだと後でわかるが、しょっぱなで、だいぶ損をしている。

 坂口さんと倉野さんの少年少女の配役は果たして良かったのでしょうか。お二人は後に老夫妻として印象に残る演技を展開しますが、冒頭のシーンは正直、気色悪かったですね。年齢が離れているからいけないというのではないですが、キャリアを持つベテランにこのような役をあてがうのはどうかと思います。スタートはつらかったですね。

府川 見ていていたたまれなかった。芝居全体として一人二役、三役と重なっているが、演者の数を絞りすぎていないだろうか。これでは見せ場の老夫妻の演技が相殺されてしまう。冒頭のシーンは5、6分で終わってしまう。ここだけ別の若い役者を使えなかったのか。そういう使い方ができない劇団側の事情があったとすれば、作品の再現に誠実であったとは言えない。ワンマン劇団ならばショートリリーフ的な演者起用は自在にできると思う。登場人物が生まれ変わるという戯曲の設定から、観客席の中に役者を入れて、観客との一体感を持たせ、客席から鉄砲玉のように同じ役者が複数の役柄で飛び出してくるという効果をねらったのだろうか。が、観客には同じ役者の前の演技の残像がある。映画のような変身は演劇上では限界があると思う。


リアリティのありか

府川 エルサレム周辺の現在の中東の戦闘地域らしき第二景になって、我々日本国内の社会状況とは全く違うとはいえ、メディアを通じて間接的に見聞する海外の映像や情報から得る同時代性を前提にして、ようやく芝居の世界の中に抵抗なく入ることができた。

 遠回りせずに私の核心的な感想を申し上げますと、戦争状態の中の少年兵の生の感じは決してリアリズムを持って訴えかけてくるものではありませんでした。こんなふうにやれば戦争らしいかな、そんな観念的な演技です。これは今日の役者さんのアフタートークで戦争映画に学ぼうとしたという話がありましたが、今の日本の限界でしょうか。たとえば今日の芝居にもソ連製AK-47カラシニコフとアメリカ製M-16が出てきますが、私はM-16の実弾をカンボジア軍の射撃場で撃ったことがあります。だから私はちょっとはリアリズムがわかると言おうとしているのではなく、逆です、私だって半端で、M-16を撃ったからといって生きた人を撃っていないのだからホンモノのリアリティではない。ただ一種の強烈なオモチャを撃ってああこれは人を酔わせるなと思っただけ。またやはりアフタートークで世界史の先生というのがベトナムのクチの洞窟の話をしておられたが、私もその湿った狭い延長200㎞に及ぶ穴倉の入口付近にもぐってみたが、だからベトナム戦争のリアルに触れたとはいえない。ベトコンさんもこんなもの掘ってここで暮らすなんてすごいですなあといったところ。

つまり我々が戦場のリアリティだと思い込んだところから、さらにジャーナリストの伝えるところを味付けにして、要するに〈戦争という観念〉を作っていきます。観念が成長すれば一種の『型』にさえなります。そうなるともうますます現実の戦争そのものではなくなる。現実の戦争は、一番つらいのはえんえんと続く行軍で、戦闘が始まると大地に伏せる、ああやっと休めると思う、そんな話だったりするし、また中国青島付近に戦争に行っていたうちの親父がよく言っていたのは、中国人に作ってもらったメシがうまかった云々ののどかな話で、しかし戦争が観念化すると血みどろの戦闘ばかりでそういう戦争の背後風景が色あせていってしまう。

そういうわけで今日の芝居も強烈なリアリズムで胸にせまるわけではありません。しかし、だからダメだというのではありません。にもかかわらず白けもせず不安なく見られたのは、さすがというか役者さんたちの安定した表現力にもあったわけですが、それ以上に、そうここが肝心ですが、今日の芝居の一番の本質はその部分にあるのではなく、相当観念的ではあるが、残虐な殺人の場面が、一歩死んだ向こう側に行くと、老夫婦の全く脱力しきった風景に見事に一変するという真逆の世界への段差の踏み越えなんです。これが今日の芝居の命だと思います。それはいったい何なのか。

戦乱の国々の人たちは子供をたくさん作って、またよく子供が死ぬんですね。別に戦争だけではなくて、病気や事故で死んだりします。五歳、六歳くらいを生き抜ければ無事に育つかというとそうでもない。十代、二十代になっても死ぬんですよ。子供が親よりも先に死ぬパターンがいろいろあります。そういう中で残された親がどう心を癒していくかについては、現在の日本人とは違う感覚、単に絶望するのではない感覚を持っているんですね。何と言うか、死がそんなに深刻に悲しいものではないという感じです。いわば自然発生的にどんどん産めば、自然消滅的にどんどん死ぬ、またどんどん産む、そういう宇宙の循環の中の死は、一人か二人産んで後生大事に育てていて死なれてしまうのとは全然違う感覚でしょう。

舞台の後半で、出産寸前の妊婦がその子供の父親に射殺されてしまうというどうしようもなくどんづまりの残酷な状態に対して、「ああ、もったいない。もう1時間で産まれたのに。」と脱力しきった老紳士が笑いながら出てきますね。あの脱力や笑いや皮肉が少しも不遜にはならない状況が戦乱の国々には確かにあります。

言い方が難しいですが、死に対する認識に対して今の日本人が腑抜けになってしまっているところ、死イコール悲惨とか、ただもうつらいものと思って済ましているところを鋭く突いていました。そのリアリティが老夫婦の演技によって鮮やかに描かれていた。

府川 本質を深くえぐっているなあ。一昨年の東北大震災が起こるまでは、日本人の多くは人間が作り出したルールや合理性のようなものを根っこでは疑ってはいなかったと思う。例えば、一所懸命努力すれば出世するとか、道徳的に正しければ災難には合わないとか、自然科学の成果は人類を裏切らないとか要するに予定調和的で、ある意味では退屈な日常が続くという土台の幻想は大きくは崩れていなかったように思う。しかし、新型インフルエンザなどの感染病で人がバタバタ倒れるとか、既存の知の世界の権威がインターネットの情報爆発で崩壊するとか、一瞬で預金をハッカーに略奪されるとか、大震災や異常気象、隕石の襲来などで災害が多発するようになれば、不条理性が人々の心を支配するようになる。ヨーロッパの中世末期のように。真面目に生きていたって意味がないという世の中になれば、秩序は荒廃し、一方で一瞬に象徴的に出現する、詩的にいうと、サッと光が入るような稀有の宗教的な時間を待望するようになる。十字軍の運動も中世のそうした雰囲気と決して無縁ではないはずだ。

今日の芝居の中でも、片足を失った若者と失明した若者の地雷原での奇跡的邂逅とか、敵対する若い男女が子を宿すとか。それらの幸福な出来事は、直後に互いを射殺することで不条理に悲劇的に消滅するが、一瞬一瞬の生きざまは象徴的に濃く刻まれる。人間が合理的にではなく、象徴的に生きる姿は、アザマの詩的な作品の源泉だろう。

演劇は現実の社会の動きを敏感に察知するものだから、今日の芝居に近い状況が日本にも出現するのかもしれない。そのような視点を加えることで芝居をエキサイティングに見ることができるし、今日の芝居はそれができる。


死は悲しいものではない?

 今日の芝居では、死んだあとにとたんにスーと楽になって、それまで苦しんでいた人間を受けいれますね。ふと思い出したのは、私の家は代々神道ですが、死んだあとは祖霊神の仲間に加わるという感覚です。死ぬと何かステージが上がる。葬式は赤飯炊いて、派手な紫と銀の垂れ幕で式場を囲みます。めでたいんです。私も親父の死に立ち会って、悲しくて泣くわけですが、まあそれで終わりなんです。あっち側に行って神様になったんだねという。それ以上、神道は教義も何もないですからすっきりしたものです。江戸の国学者じゃないけど、日本人の感性として死を暗く、深刻で恐ろしいものにしたのは仏教の影響でしょう。

府川 十字軍と聞けば、日本人とは縁遠いユダヤ=キリスト教的な信仰や教義が濃厚に含まれるバタくさい翻訳劇を想像して見構えてしまうが、その憂慮は嬉しく裏切られる。僕もこの劇の死生観でほとんど拒絶感が起こらなかった。

じゃあ、自分はどういう死生観なのかと問われてくるわけだけれど、例えば、同じアジアであるインドネシアのバリ島なんかだと葬式はお祭りで、観光名所にもなっている。死者への弔いが喜びと結びついている。この点、バリ島通の林さんはどう思いますか。

 15年ほど前、丸一日、バリ島の葬式につきあったことがありますが、全く悲壮感がなかったです。まさに村挙げての一大イベントで、泣いている大人は一人もいないし、子供たちはわいわい騒いでいました。死者は聖なる牛の棺に入れられます。棺を燃やして焼けただれた屍は、その時点で昇天していると考えて、人間がそばに来て棒で突いてどんどん崩していくんですね。死体はすっかりモノに戻っていました。

府川 今日の芝居でも、死んだ若い娘が、直後に自分の砕け散った顔のかけらを眺めて、貼り集めようとするけど、もう自分の顔じゃないからとすぐにあきらめる。それは死体に執着する日本人ぽくなく、むしろ今のバリ島の感じだ。

 中国でも朝鮮半島でも、葬式のときにとにかくBGMのように皆が泣きます。しかし、本当に悲しいのなら、わざわざ泣き女なんか金を出して雇う必要もないんです。泣き女の声にひかれて親族が悲しくなって泣き出すということは。一種のショーです。ですから、人間の死とは本当は悲しいものではないです。今日の芝居を見て本当に良かったなと思ったのは、死に対する思いを再認識したという一点に尽きますね。

府川 死んでみない事には死はわからないが、しかし、この作者の死に対するクールともいえる接し方は、実はわれわれの祖先から息づいている考えと通底している。そこが共感となっている。

 死の悲しみというのは生きている側の勝手であって、実のところは空に戻るということなんですね。例えば、私が好きな沖縄の御嶽(うたき)の世界。御嶽って何もない空間です。血や肉の匂いとは全く無縁で、一切がない。この清浄感。ここを起点に考えれば、生はただ人間の間で演じているばかりということになります。われわれの感性に通じるものがあると思いますね。


フランス文学の到達点

府川 大人の死の側からやんちゃな生を見るという視点が徹底していた。

 と同時に、12世紀の過去から、現代の殺戮の現場を照射するという設定の面白さ。時間の取り方。原作はユニークで秀逸ですね。

府川 二つ前に観劇したカミュにせよ、今日のアザマにせよ、やはりフランスの現代文学はただものじゃない。セリフをすぐ具体的に挙げられないが、際立った人間洞察と言葉のセンスを随所に感じる。もっともカミュの『異邦人』のほうは銃殺されたアルジェリア人は葬られたままで、延々と生きている人間が死に向かうまでの間だけの物語だが、今日の『十字軍』は死の先の領域に踏み込んで生を問うている。単純な比較はできないが。

 とはいえ死の世界は全く芝居上のレトリックであって、あくまで生きている人間が考えていることにすぎません。

府川 勿論。死とは生きている人間のイマジネーションの拡張にすぎない。文学芸術はその拡張の歴史だと思う。


翻訳の課題

 「死んだ」とか、「死亡した」とかいう言葉の使い分けは、原作者のこだわりをおそらく反映したものですが、ここらは翻訳のさびしいところで、どっちを訳そうとこればっかりは原作者の思いは伝わりません。「ご臨終」であろうと「ご逝去」だろうとです。

府川 ええ、翻訳した側がいかに読者や観客に自然に伝えるかにかかっている。自然になっていれば、翻訳の問題は消滅する。

 少なくも、私は不自然さは感じませんでした。


おっ母とマザー・テレサの接点

 死を明るくしてしまう思いとして、私が見ながら思い浮かんだのは、マザー・テレサですね。マザー・テレサはインドに来て、それまでの普通の修道女から考えを一新して『死を待つ人の家』を設けます。ゴミのような姿で道で死を待つ人の身体を洗って清潔にし、あるいは家族や地域から見離されたハンセン病の末期患者たちを集めて暮らし、生きることの尊厳を取り戻させ、いかに境界線の向こうの来世に引き渡すかを実践し始めます。貧しい人を救うのではないんです。死そのものに常にまともに対している。

いろいろ彼女の言行録を読んでみますと、なにしろ非常に明るい。毎日、死をみとっているにもかかわらず、死の影が微塵もない。なぜ、こんなに明るくいられるのか。彼女のような存在が実際にそこにいることは理解を絶します。これが今日のおそらく山本道子さんに与えられた役だったのでしょうね。

府川 そうか。おっ母役の山本さんはマザー・テレサになればいいんだな。あー、その解釈は深い。僕の解釈ではね、この演劇はダンテの神曲のように、地獄、煉獄、天国の三層構造になっていると思った。いわばおっ母は煉獄の人間。ごく大雑把にいえば、生きている人間が自分の行為の意味を問い、悩み、悔やみ、改心しようとする世界にいる。原作者のアザマ自身が演じたように実は一番重要な役柄で、煉獄を一人で請け負って流浪する人間であり、それがまた同時に結果として人間の歴史を語るという解釈。しかし、そんなのは図式的理屈でちっとも面白くないな。大反省。なるほど。

 いずれにしましても、おっ母の役は非常に重要なのですが、山本さんは非常に力量のある役者さんであるにもかかわらず、残念なことに若い兵隊と老夫婦の劇の間に中途半端に埋もれてしまっています。究極、極論を申し上げると、おっ母の役がなくても芝居が成立してしまったのではないか。

府川 状況説明のナレーター役に堕ちていた感もある。林さんが指摘するように、地獄と天国の差異というか、瞬間的な世界転換は演劇的にはドラマティックであるゆえに、そこが強調されるあまり、生者と死者の両方に通じるおっ母が存在感の薄いポジションに追いやられていた印象だ。

 山本さんの役を生かすのは、この役をめぐっての深い理解が作品全体を通じてどうしても必要なんだと思います。あのおっ母のような存在が20世紀の地上に現れたのがマザー・テレサなんです。私は生前のマザー・テレサにどうしてインドに会いに行かなかったのか、今でも後悔しています。もしも、山本さんがマザー・テレサのように舞台上に出現したら、私は号泣していたでしょう。演出の稲葉さんはご祖父の死に立ち会われたそうで、これは貴重な経験ですが、我々は今、死に立ち会う経験があまりにも少ないです。この深い実感が誰にも足りないから表現に力がない。今日の芝居に限りません。

府川 アフタートークの中で山本さんが「八百年生きることはよくわからない。演出にその点はお任せしている。わからない事を自分にどう取り込むかは大きな課題で自分との戦いだ。」と言われたが、実際に八百年生きた人間はいないので、その姿はリアルに演じようもないと思う。演劇上のレトリックだと僕は解釈した。八百年間、子供を探して生きていると思って生きている今の生の自分をどう表すかではないか。マザー・テレサは亡くなって、もうこの世にはいないが、彼女の思いは、まさに林さんの中で生き続けている。それが八百年の意味ではないか。それはまた聖書における数々の奇跡の記述の意味とも重なる。

 言葉のレトリックで悲しんでいてはいけない。肉体は死んでいても魂が生きているのですから生きているわけです。おっ母が老夫婦とは明らかに違う立場にあることを演劇表現として明示すべきなのです。

府川 おっ母の役は一筋縄ではいかない。生きているけど死んでいる二重存在の面白さみたいなレベルで満足しては決していけない。

 それは生命観の問題です。今日の芝居を感銘を持って受けとめたのは、マザー・テレサへの思いや沖縄の御嶽の清浄感、親父や爺さんの神道としての死など、これまでの私の半世紀のさまざまな人生経験があってのことです。文学演劇は読者や観客が補助的に心で補って成立します。意地悪な言い方をすると、では若い世代が今日の内容から、一体、どのような感銘が生まれてくるのかという不安も出てきます。

府川 経験からじわりと出てくる感動は言葉ではなかなか言い表しにくい。私が先に申しあげたダンテの神曲の構造みたいな観念的な補助線を引く理解は都合がいいが、生きることは誰もが簡単には言い切れないことをわかっている。

先の林さんの問いは若い世代に直接尋ねたいところだが、いわゆるリアリズムの演劇ならば、銃を向けられて必死に命乞いするギリギリのクライマックスで銃声が鳴ってしまえば、それで終わる。しかし、その後にも演劇が続くという構造は若い人には魅力的に映るのかもしれない。あるいは、我々自身が祖先から持っている死生観に意識、無意識に触れる何かがあったからなのか。あくまで推測だが。

 大げさに言えば、日本人が持っている死生観というところは非常に気になるところですね。


最後に

 今日の芝居は、人間が持つ一線という線をすごく表していました。肉と血の匂いに満ちた線を一歩超えると、それと全く違う世界があるという。それは原作の味であるとともに演者や演出が奮闘したところだと思います。とても面白かった。

府川 演出の稲葉さんは今回が初演出だそうで、アフタートークで、「四方を観客が取り囲んだ舞台形式は演出の経験を4、5回踏んでから挑むべきものと言われた。」とのことだが、そんな些末なことに一切遠慮する必要はないし、僕は代わって擁護したいね。

高齢化社会というのは、人生経験豊かな人間が増えるから、さも皆が意義深いことばかり言うように錯覚する社会でもある。すでに価値を失った過去の発想に固執するのならば、逆に悪循環に陥ると思う。今の若者は分厚い年配たちが意識的、無意識的に押しつける体制との日々の戦いがある。それは勿論、演劇だけには限らない。

 若い演出家の稲葉さんは内外の老害的発言に対しては追従することなく、是々非々で果敢に進んでもらいたいですね。20代の若い演出家がこのような難しいお芝居、つまり生と死をテーマにした作品に挑戦したことは意義がありますし、これからも続けてほしいですね。

府川 私は今回は3,500円。

  私は4,500円です。



楽座価格=4,000円

 


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