チケット料金=前売4,000円





 

楽座風餐 第10回  背水の孤島   2012年8月31日

観劇者   林 日出民   府川 雅明


全体の印象について

  結論から先に言いますと、第二部が一流、第一部と第三部が二流です。第二部で、まずほめるべきところを先にどんどんほめますが、演出、筋立て、装置など細部すみずみにわたって丁寧な出来栄えで、しかも舞台にお金をかけていますね。バラック風の納屋のリアリティーに徹した作り、昼の日差しに日没の夕闇、虫の飛ぶ音、そして舞台中央と上手、下手それぞれで別々のシチュエーションが進行する隙のなさ。大変見事です。演出の周到な気配りに俳優陣も地元の言葉を使って熱演で応えた。美術さんも大したものだと思います。幕間に流れる素早いテロップの流し方と早口のナレーションのセンスも気に入りましたし、幕が下りているその短い間に行われた完璧な舞台転換の手際も素晴らしかった。

第二部は、東北大震災の被災地の現実を再現していますが、被災の現実を知る一番の方法は実際に現地に赴いて一緒に生活を共にすることでしょう。しかし、なかなかそうはいかない。二番目の方法は、テレビや新聞などマスメディアでの情報ではなく、文学だと僕は思います。優れた小説を読むと、実感として、生の苦しみや喜びが伝わってくる。自分の経験に即して言います。以前に、タイ、ベトナム国境の少数民族であるモン族を訪れたことがありますが、ベトナム戦争時のそのモン族を描いた『メコンに死す』というピリヤ・パナースワンの小説は現地の生の呼吸に触れて、彼らの匂いを彷彿とさせます。傑作だと思いますが、今回の芝居の第二部もそれに似た実感があった。そして実際、芝居の中で、《匂い》が出てくる。

府川  覚えています。大学受験生の片岡太陽が叫びますね。「この町全体をおおっているにおいは死体のにおいなんかじゃない。生きている人の心のにおいだ。津波で人の心が腐っちまった」と。

  背水の孤島における舞台上の作られたリアリティーは、もちろん現実の被災地のリアリティーとは違うでしょう。しかし、それでも十分に迫力があり、満足を得られました。これが芸術の味というものではないか。

府川  僕も林さんの言われるように、第二部は秀逸だと思います。なぜなら、第二部だけを独立したお芝居として見るとき、古典的な悲劇の作劇方法に則っていて、おそらく演劇評論家の目から見れば模範的ともいえる作品に仕上がっているからです。

具体的に申し上げます。被災地の現状の全貌をより忠実にリアルに再現しようとすると、登場人物がおのおののおかれた状況をこんなことがあった、あんなことがあったと競うように観客に認知させようとしがちです。被災にあたって受けたものは個々人で千差万別だからです。しかし、それらを逐一再現しようとする誘惑を抑制して、途中から大震災の日における役場勤務の野崎の医学生片岡夕に対するレイプ(この言葉が適当かわからないが、端的に言います)の顛末に筋立てを収斂させ、観客の関心を一点に絞っていき、ドラマに強度を与える。最終的には、無関係と思われた太陽の缶詰泥棒の一件も、夕の中絶手術費の捻出が真の動機だったとわかる。また、夕の恋人である高校教師の石塚にレイプの事実が認知されて悲劇が起こるが、最後は父親がカタルシスを担う役柄として舞台を締めくくる。一組の男女のレイプを中心軸に据えて、大震災の悲劇を象徴的に描き切る手法は優れていると思います。舞台上の役者の無知から知にともなって起こる不幸。愛から憎悪への変化と苦難。偉人でも悪人でもなく、何の落ち度もない人間が行為による過ちで絶望することなど筋立ては悲劇として完璧です。また役者が現地の言葉を駆使したことや舞台美術の精巧さなども、筋立ての統一感を補強する役割を果たしている。

林さんが劇の内実を語ったので、僕は形式から語りました。以上述べたような作劇法からのみ評価するとき、第二部は一流で、それ以外は二流とはっきり言うことができます。もっとも第一部は長丁場の劇の前口上ともいえる短さですが。


第二部がなぜ面白かったのか

  第二部がなぜ面白かったのかについて、さらに語りたいと思います。第二部に迫真さをもたらしたのは、何と言っても医学生の夕が大震災の日に子供を亡くした野崎の子を宿すというプロットですね。奇怪なことは絵空事の世界ではなく、現実の話であるという救いようのなさが、なまっちょろい物語化を防いでいる。

野崎が夕を抱きたくなったのは、死ぬ前にせっかくだから一発という泥棒根性が動機なのではありません。精神病の一つに、現実感を得たいがためにひたすらオナニーをする類型があると聞きます。大震災のカタストロフィ直後に、なぜ強姦が多発するのか。どさくさまぎれの自暴自棄ではない。それはまさに性衝動の成就によって「オレはここにいる、まだ生きている!」そんな実感のためではないか。現実が大崩壊していく中では、人間は性によってリアリティーを取り戻したいと強烈に欲望するのではないだろうか。

府川  僕も全く同感で、野崎と夕をめぐるプロットの発見が第二部の成功を支えている。なぜなら、本格的悲劇においては、一見ありそうもないが実際には起こりうるべき事件が発生し、その後に観客が納得する必然性を持ってドラマが進行するわけですが、第二部はその条件をことごとく満たしている。ここで、比較の意味で極端な失敗例を仮に一つ想定すればわかります。夕が望まれずに孕んだおなかの子供を知った周囲が、悲しむどころかむしろ喜んで宴会で盛り上がるような展開です。これは喜劇になってしまう。登場人物たちによりよい人格が求められる中でこそ、悲劇は成立します。

  第二部のリアリティーを実現するために表現者が目指すことは一つしかない。酔わないこと、目覚めることです。被災地の人たち、とくに肉親を奪われた人たちは酔わない。いつも目覚めている。眠っていても目覚めている。それは私が南三陸の人たちとすべてを失った風景を前にして話して得た実感です。酔っているのはたいていボランティアの方です。自分の行為にどこか酔っている。私もそういうボランティアにはほうぼうで会ってきました。とにかくそばにいるだけで疲れるんです。だから第二部のボランティアの安藤祥子には実にリアリティーがありましたよ。それはボランティアをとらえる演出家の目が酔っていないからです。

ボランティアと被災者の間に、例えば、献身さの美徳と純粋な感謝といったような予定調和の物語を持ち込もうとしていないからこそ、リアリティーが生まれる。

しかし、それでも現実の被災当事者から見れば、リアリティー云々と言ったところで、しょせんは芝居は作り物という意識は当然あるでしょう。現実のリアリティーと芝居上のリアリティーは確かに違う。しかし、舞台上のリアリティーが現実と拮抗する地点があると思う。それは生身がぞっとして「あり得ることだ」と実感させるところまで、舞台が研ぎ澄まされた瞬間です。こうなると演者の心と観客の心を隔てる何物もない。芝居が我々の普遍の心情に触れてくるからです。

やはり一級の役者は観客を泣かせるし、われわれ観客が逆に芝居を模倣したくなるのもこの辺のところです。案外、うっかりすると現実の人間のほうが芝居じみた泣き方をしていたりするわけです。

府川  アリストテレスが喝破したように、我々人間の本性には行為を模倣したいという根強い衝動があります。ところが模倣には技術がいる。だからこそ、技量を備えた役者を通じて我々は代理的に欲求を満足します。テレビではなかなかわれわれの欲求を満足できないが、林さんの指摘する現実の人間のほうが芝居じみた泣き方をするというのは、ふだん悪い模倣を見すぎているからなのでしょう。その意味で、演劇は観客が“優れた模倣”を獲得するための教育的効果を持ちます。良い芝居は身銭が取れる。

  話がそれますが、大震災以降、中途半端なリアリティーの表現は駆逐されたのではないか。それまで創作者が取り組んできたものが、いかに中途半端でお座なりであったかを思い知らされたのだと思う。だから、残された道は、徹底的なリアリズムか、その真逆の反リアリズムの両極しかないように思います。


第三部がなぜ面白くなかったのか

  僕は第二部の水準が高かっただけに、第三部への不満がよけいに募ります。第二部と違って、第三部はことごとく予定調和で、合目的的で、第二部で起こったような驚くべきリアルな事件が起こらないからです。第二部で登場してきた被災地の人間が、近未来の第三部で財務省の執務室に姿を変えてそのまま出てくるというのはあまりに不自然です。大体、別れた人間たちが再び出会うことはなかなか起こらない。

確かに舞台上で許されたリアリティーはあると思うが、一歩足を踏み外すと安っぽくなる。第三部は映画の『踊る大捜査線』を見ている感じがした。政治的な現実の話がからんでくるのに、こちらの臓腑にドスンと落ちるリアリティーに欠けて、琴線に触れず、何か大の大人が寄り集まって《政治ごっこ》をしている感じがしました。

府川  逆説的ですが、僕はまさに、その《政治ごっこ》のつまらなさがリアリティーを持っていて面白かった。財務大臣の小田切が、いかにもスマートで高学歴で無責任で中身の薄い政治家を演じていましたが、これは演出上の演技でも何でもなく、今の日本の政治家の姿そのものの再現だと思い当たりました。つまり、現実の政治があまりにも陳腐ゆえに、それをそのまま再現すると、芝居も陳腐になってしまう。

劇評と離れて私憤を言いますが、テレビの政治討論番組に出て、立て板に水のごとく話す国会議員の輩が、あたかも“国民大衆のための”政治家であるようにふるまっていますね。馬鹿言うなですよ。口下手だろうが見栄えが悪かろうが、真に我々にとって利益となる法律を作って、実際に通せることが本物の国民政治家です。政治家ぶりっこ政治家は、テロなどの国家を揺るがす重大事件が起きても、『踊る大捜査線』のような対応になってしまう。つまり第三部は社会風刺劇の一種と言えますね。

  とりわけ第三部で最も重要なラストの片岡太陽の謀反が良くなかった。彼の謀反を正当化する論法が気に入らない。第二部で缶詰工場から缶詰を盗み、それを責める大人に対して、大震災直後に教師の石塚が大量の缶詰を被災者に勝手に提供したことも同罪と論駁する。太陽の盗みの真意は、姉の堕胎費用を稼ぐためとわかって、観る側に心理的な納得を与えます。ところが、第三部でまたしても同じ論法を使って、復興に無策の政治に対するテロリズムの正当性を主張する。しかし、このシナリオはどうだろうか。大臣が日本経済逼迫のさなかに大量の国債を外国人向けに発行することと、大震災直後のパニック状態を同列に比較するのは無理がある。

片岡太陽の謀反は彼のひとりよがりという色を持たせるのがリアリティーであって、結果として彼は命を落とすか、刑務所に入るべきだったのではないか。ところが涼しく姉夫婦とともに亡命を果たし、安藤祥子もまた、その後を追うというのでは、いやはや気持ちが良いのは本人たちばかりだ。現実は決してこんなものじゃない。

第二部とは全く違って、作り手は自分の脚本に酔っている。そこが第三部のつまらなさの原因になっています・


近未来を演劇化することについて

府川  第三部は、不安の多い今後の日本への観客の関心に沿って、仮想の近未来を演劇化した内容でした。未来を描くことについて林さんはどう思いますか。

  一時期、アルビン・トフラーとかダニエル・ベルとか未来学者がもてはやされましたね。しかし、どんなに精緻な未来予測といっても、一人の頭の中で考えられたことにすぎない。未来が現実になれば大概は外れるわけです。そういう思いつきの話につきあわされることは苦痛です。今日の第三部は決して苦痛ではなかったですが。

府川  未来学者は、投機的な資本主義のニーズにはまっていましたからね。一見、新しい価値観やモラルなどを提起しているようで、要は未来に向けてどの分野に投資すると儲かるかということです。もはやそういう時代は過ぎたように思います。ことに大震災後は。


ファシズムの予兆

府川  ここからは芝居そのものの感想から離れて、僕自身が背水の孤島を観てインスパイアされたことを少し語りたいと思います。大衆の潜在的な欲望が演劇に何らかの形で反映すると考えるのが僕の立場です。今回のお芝居は、我々日本人が潜在的にファシズムに傾斜しやすいことを確認させたと同時に、不況や震災でそれが高まりつつあるという予兆を感じました。

まず、役柄の設定についてですが、政治家とマスメディアの人間が大学の友達同士で、社会的立場が正反対で敵対するはずなのに、ホモ同士ではないかと思えるほどに仲良くつるんでいるということです。これがそもそも異常ですが、全く違和感がないのはなぜか。 

日本人は国際調査でマスメディアを信じる人が7割で世界最高であり、中国やチュニジアよりも高い。ヨーロッパ諸国は軒並み平均3割で、イギリスに至っては2割を切るという結果が出ています。考えてみればすぐわかることですが、新聞は広告主の悪口は書かないし、テレビはスポンサーの批判はご法度です。マスメディアを全面的に信頼すること自体、原理的に間違っています。僕は日本人は文盲率は異常に低いにもかかわらず、情報認識における文盲率は異常に高いと思います。

次に、第二部は家族の経済が大震災で破壊され、第三部は国家の経済が破綻することが基本設定です。おそらく観客の多くが、同じ人間が姿を変えて全く違う場に再度出現することに不自然さを思ったはず。それでも第三部を最後まで見てしまうのは、第二部の家族およびその周辺の小コミュニティーの人間が、第三部でそのまま国家中枢を左右する大コミュニティーに同心円状に移行している劇構造を現実の日本と照らし合わせたとき、激しい違和感を覚えないからだと思います。つまり一定のリアルさ、説得力を持っているということです。「そんなこともあるんじゃないの。」と。

これが何を意味するかというと、国家は家族であり、家族の思いが国家の思いと一致するというナチスの国家社会主義なんです。中国のようなナショナリズムとは違う。日本はもしかしたら、震災によって、この方向に急速に傾斜しているのではないかと危惧します。もともとその傾向は強いですが。

僕はここに、家族でも国家でもない、市場(マーケット)という認識の欠如を感じずにはいられません。市場は家族原理とは別のものです。モラルとは一致しません。だからこそ自由であり、また問題でもあるのですが、例えば、片岡夕の望まれぬ妊娠という不幸な事態を解決する方法は、金を払って中絶手術を受けることです。これが市場です。その市場が機能しないときに、われわれの選択の自由が衰亡し、未来が閉ざされます。だから、第二部の真の悲劇性は、中絶のための費用すなわち市場へのアクセスが不可能になる困窮と同時に、自由が死ぬ世界観とも言い換えられます。もしも中絶手術が国家管理になったらと想像すればわかることだと思います。

僕は第三部で、CIAの回し者と疑われる外国人記者の活躍に期待しました。彼がファシズムに風穴をあける外部性、市場性を持つ唯一の存在だからです。マスメディアは市場の一つです。我々は複数のメディアから価値を選択する自由を持ちます。例えば、外国人記者が日本にとって不利な情報を流すことは、彼らの市場性に合致しているのです。世界中の知性を持った人間ならば、この外国人記者の報道を素朴に丸呑みなどしません。だから、もっともっと大胆にドラマを切り開いていいはずなのに、おとなしい。

劇ではこの記者は《日本大家族から排除される存在》としてつつましやかでした。ここが僕は閉鎖的、ガラパゴス的で不満ですが、そうしなければコップの中の嵐のような孤島の中の内輪テロリズムごっこも成立しないのでしょう。しかし、だからといって作演出家に不満なわけではありません。なぜなら、中津留さんは、日本人の観客を市場にして生きているからであり、その顧客を満足させる物語が必要だからです。とはいえ、日本人のナイーブさは演劇のダイナミズムに限界を与えるもので、観劇者の一人として残念です。


楽座価格について

  前売価格は4,000円でしたが、第二部だけで終わっていたら私は6,000円を出した。理由はもう十分述べました。しかし第三部を見せられ、夢から覚めたというよりは、その反対にせっかく覚めていたところに変な夢を見せられてしまった。だから相殺して原価どおり4,000円と言いたいところですが、やはり第二部の秀逸さは捨てがたく、やや持ち直して4,500円とします。

府川  僕は第二部までならば5,000円で、十分に元が取れていて、ここで席を立っても大満足でした。第三部は第二部の土台に乗っかったプラスアルファーという認識です。全体として5,500円です。


楽座価格=5,000円