チケット料金=前売7,500円






楽座風餐 第30回  母に欲す   2014年 7月 20日

〔観劇者〕 田畑明子  府川雅明  林日出民


  第一印象

田畑 時代が巻き戻された感じ。今、家族の問題って、国内外で目白押しでしょ、それこそ、人工授精の子の認知、性同一性障害、DV。その中であんなにシンプルに今の若者が、異性や母親、父親に対して認識しているなんて、びっくりした。素朴な脚本、演出で。それがまず第一印象。どうでした?

 私の印象としては、観劇前はタイトルの『母に欲す』が面白いなと思っていました。“母を欲す”でなく、“母に欲す”とはどういう意味なのかと。その種明かしは後半に明らかになってくるんですね。亡くなった母親に対する欠乏感を新しい母に求める、欲する物語として、リアリティが持てる芝居で、その点は好感が持てました。冒頭のアパートでの若者の時間をかけた日常の描写など手のこんだしっかりした作りを感じました。

田畑 演劇は時代性を吸収して見せてくれるものでしょう。その意味で今日の芝居は、異性や家族のコミュニケーションに関して、情操的には素晴らしいものでしたが、表現の方法としては、ちょっとズレてませんか。義理の母親が『すみません。』という言葉があまりに多すぎるとかね。腹が立つ、私がさっぱりしている性格の問題もありますが。

日本の観衆って、今、本当におとなしいのね、「夢の遊民社」とか「青い鳥」とかのころ、古い話になっちゃうけど、見る側にガヤガヤ活気があったわ、かつては。今日の作演出は優等生。表現である以上、彼の家族観は当然、集約されているはずなんだけど、もっと女性に対してエグいところとか、自分の個人史とかを見せてほしかった。

唯一、前衛だと思ったのは、義理のお母さんが息子を裸にするでしょ。あのとき、ディアギレフの映画で、ホモセクシュアルのニジンスキーがバレリーナを素っ裸にするシーンを思い出した。

それ以外は、あくまで息子がお母ちゃんにひたすら甘えたいという情、そして若者の思うようにならない焦燥感とか、どこにでもある風景を見せられたっていう感じ。

府川 今、田畑さんが面白いことを言ったけど、あの、服を脱がすところなんか、フランス映画なんかで、ニュートンの法則よろしく、重力に従って、サッと服を脱がす演出があるじゃないですか。そういう意外性すらもないんだね、今日の芝居は確かなリアルはあるんだけど、ただひたすら、教科書どおりに、ありうる状況を一つ一つ布石を打って、忠実に再現している。でも、そういう芝居にお客さんがたくさん来るっていうことは、ニースがあるわけだ。

田畑 そこがびっくりしてるの。

 田畑さんが見ながらおりおり声を上げていたのは、舞台に不満があるところだと察しましたけど、僕もその点、全く同感せざるをえなくてね、最終的には金返せの立場なんです。非常にリアルなしっかりした作りには感心しましたが、あまりにもプロトタイプすぎる。特に親父の造型、古い日本の親父とその二人の息子とのお決まりの確執ね。

田畑 まさにジジイの典型。

 そんな型どおりのものに3時間つきあう意味は一体、何なのか。やはり何か新しいものを見たい。

田畑 はっきり言って、演出に何の作為もない。私は否定論者じゃないから、評価したいところは積極的に認めたいのね。演出家はまだ若いんでしょ、期待するわけですよ、まだ見ぬ感性に。もっと不条理があるはず。それをぶつけるべき。舞台は結局、それがないとね。

 究極、作る意味があるのかということ、それはまた見に行く意味があるのかにつながる。実に勿体ないという気がする。これだけの劇場でお膳立てがあって、東北と思しき田舎の家族の風景を見せるだけに情熱が傾けられている。現在、世の中で起きていることに敏感に反応するはずの演劇のベクトルがかなりずれていないか。母親に対する息子の愛という普遍的な主題を掲げてしまったので、その帰結として、がんじがらめの保守的設定に陥ってしまったのか。

田畑 自分を縛っちゃった。男だの女だのという時代はもう過ぎ去ろうとしているんだけど、相変わらず日本はその辺、立ち遅れていてね。ようやく最近になって、議員のセクハラ問題とかが明るみになってきている。これは歓迎すべきことだけど。

 逆に、ここまでたくさんの観客が身に来る理由を考えると、普通の家族を見て安心したいからという人もいるんだと思いますよ。日常がむしろ暴れすぎていて、日常のほうが危険な劇空間になっている。この辺だって脱法ドラッグの運転手がいきなり車で突っ込んでくるかもしれませんよ。

田畑 ある種、メルヘン?

 メルヘンを求める心と同じになってしまうかもしれない。

田畑 間違ったことをしているわけじゃないのよ、登場人物は。だけど、もう少し新しい解釈を加えたらどうかしら。例えば極端な話ですけど、新しい妻がホモだとかね。もっと意外性があっていいんです。そのほうが面白いと思った。それから息子の性格描写が必要。兄弟同士の関係性や対比だけじゃなくてね。お兄ちゃんがミュージシャン志望だと後でわかって来るんだけど、目指すジャンルがフォークなのかロックなのか、ジャズなのか。そういうことで、価値観がさらに見えてくるはず。状況描写だけで個性がなさすぎる。そう思わない?

それから、『一週間後』とか、映像の字幕で時間経過を伝える安易さは気に食わない。怠け者。

 あれはいただけない。肉体を駆使する演劇のリアリズムに反する。

府川 三浦さんは映画も撮るわけだから、あれは宣伝なんでしょうね。たまたまお二人の意見をアウフヘーベンするみたいになりますが、僕の印象を言うとね、最初に下宿で若者がもぞもぞ体を動かしているシーンを長々と見続けているときに、『これは人間の芝居じゃないんだ、動物劇なんだ。』とふと思ったわけ。変な言い方になるけど、いわゆる人間ドラマにするなら、何故=WHYがインサートされるはずですよ。例えば、長男がね、『なぜ息子というものは母親が死ぬと悲しむのだろうか。』とか、『なぜ悲しいことが身内に起こるとギターを鳴らしてしまうのか。』とか、そういう、いわゆるシェイクスピア劇に典型的な客観的自己洞察の明らかな表出が登場人物の中に全くない。だから諧謔やユーモアがおよそないし、知的感興も起こらない。パロディー芝居はもう見飽きたってことなのかもしれない。

弟は公務員でそれなりにお勉強もしたんだろうし、知能もあるだろうが、知性が決定的に欠けている。彼を含めて全員に、いわゆる物事を自力で思考する能力が見当たらない。だとすれば、田畑さんの不満はすべて空回りということになるね。だって、そういう近代的知性の人間なんか、最初から求めていないんだもの。子猿が母猿の死を嘆き悲しみ、新たに現れた母猿と生活するうちに慣れ親しんでくるというお話にすぎない。

それから、林さんが言う、安心を求めてこのお芝居を見に来る客が大勢いるということも納得がいきます。何しろ今の人間は、特に満ち足りた若者は“なぜ”なんて問いは必要ないから。時間ばかり浪費して何のご利益も与えないですから。まさしく哲学者のコジェーブが言った、歴史の終わりの人間たちですよ、ひたすら機械のごとくに今を生き延びる。だから、今日の芝居のラストは、下宿に戻った兄が自慰をし、父は亡き妻の遺影を見つつエロビデオに興奮し、弟は婚約者と抱き合う。結局、やることはSEXしかないんです。これは三浦さんの明らかな戦略だと僕は思う。ここを僕は高く評価したい。

さらに言えば、このインターネットの情報がはびこる世界で人間は恐ろしく均質化していて、しかも少しでも目立てばたちまちたたかれるわけですね。そういう中で演劇に若者が求めるのは、より高い人格の発見ではないです。むしろ、少しも向上心のない人間が目の前で延々と馬鹿なふるまいをしてくれることだ。それで溜飲を下げる。間違っても実存的な問いかけなど喚起してくれるなということでしょう。それこそが林さんの言われる安心の実態なんですよ。


 楽座価格

田畑 PARCO劇場の設備や規模を考えると、そんなに安い値段はつけられないけど、お芝居はあまりお金を取ってはいけないというのが私のポリシーだし、私の友人もその主旨で演劇活動をしているからね、そうね、4,000円前後かな。でも、私たちの座っていた出入り口近くの席って、同列の中央の席と同じ料金って、どう考えてもおかしくない。

府川 それは一律になってますね。

田畑 やっぱり、3,000円にするわ。

 

 劇の内容だけでなく、劇場に対する評価も当然含まれていいと思います。僕は、5,500円です。休憩を挟んで一部、二部を3時間おつきあいして7,500円を丸々支払えるかという思いがどうしても先に立つ。決して新しいとは言えぬ現実を、ただ忠実に再現するだけのリアリズムでは満足できない。

舞台上でしか成立しないリアリティというものがあって、まあ、これがないと全くわけわからないものになるわけですが、それをやはり求めたい。

田畑 そう。舞台上のリアリティは、むしろ省略とか象徴、誇張でエネルギーが出てくると思うのね。例えば、蜷川幸雄演出の泉鏡花の『瀧の白糸』での朝倉摂の美術とかは、長屋のアパートの部屋のハンガーが風もないのにカランカラン鳴っているわけ。そのあたりのセンスね。あるいは食事のシーンって、日常の再現のために象徴的に出てくるし、今日も出てきたけど、そこが演出の個性や腕の見せ所でしょう。もっと個性を出さないと。あ、ごめん、三浦さん。私、生意気を言い過ぎた。

府川 林さんが3時間という舞台時間の長さを取り上げたけど、多くの若い観客にとって、身内の死が身近なものでないからこそ、成立するもかもしれない。想像では補えないので、舞台に流れている時空間そのものを同じように体験することで、ヴァーチャルな30秒CMのような情報映像としての他者の死ではなく、実感としての死をたっぷり味わいたいという欲望を満たしているのかもしれない。もしそうだとしたら、まさに平和の産物です。わが国もみなが本格的に退廃的になってきたということです。

田畑 そういう見方もあるかしら。

府川 もしも、身内の死が日常に溢れていたら、あえてそれを舞台にするのは見慣れすぎていて無視するか、見たくもないと言って拒絶するかでしょうから。

 それもあるでしょうが、ふだんインターネットで動画ばかり見ていて、想像力が欠乏しているのではないか。だからこそ時間が長くならざるを得ない。

府川 大きくはテキスト文化の衰退かな。活字の行間からあれこれと想像力を広げる習慣が衰退している。だから、演劇においても比喩とか暗示を使うのはプラス評価にならず、きちんとすべてを説明することがプラス評価につながる。

田畑 若者よ、もっと目に見えないものに好奇心を持てと言いたい、老婆心ながら。

 その意味では、私はラストで長男が東中野のアパートに戻ってきて、亡くなった母の留守録メッセージ、生前の最後のおふくろさんの話す内容に本当にしらけました。

田畑 林さんもそう思った?私も全く同感。席を立ちたくなったもの。長々と話さなくたって、一言二言でわかるでしょ、あそこは。でも、今の若い人って、私の職場でも経験することなんだけど、全部説明しないと理解できないのよ。

 あれは決定的に失敗だと思います。多くの観客の思いを代弁させようとして、グズな長男の未来の更生を促す母親のセリフで、ヒューマニズムの気持ち良さに持ち込んでオチをつけたいという雰囲気が明らかだった。

府川 とはいえ、繰り返しますが、最後の最後、男三人が各自、性欲を満たす行為で劇が果てている。僕は逆にアンチ・ヒューマニズムだと思う。

今回、僕は5,000円です。『ストリッパー物語』のときは三浦さんは演出だけでしたが、今回は脚本も担当している。そこで、甘さが出たなと思いました。推測ですが、長男役は三浦さん自身をかなり投影しているように思います。自分の思い込みの強いキャラクターの取り扱い、言い換えると自分の一番の得意分野こそ、最も造形が甘くなるというのが僕の批評の当て方なんですが、今回もそれが見い出せた。自分を投影する部分をいかに客観的にクールに突き放せるかどうかでクオリティーは決まると思いますけど、田畑さんが鋭く指摘されたように、長男はミュージシャン志望だといずれはわかってくるが、フォーク志望なのか、ロック志望なのかよくわからない。その種の差異があまり大したことがないように明確には造形されないままに放り出されている。一方、郵便局員の次男のほうは、造形がしっかりできている。おそらく、三浦さんにとって、次男は明らかに他者だからであり、一方、長男は自分事でよく事情がわかっているので、説明をしない。する必要もないという感触が僕にはあった。

しかし、観客からするともやもや感が残ってしまう。ですから、一見するとこれ以上シンプルでわかりやすい設定はないように思えるし、長男以外の人物は滑稽なほどにリアリティーを出しているが、肝心の長男の闇が未消化である。それはそのまま作者に戻ってくるはずだ。

とはいえ、形式的には、最初にも申し上げたように、これを人間ドラマではなく、動物化した人間の劇と考えると別の興趣があり、作家でいうと、金原ひとみの世界に通じるような表現の可能性を感じました。



楽座価格=4,500円

 


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