チケット料金=前売4,000円






楽座風餐 第31回  どんぶりの底   2014年 9月 28日

〔観劇者〕 府川雅明  林日出民


 全体印象

府川 「どんぶりの底」は、ザ・スズナリという芝居小屋の広さ、高さ、客席との距離を知悉したパフォーマンスでした。こじゃれた劇場や大劇場では決して成立しえない舞台を堪能しました。ザ・スズナリへのオマージュとも受け止めました。

 まさに下北沢の小屋という感じ。気持ち良く見た。必要最小限の舞台作り。狭い空間の中、ごちゃごちゃとしたアジア的住居の感じが、今日のテーマにフィットしていた。スズナリという小屋は役者の匂いがしみついている

府川 丸2時間、18人が出たり入ったり、駆け回ったり倒れたりと見飽きませんでした。住まいとする蟻の穴というか鳥の巣のような出入り口から顔を出しては引っ込ませる役者たちの姿に動物一般の世界を重ね合わせて見る錯覚すらも感じ、何か本能レベルでくすぐられましたね。

 貧乏人の中では見入りの良い泥棒だけが梯子を上った二階に住まいがあるというのも、人間のどうしようもない階級構造のメタファーだし、何か動物界にも同じようなことがありそうだ。

府川 とにかく演出が効いている芝居でした。役者の意欲をうまく引き出して世界を創り出していることが随所のディティールの描写から浮き彫りになっていました。

 役者もそれに応えていた。演技の破綻もなく、わざとらしさ、不自然さもなく、ドタバタ劇になりがちな設定の中で、一番避けなければならない楽屋落ち的ノリは全く見られなかった。役者陣のキャラクターが重なることなく、個々に力を発揮していた。

府川 また、それが可能な人選、配役に成功していましたね。

 ゴーリキイの「どん底」から想を得た内容で、原作自体も一人一人のキャラクターが立っているが、そもそも人間は不幸であるほうが個性的になり、表現のバリエーションが豊かになるもの。幸福やパラダイスは似た風景になってしまう。

府川 願人坊主が劇中にいみじくも広げた地獄図絵よろしくね。天国は退屈ですが、地獄は飽きない。

 悲惨さを大安売りしているわけではなく、逆に笑いの要素を取り込んでいるあたり、大変な力量を感じた。

府川 三十周年記念書き下ろし作ということですが、周年は執念とも言い換えられます。劇団のこれまでの表現の歴史の中に、唐十郎や寺山修司、つかこうへい、野田秀樹、転形劇場、民芸、シェイクスピア、不条理劇、アジアの民俗演劇といったテイストがもろもろ溶け込んで豊饒さを醸し出している感じ。走馬灯のようにこの3、40年間の日本の現代演劇の断片がインサートされている気もして何作品も見た重量感がある。豪奢です。

 うまいブレンドの味わい。しかも一人一人が際立って、ひとつのシーンが終わると、次にパッと切り替わって、また新たなエピソードが始まる清々しさが連続して、あっという間に2時間が過ぎた。これが全体印象ですね。


 柱を支え続ける上半身裸の男

府川 舞台右端に水飲み場があって、入れ代わり立ち代わり役者たちが蛇口をひねって、水を飲んだり、手や顔を洗ったりする。この水の使用も懐かしい。また、やたらと役者たちが痰を吐く。この生活感というか肉体感覚、不潔さ。これが良かった。つまりものを食い、排泄し、動き、眠る、そういう人間の基本的活動が過不足なく表現されて、観念性に偏らないバランスを感じました。

 博士が鼻の穴に洗濯バサミのようなものを入れて、世界中の人間と交信するという装置の発想は笑劇風だが、肉体から発した地続き感が出ている。


府川 状況をクールに見れば生活破綻者たちの芝居であり、悲惨そのものですが、博士のような非現実的な人物を設定することで、現実の底が抜けたような印象を与えるのが面白い。

 設定が過去ではなくて近未来ですね。地下資源が枯渇するから汚水をエネルギーにするという件も飛び出すが、実現可能というより荒唐無稽だ。

府川 原発問題とか異常気象といった問題と直接結びつくものはほとんど出てこない。しかし、パンフレットの文面から明らかなように、制作する側は日本の現在の閉塞した状況を十分わかっている。それでもなお、具体的なものを出さない分、象徴性、普遍性が高くなっている。

 欲張っていない。作る側の性としては構想を練るうちにいろんな調味料を加えていき、やたらに社会的記号を入れて、結局は他者の観念に取り込まれて自分を見失って、破綻しがちなものだが、作りはシンプルでいいんですよ。ほんの2時間の虚構世界なんだから。その意味で非常にすっきりしていた。

府川 直接的に社会を想起させる役は、警察官くらいですね。あとは皆、地下人間というか、地下生物のように蠢く存在と言っていい。

 私が感心したのは背景を支えている男の存在。空間のあやうさを出すのに効果的と思った。支えるというだけで舞台に緊張感を与えていた。大げさにいえば、世界を支えるアトラスの神話性も感じた。あの一つの行為だけで、全体に重層感が生まれた。

府川 人間の社会を本当に支えているのは、今でいえば、原発の汚水を毎日、必死に処理している人たちです。そういう視点をきっちり捉えている点が鋭い。結局、柱を支えていた男の口に、泥棒が盗んだダイヤモンドを隠して、泥棒はその後死んでしまい、ダイヤモンドがあれば生活の資を得ることができるから、もはや小銭稼ぎで柱を支える必要もなくなる。男が柱を支えるのをやめた瞬間、地下世界が崩壊する。心憎いほどにうまいプロットですね。

 しかし、全体は崩壊せずに背景だけがだらしなく剥げて、アル中男の首つり死体が現れるという。今回、最後に何かドンデン返しがあるだろうとは予想していました。ゴーリキイの「どん底」も、最下層から這い上がる希望の光が見えて、しかし最終的にはそれが挫折して、さらに深い絶望の中に落ち込みますから。今日の芝居では、その陰の世界を陽の世界に転換させている。首つり死体を見た掃除女が、『また掃除が大変になっちゃう。』とあきれ顔をする。


 身体的了解事項

府川 爽快さの余韻は一体どこから来るのかを考えてみると、どん底の状況にもかかわらず、演者が見る側にエネルギーを放出し続けると、そこに幸福感すら漂ってくるんです。

 何だかんだいっても日本は安全だし、豊かだし、でも充足感に乏しい。そういう日本人への痛切な皮肉が感じられて面白かった。

府川 アメリカ人のごく一部の大富豪は金で欲望を満たせる。そんな人間のすることは自家用飛行機でアフリカの最貧層の地域に行って、どん底生活を経験することだと聞きました。日本にはそこまで虚無的な金持ちはいないでしょう。小金持ちが自分の財産を失いはしないかと疑心暗鬼になってびくびくしているのが現状ではないのか。今日の芝居は、作者も演者も演出家も、困窮状態の中でもたくましく生きるという実体験を共有しているかのような皮膚感覚的な連帯感が伝わってきた。

 推測するに、今日のお芝居の表現に関わった多くの人は肌身で感じてきたことなんですね。幼少期の原体験としては決して世界が豊かではなかった。しかし、精神的には不幸ではなかった。

府川 逆に今の若者は生まれてから今に至るまでだんだん追いつめられて来ています。今日は貧しいが、明日は豊かになるというのとは逆コースの心理状況で生きているんでしょう。となると、若者はこうした芝居をどう見るのか知りたい。

 ノスタルジー。往時、楽しく生きていたわけじゃないが、あくまで今から振り返ってみたときの感慨にすぎないが、昨今の日本人は金を失うだけでものすごく不幸な状態に陥ってしまう感じだ。最初からモノが与えられていると失うことの恐怖感が生まれる。金がない。落ち込む。孤立する。人間の関係性を見失う。結局のところ、人間の肌と肌、言葉と言葉のぶつかりあいがたたれてしまうといかんでしょう。

府川 人間と人間との関係性の取り結び方ということでいえば、ゴーリキイの「どん底」も今日の「どんぶりの底」も、インターネットといった情報端末が登場しないという点では、同じパラダイムの作品として括れる気はしました。僕はインターネットによるコミュニケーションは、大人になってから、それも中年になってから始まったことなので、どこかに不自然さや違和感を抱き、不適応感がある。ゆえにこそ、「どんぶりの底」に見られるダイレクトな人間関係のあり方に郷愁を強く感じるという心の反動があります。ですから、林さんが指摘する孤独感というのは、若い世代はどう捉えているのか興味がある。直接的な肉体交渉を避けて、童貞や処女が増えているという統計も出ています。


 エロス  

府川 木彫りの男根を富裕な未亡人から依頼されて、磨き上げるように製作に勤しむ職人の姿は、レトロかもしれないが、金じゃなくて仕事に生きがいを持つ職人の気概を感じた。この方向性は富の欲望ではなくて、充実感ですね。

セクシュアルなものが出てきたのがとてもよかった。男女が抱き合ったり、男同士のプロレスまがいの肉体のぶつかり合いがあった。

 大家の奥さんと浴衣の女が色っぽくてね。こうしたエロスは芝居には絶対に欠かせない要素だと思う。この二人がセックスレスな感じだと駄目なんです。たちまち安っぽくなる。3、000円、4、000円台の演劇にこのあたりをおとなしく妥協するものが多い。その点、今日は特段に見ごたえがあった。

府川 それは大きな分岐点ですね。やはり、今日のような濡れ場の世界を設けてきたからこその30周年なんだと僕は思います。

 役者のほうも演出家の誘導に乗って次々と嬉々として肌を脱いでいく。

府川 演出家の才能は役者のいい意味の暴走を許容し、促す度量に表われる。
また、常連らしき観客の反応も、そのあたりを十分に心得て芝居を楽しんでいる風情がありました。

 これは元締めの才覚のなせる業。役者の男女比の構成がほぼ2対1になっているのは、ちょうどバランスが良いと思う。女性のほうが生活力があってパワフルだから、貧困状況の舞台で1対1にすると男性が押される感じになる。

府川 しかし、こうして気持ち良く話していて、一面、危険を感じるのは、世代的な共感や郷愁に自分が乗っかりすぎていないか。例えば、今の二十代には受け入れられるものなのかは気になる。


 ミュージカル

 いわゆるミュージカルというほど大げさではないが、ところどころ歌を入れている。このことの効果を今日は感じられた。西洋風ミュージカルには個人的には薄気味悪さを感じるタイプだが、素のセリフに節やメロディーを加えて歌にするという効果は明らかと思う。西洋のミュージカルで、喧嘩している恋仲の男女が、歌を一曲終わるころには、すっかり仲直りしているなんていうシチュエーションがある。ところが、これは西洋だけの専売特許じゃなくて、日本にも昔から存在する。典型的なのが和歌。歌物語。いい歌を詠むことで状況が好転してハッピーエンドを導くというのが大半のパターンです。まともに言ったら伝わらない気障な告白も歌にすれば場が和み、問題が解決する。今日の芝居で言えば、われわれが陽の感情を抱くのは、即興的な歌の効果によるところが大きい。

府川 と同時に、歌を歌わずともセリフ自体、歌を歌うように話す役者がいる。今日で言えば、大久保鷹さんですね。ミュージカルは歌芝居ですから歌うのは当然として、セリフの中で歌えない役者にとって、ミュージカル仕立ては表現の助けをする。しかし、それを必要としない演者もいる。

 泉鏡花なんてセリフ自体が歌になってしまうからね。

府川 泉鏡花のようなお芝居においても歌えない役者がいるのは困ったものだ。

 ただセリフを丸暗記して吐き出すのなら学芸会だ。覚えたこと自体に合格点を与えるものだから。しかし、演劇はそうではない。例えば、今日、車椅子に引かれたままの病身の女が突然元気になって長いセリフを噴出させるシーンがありますが、あれはただ暗記したものの発表じゃなくて、自分の身体から出てくる迫力があった。

府川 僕はあのシーンは懐かしく見ました。かつてのつかこうへいの芝居における脇役の長台詞の饗宴のような感じ。メインの曲のラインを切り離した、ジャスでいうドラムソロの時間のようなもの。その間、舞台上の回りの役者は動かずに、じっとその様子を見守っていましたね。あの感じを僕は愛します。

 うんうん。暗記したものをがんばって言い切りましたという芝居には、本当にいい加減にしろといつも思う。演者の身体を通じて言葉が出てくるとき、演劇を見るという経験が始まる。


どんぶりの底  タイトルの妙

府川 とにかく、タイトルのセンスは絶妙だと思います。「どん底」そのままだとゴーリキイのエピゴーネンになる。そこで、「どん底」のふりをしたお芝居、「どん底」にはなりきれない日本の「どん底」状態というパロディーのテイストを加えました。つまり、どん底ぶり ということ。これによって、自由な解釈の地平が開かれるわけですね。

 どんぶり自体、日本的だし、いろいろなものが混沌と入り混じっているイメージも含まれている。

府川 そうですね。少し理屈を言わせてもらいたいです。ロシアの最下層で喘ぐ人たちは、ゴーリキイの手によってキリスト教の倫理にがんじがらめで不器用に描かれますが、日本の最下層は抽象観念が乏しいのか必要ないのか、器用に具体的生活に慰安を見出します。その対照性が興味深い。こうして見ると日本にはまだキリスト教が本当に内面には入って来ていないのかもしれないし、永遠に受けつけないのかもしれない。キリストの精神よりも、キリストの像の美しさに惹かれる民族なのかとも思う。

ロシアの貧民層は、キリストが馬小屋で大工の子として生まれ、ローマ帝国の支配者によって磔にされたことの根源の革命性に気づいた。つまり、外見の出自は人間の精神の器量とは無関係という、身分制を逸脱した倫理観ですね。この自覚に至れば、自分の裸に気づいたアダムとイブのように、どん底に住まう自分を運命として盲目的に受け入れるのではなく、反省的に境遇改善の意思を抱く。そこに激しい自己葛藤が生じます。一方、「どんぶりの底」には、時代の相違もあって啓蒙的な姿勢がない。だから、基本構造は日本的喜劇なんですね。


 饅頭売り

府川 ゴーリキイの「どん底」にも出てくる饅頭売りですが、林さんはこの役をどう見ましたか。

 人間の食の部分を象徴していた。当然のこと、人はパンなしには生きられない。それを出すことは全うなことです。

府川 舞台で身体を動かせば腹が減るんだから、役者は演技中に観客の前で饅頭食ってもいいとすら思います。

 それから、この若い女の饅頭売りは、パンツというかズボンから饅頭を出して一個ずつ売る。この演出が秀逸。頭の上に載っているはずの饅頭は無意味ということになる。ある男には熱すぎて食べれないが、別の男は何でもないというのも非常に面白い。これは男女間のいろいろな意味の相性とか関係性を暗示している。勿論、単純に一人の男だけ偶然、猫舌であってもいいけれど。

府川 以前に、林さんと韓国ソウルの街を歩いている時に、ホース売りを見かけました。ただ肩からホースをかけて歩いている。もうかなり昔の話ですが。

 アジアのいろいろな町、それも生活臭の濃い場所に行くと、例えば、プノンペンとかの街角でも、饅頭売りというのは必ず目にする。貧乏人は小銭で当座の食欲を満たせるから。生命をつなぐ使者として饅頭売りは欠かせない。食べるという行為は人間の原点だけど、例えば、ザ・スズナリのような小屋に人間の肉体が放り込まれたら、何かしゃべり出さないといけない。これは演劇の原点という感じがする。


 懐かしさ

府川 そうそう、とにかく何かをとりあえずは始めないといけないんです。鼻の穴と装置とを線でつないで話すとインターネットのように世界中の人間とつながるなどというのは、一見馬鹿馬鹿しいお笑いネタのように感じるかもしれないが、僕は敗戦直後の日本を連想しましたね。物資が欠乏した中で、人間は腹をすかせて、空想、奇想を羽ばたかせる。例えば、僕の住む家の一本西の通りには、昔、小さな町工場がありました。それが今や電卓で有名な国際企業のカシオ計算機ですよ。僕なんか、その道を通って珠算塾に通ってましたからねえ、名刺サイズの小型電卓なんて誰が想像しましたか(笑)。


 僕がアジアの貧しい場所を訪れる理由は、今の日本では決して見られない文物に出会うから。例えば、台湾でしたか。雨が多い地域なので、傘の先にチューブ状のものがついている。傘をたたんでこれを引っ張ると表面についていた雨水がいっぺんに取れる。もっともどう見てもドンくさい。しかし雨降りのときには重宝する。何か創造というのは、土台として満たされていないことが大事なんじゃないかと思う。そんなことを今日の芝居で再確認した。

府川 何か懐かしさが充満していて、とても深い満足感があるんだけれども、さらに大家の役を演じた黒テントの根本さんを見て、その思いはさらに募りました。僕が中学のときに、すぐ近くの空き地で黒テントの芝居を見たとき、根本さんが「百連発」という一人芝居で、上半身裸のまま、板氷を抱えて演技していたのを思い出した。そのとき、勿論、根本さんは若く、ギラギラしていた。今も変わりないでしょうが。


 アングラ=地の底

府川 地面の底。アンダーグラウンド。略してアングラです。アングラなものと創造性なんて今さら言い古されているかもしれないが、地面の上は、もう本当に煮詰まって動かない。今度の東京オリンピックは、前回のときのような地上の改造、書きかえは期待できませんね。勢い地下のほうに創造のベクトルが行く。一方で地下はネガティブに言えば、脱落した生者が最終的に行き着く場所でもある。これはアンビバレンツですよ。そのアンビバレンツさが混沌を生み、またエネルギーも生む。いやあ、今日の芝居はこの両方が交錯して、本当に面白かったなあ。

 地底人とか、地下王国とかね。天は神が統べる世界。一方、地下は恐ろしくも魅惑的な場所。フロイトじゃないが、何かわれわれ人間の潜在的な欲望が地下世界のイメージと通底しているのかな。人間のその隠れた欲望は、普段の生活の中では見て見ぬふりをしているが、どんぶりの底によって解放される。そのどんぶりの底を今日は図らずも覗いてしまった。


 シンクロニシティ

府川 いい役者はその人固有とも言えるリズム感があると僕は思います。それが観客と同期するとき、深いカタルシスが生まれる。今日の舞台はおそらく演出の力で、各役者が観客とのシンクロニシティを得やすいような引き出しを作っていたという気がしてなりません。演出者というのは教育者ですね。いわゆる勉強を教える先生という意味ではなくて、エデュケート(能力を引き出す)する人。それから、役者の出入りのテンポがとても良かった。舞台の転換に照明や音響の力を借りるのではなく、役者同士でのコンビネーションがうまく働いていました。

 身体が覚えている。何かのきっかけでというよりも、演者自身が自ら動いて結果として、全体としてもスムーズな流れを作っていたのが印象的だ。そこまで演技に身が入っていたのだと思う。こうした芝居に出る若い役者は幸運だろう。かけがえのない経験をするのだから。

府川 ともすればテキストの発話にばかりとらわれて、全体のリズム感が悪く、観客を疲れさせる舞台もある中、今日は先ほど言ったシンクロの効果が効いて疲れを覚えませんでした。

 我々自身がふだん経験していることだが、身体の反応がまずあって、それにともなって言葉が出てくる。言葉が先に出てくるわけじゃない。場合によっては言葉にできない表現もある。もちろん、言葉は大事なものだけれど、言葉では伝えられない気持ちが残ることがある。そういう思いを役者が互いにつなぎとめることが、いわば演技上のきっかけ、合図になるんだろう。そのあたりを演出家は冷静な観客の眼で見抜くんだろうね。これには人間知が必要だ。

府川 僕が良く知る役者は、とにかく自分に与えられたセリフや動きを完璧に構築することに情熱を傾けていますけど、そういう完璧さってどうなんだろうと思います。観客の側と同期できなければ意味がないのではないかと言ったことがあります。演技の完成は、果たして演者の側だけでできうるものか。

 演劇を見る喜びは、まさに肉体を見る喜びと同じ。声と動きだけを見たいのなら、DVDで十分だから。今日の芝居の中で良い意味で気になったことは、役者がセリフをかみそうだったところが2、3ヶ所あって、次のセリフが出てこないで、半分笑いかけていた。そのとき、見る側のこちらは不快どころか、逆に一緒に笑いそうになった。これは実に大事なポイントだと思う。

府川 佐藤B作さんの芝居のときにも遭遇しました。

 そう。彼の凄さは、そうした失敗も含めての演技の幅だから。

府川 つまり、観客と完全にシンクロしている。

 だから、セリフが抜けてしまっても面白い。

府川 反対にシンクロしていないと、ちょっと言い間違えただけで、とたんに場がしらける。舞台がこわれる感じになります。そういう観客の生理はいわば、自分がどれくらい舞台と一体化しているかのリトマス試験紙だと思います。

 セリフを忘れたときにあせる役者というのは、学芸会の発表で暗記したものを完全に再現できずに失敗した生徒に似ている。しかし、間違っても、お金を取る舞台は学芸会とは違う。

府川 現実にはありえないことも、舞台上では成立してしまうのは、演者と観客との間でリアリティーが共有できているからで、それを促すのに演出の技量が関係してくる。演劇の創り出す世界って見えないものだし、演技者だけの視点では完成しえないから、どうしても第三者としての演出の眼が必要になります。だけど、それが節穴だったら無残な芝居になる。

 少なくも今までの楽座風餐の観劇体験の中で面白かった芝居は、すべてリアリティーの共有が実現されていた。


 補記

府川 これだけ多くの多彩なキャストを集めて、高いシンクロニシティを実現させたというのは素晴らしい。他の劇団じゃ絶対できないことを思いっきりできたという役者もいたに違いない。例えが悪いかもしれませんが、自由に回遊できる池に放流された魚のような感じ

 とにかく、現場の匂いがあって、その同じ現場に立ち会えるということ。これを抜きにして演劇は絶対に生きられないと思う。「どんぶりの底」はその匂いに満ち溢れていた。


 楽座価格

 5、500円

府川 5、900円


楽座価格=5,700円

 


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