チケット料金=前売2,500円






楽座風餐 第22回  磔(ハリツケ)    2013年9月21日

〔観劇者〕 府川 雅明  林 日出民


 ≪第一部 舞踏

 今回は演劇ではなく、舞踏なので、本題に入る前にまず確認したいことがあります。僕自身、舞踏は長く見ていなかったので。

府川 どうぞ。

 今日の芝居は、久しぶりに根源的なものに触れる機会を得て面白かったです。なぜ演者がスキンヘッドで、ほぼ裸で全身白塗りの姿かを改めて考えました、つまり、これは社会性も個性も消すという目論見なんだなということですね。剃髪自体、もともと俗を捨てて出家することですし、服も社会性ですね。地位や所得、職業、年齢などを表徴する。そのうえ黒塗りでなく、白塗りなのは、黒い肌だと昔で言えば、肌が焼けているやつは粗野な人間で野良仕事しかできないなどと蔑まれ、現代になると逆に、肌が焼けている男は活動的で社会的な顔だなどというプラス評価にもつながってくる。ついでにいえば、毛も個性であり、社会性ですね。髭を生やせば男らしいとか。体毛が濃いのはどこそこの出身だとか言う者もいる。


 白

 で、結局、そういうものを全部取っ払っていきつくところが白なんですね。漢文学者の白川静さんによれば、漢字の白は頭骸骨を表しているらしい。往時、中国では道端のどこにでもシャレコウベがころがっていましたから。要するに骨に戻るということですね。

僕は、名を失った白塗りの姿は一種の道化なのだと思います。西洋でいうと、ピエロですね。何の個性も持たないんです。日本でも、その昔、九割方は名もない個性もない貧しい農民でしたから、道化とも言える。ですから白塗りで意味深げに一所懸命に踊っても、権力をめぐる野望や嫉妬とか財宝をめぐる骨肉の争いといった悲劇を表すようなネタが生活の中にないわけで、ひたすら笑いに近づいていく。山海塾という舞踏集団がフランスで大ヒットしたのも、笑劇(ファルス)に通じるからかもしれません。

何を言いたいかと言うと、根本的な存在様態に触れた気がするんです。たいていの場合、我々は道化のありかたに耐えられず、服を着たり、髪を伸ばしたり、あるいは化粧したりという行為をするわけです。

今日の芝居のことに話を進めますと、そういうものを一切剥奪したありかた、存在様態を久しぶりに見ることができて、とても爽やかだった。どんなに演者の方々がおどろおどろしく振舞おうと全く退屈しないで最後まで見られました。これが舞台全体を通じた明確な印象で、これ以上あまり意見はないくらいです。

府川 何で、この形式の舞踏が続いているのかというと、やっぱり演じるほうも見るほうも、何と言っても気持ちがいいからでしょう。個々の人間の心理だの能力だの社会的役割だのを土台に編まれる、いわゆる近代劇を見るときには、観客は個々の役者の演技に思い入れて見るわけです。そもそも裸体というのは文明の反対、未開の象徴ですから、個性も自我もへったくれもない。

しかし、今日の舞踏はそういう個性を一度チャラにして、身一つに戻し、今度はその身一つの地点から個々の身体やその動きを爽やかに浮き彫りにしていく。これは与えられたセリフを駆使して状況を再現する劇と違って、演者は自分の身体を駆使してゼロから独自に状況を創造していくわけですから、この世界に一度はまったら、面白すぎてちょっと抜け出せないのではないですか。

その演者たちの解放感が見る者にいやおうなく伝染する。最後に演者全員が声もなく笑った表情で終わりましたが、あれは表情筋を弛緩させたゼロ記号ですね。何も表さないということ。ここに本質のメッセージが隠されていると思いました。

 我々がいかにふだん無駄をいっぱい身につけることで生きているかを逆照射してくれる面白さでしたね。舞台の中でスキンヘッドの上にズラ一つつけられるだけで、個性が与えられる。示唆深い。無駄を剥奪した果てに現れるものを見た気がする。最後に出てくる演者全員の笑いは能楽でいう面ですね。今日は顔自体が面になっていた。能楽においても個性は消されて、鬼女なら鬼女、つまり鬼になるわけですが、ただ能楽は服を着ますから、それによって表されるものがある。それすらも剥ぐというところに今日の舞踏の徹底さがありました。この形式が生きて続いていることは納得します。


 言葉はあざとい武器


府川 言葉の劇をさんざん見た後の垢落としというのかなあ。

 言葉というものは最も社会的なものであって、ある種の無駄なんですね。言葉によって状況をどんどん作って、言うなれば話者が自分に有利なほうに導こうとするものですね、相手を打ち負かしてやろうとかね、ですから、あざとい武器なんですね、たぶん言葉は。


 ≪第二部≫ 物語

 いかに言葉の劇ではないとは言っても、ただ舞台に立っているだけでは何も事態は動かない。

府川 そこでまあ、見る側としてはあれこれ勝手な想像をするわけです。まず磔にされた奥山さんがいきなり登場する。主演で演出も兼ねる奥山ばらばさんのバラバの名を聞けば、新約聖書に登場するイエスが磔の身代わりをすることで処刑を免れた人物をどうしても思い浮かべざるをえません。何かそこに深い意味を見出そうと詮索したくなる。

最初に、工事現場のようなマシンガンのような喧噪音の中で鉄パイプに磔にされたばらばさんが回転します。ところがすぐにわかることですが、彼は磔にされていたのではなくて、自分からパイプに巻きついているだけなんですね。ここが大事なポイントで、つまり処刑といった社会的な制度によって強いられたのではなく、言い換えれば、自分の思いつきで遊んでいたということです。彼は最初から最後まで徹頭徹尾、自分が動きたいように動いている。社会的な枠を超えたところで子供のように自由にふるまっているんです。

その後、舞台の奥に木製の処刑台と思しきものに別の人間が磔にされている。これは村松さんが演じていますが、イエスなのか女性なのか、どちらとも取れる、どこか憐みを誘うような姿で登場する。何ともいえない味を出しています。奥山さんと村松さんはこの台の前で交互に肢体を交わうわけですが、読みようによっては背徳の至り、キリスト教から見たらとんでもない涜神劇ですね。けれども、『はじめに言葉ありき。』のその言葉以前の世界で、単なる太い棒切れを前にした気まぐれな動作と見れば、鳥獣戯画の世界です。

もっとも、そうとも言い切れないのは、この二人を見上げる下の位置にいて、文庫サイズの入門書らしきものを読む五人の男たちの存在です。彼らはTRANSLATION、入門と表紙に書かれた本を尻にはさんで動き回りますが、磔台に立つ二人を仰ぐような動作をしますね。あれは崇拝を連想させる、宗教的、社会的行為です。この五人は使徒、信徒とも解釈できる。社会的に要請された行為をする半文明人の象徴です。彼らには奥山さんが持つ神のような自由な動きは禁じられている。


 尻に本を挟む

テキストを尻に挟むというのもいろいろな解釈ができる。テキストが血肉化したということなのか、テキストを否定しているのだが、完全にはテキスト離れができないということなのか。そもそもテキストというのはトイレットペーパー以上の役割を持たないということなのか。

つまり、演者は二つの構造を見せているんです。一度、社会性や個を打ち消されたのちにも、なお身体の動き自体が持っている社会性は残っているんだと思う。本を読む行為や崇めたてたりする行為などです。ばらばさんはそこから脱却した個人の自発的身体行為、自分が動きたいように動く世界に入っている。舞台上での演者たちこの分裂が僕には非常に興味深い。

 そのあたりは奥山さんの頭の中の世界の再現で、まあ、解釈はいかようにもできるものですからね。着せ替え人形よろしく、とっかえひっかえ、さまざまな物を動かない演者の頭や手にかけるシーンが途中で出てきますが、あれは元が物欲を拒絶した全身白塗りの姿だけに、ギャップが生み出す面白さがありました。

府川 最後に、磔台の前で延々と奥山さんが腰を上下に動かし続け、他の演者もそれに合わせて腰を上下動させますが、あれは性行為のメタファーであると同時に宗教的儀式行為とも取れ、また、ただの時間つぶしの遊戯とも取れる。

とにかく、セリフが存在しませんから見る側の解釈に任されるわけですが、多義的な解釈を楽しめるというのは、この舞踏の醍醐味の一つですね。敢えて神話なり深淵な意味なりを付け加えようとすれば、林さんが先に言われたように言葉はどこまでも饒舌に説得を始めるでしょうが、目の前でやっていることは汗を流しながら男たちが必死で行っている屈伸運動だけなんですから可笑しい。踊る阿呆に見る阿呆ということですね。


 ≪第三部≫ 身体

 それにつけても、奥山さんの身体の充実ぶりは群を抜いていますね。腰のあたりの太さなど迫力があります。この肉体の存在感はもう本人に先天的にあたわったもので、どうすることもできない個性なんで、主役として前に押し出されるほかにない。

府川 肉体美男子です。男から見て変な意味ではなく、人間の裸体が示す自然なエロチシズムは誰にもあります。対照的な村松さんの女性的な身体も別の魅力を醸し出している。

 湯山さんは顔が小さくて尻も引き締まっていて足が長い、スマートな現在の若者を代表するようなモテ男の肢体で、鞭を打つ伊達男の役回りは颯爽として決まっていた。身体は十字架ではないけど、死ぬまで背負うものですね。そこが面白いですね、何とも。だから、ついつい一人一人の肉体を鑑賞してしまうわけでしょう。

府川 まあ、女性から見れば、また別の性的な印象が深まるんでしょうねえ。


 漢の裸

 大体、温泉地で男の裸を眺めると、自分を含めてことごとく醜い。贅肉がまず目に飛び込んできます。とても他人の前に晒すような代物じゃありません。毛深さとか包茎とか、我々は互いに見ていないようでチラチラ観察しているわけです。ふだんの生き様、社会性が肉にダイレクトに表現されている。日本も米国も肥満が嫌われる風潮に現状なっていて、長淵剛が対談で『デブは敗北である。』と言っています。人に見せられる肉体が集まって立っているだけでも元が取れると言えば、言えるのかもしれない。  

個を消すという意味においては、演者は程よく引き締まった身体に収斂していくんですね。無駄肉がついていれば、それだけで社会性を露呈してしまうし、またガリガリすぎると飢饉とか極貧の社会状況を表してしまいますからね。勿論、マッチョすぎても非自然でいけない。そのバランスがエロチシズムを表す根っこになるんでしょう。

府川 その個々の身体という資源をセリフ抜きで活用するとき、その活用の仕方次第で表せる知性があるように思います。舞踏は実は何かの再現ではなくて、身体自体の持つ知性の発見作業なんじゃないかなあ。もっとも、言葉ではとても言い表せない漠然とした直感なんですが。もしかしたら、大駱駝艦が一番目指しているのはそのあたりなんじゃないかと思いました。

 それは面白いね。いくら利口なことを言葉に溢れさせても、めいっぱい腹がだぶついている肉体がある一方で、何もしゃべらずとも、人に知性を感じさせる肉体があると考えると。

府川 それには肉体に対する日々のストイックさが当然、要求されますが、ストイックな身体といっても、いわゆるバレーのような外面の美しさを極めるための身体訓練の方向性ではなく、内省的な個性を表す方向性があると思います。

 最初に個をなくすと言いましたが、削ぎ取った人間だけが獲得できるものがあるんだと思います。それは思想性も含んでいるのではないか。

府川
 一度、社会的に慣れ親しんだ、馴致された身体の動きを解体して、自分の動きを逐一再点検してシンプルなイメージを作り、新しい動きを少しずつ注入していくという感じですか。理屈で言えば簡単ですが、実際はえらく大変な作業でしょうが、しかし、そうなると、物事を演じるという立場とは矛盾してしまう。共感を観客に深く与える物語の再現上、社会的に認知されている役柄を最大限演じるために効果的な身体を作ることとは真逆の方向ですから。

 まさに演劇ではなく、舞踏ということですね。ですから今日の舞台にしても、物語を仕立てるというのは演者自身にとっては重要で意義があるのでしょうが、見ている側にとってはそれほど意味がないとも言えますね。何か契機がなければ肉体の動きを展開させることは不可能で、演者が複数いれば関係性が問われるし。独演でも観客との関係性を切るわけにはいかない。やはり、人間って観念や言葉からは離れられないんだね。


 
繰り返す

府川 繰り返しの動作がところどころ現れますが、よく見れば1回ごとに微妙に違っています。これも舞踏の面白さでしょうね。バレーのように機械のように正確に動くことが要求されているわけではない。

 いまどきのヒップホップ・ダンスが集団で踊るときは、その中の一人でも手の動きの角度や高さがズレていればまずいわけですね。なぜなら、モードに従った動きの完璧さによってしかストイックさや技量を示しえないからですね。ところが舞踏においては全員が集団で同じ動きをするとき、おのおの違っていてもかまわない。その代り、どこまで個々人が存在のストイックさを追求しているかが常に問題にされる。

府川 男が自分の肉体とストイックに向かい合うというのは、見る側からは爽快さだけではないですね。女の肉体と比べれば脆弱で、いい意味でも悪い意味でも繊細でスッキリしすぎている。

 女が持つ存在自体の美、完成された肉感とは異なり、鍛え上げなけれなならないというところに、男の痛ましさの雰囲気を感じてしまいます。ですから、磔なんて演題のメタファーはそれだけでもう十分に本質を語っている。

府川 男の場合、肉体が資源になりやすい。兵隊とか社員とか、労働単位です。

 単位、量に還元されてしまう。五万の兵力とか、豊富な人材とかね。

府川 その中にあって、ばらばさんの肉体の存在感。磔された身体が逆倒したとき、足で天井をぶち壊すのではないかという迫力があった。後半に演者たちが白塗りの身体に墨汁をかけられて、その色が肌に染み込んで刻々変化するのも見ごたえがありました。ペンキじゃダメなんです。

 その具合が実にフレッシュ、肉という感じです。白塗り自体もそうでしょう。時間がたつと、照明のおかげの汗で色が褪せて地肌が出てくるところも、モノで言えば皮鞄の表面の変化のような感じで、モノとしての身体の表現も見せてくれた。


 第四部≫ 楽座価格

府川 アトリエ公演なので、照明、音響がピタリと呼吸が合っていましたね。

 まわりが固めてますね。まわりに見守られて安心して演じていた。

府川 そんなに広いステージじゃないんですが、奥行を感じました。

 体が舞台の広さをわかっているんだろうね。

府川 ふだんから練習しているなという感じがした。

 全体として欲を出したり、脱線しずぎたりしなかったのが良かったですね。舞踏では知らずに変に逸脱することがあるじゃないですか。湯山さんのコマネチポーズなどはご愛嬌ということで。

府川  たけしのコマネチポーズは一発芸ですが、今日のように延々と続けると一発芸ではなくなりますね。

 舞踏になるわけですね(笑)。

  3、500円

府川 3、900円


楽座価格=3,700円

 


                                                                         ▲楽座TOPへ