チケット料金=前売 3,800円





 

楽座風餐 第34回  なぜ ヘカベ   2015年4月12日

観劇者   林 日出民   府川 雅明


 なぜ、今、ヘカベなのか

府川 田舎芝居でしたね。大体、「なぜ生きるのか。」とか「なぜ殺したのか。」という疑問符を使えば、何か主題を展開できるかのような発想自体、センスが古い。あまたの役者が出てきたが、見ることができたのは辻由美子一人。他の役者は滑舌が足りないし、肩の筋肉がこわばって手の動きが悴んで、活字をあまり読んでいないのか、目に知性の輝きがない。辻さんは決して天分に恵まれた役者でなくて、むしろ努力の人だと思う。だから、他の劇団員は辻さんから多くのことを学べるはずなのに、非常に不可解、不思議だ。便利な都内に立派な自前の小屋を持つのはどの劇団も念願だろう。

しかし、それを本劇団が実現しながら肝心の役者が振るわないのではあまりにも勿体ない。どうしてこうなるのかというと、一番悪いのは観客だ。欧米人が日本人のために新作を書き下ろし、舞台美術や衣装、音楽まで担当すれば、ありがたく見てしまうような雰囲気は裸の王様状態ではないか。しかし、結局つまらないものはつまらない。


 内容を単純化して見ると面白い芝居だったが、個々のコマが働いていなかった。学芸会以下の水準の演技も散見された。辻さんがその中で一人奮闘していたが、おおむね戯曲と演じる側の間の断絶を感じた。洒落ではないが、今日のコロスは舞台を殺す。

府川 大した戯曲じゃない。原作のギリシア悲劇の『ヘカベ』は換骨奪胎というか、ほとんど解体されている。もっとも、原作を忠実に再現したとしても今日的意義があるとも思えない。今日の芝居は『ヘカベ』という悲劇をカッコに入れたパロディーですね。そうしないと今あえてやる価値もないから。最後のほうでへカべ役の辻さんが、産み落とした子供たちが全員死んで、今や奴隷となり果てた自分の身を嘆き、「どうしてなの。」とゼウスに必死に問いかける。これが『なぜヘカベ』の解題です。

 なぜの問いかけに対して、神々の戯れという答しかないという印象を持った。ヘカベの悲劇を神々が楽しんでいる。悲劇を楽しむ神というのは何とも人間くさいというか、人間そのもの。ユー・チューブでテロリストが人質を殺害する映像を見る我々と変わらない。

府川 作者はフランスに亡命したルーマニア人のマテイ・ヴィスニユックで、彼は明らかにキリスト教の世界観を持っている。多神教に対する侮蔑感が出ていたね。中盤でギリシアの神々をアイドルのごとく紹介する場面を設けた。ギリシア悲劇など、今まともに取り上げられるもんじゃないという痛烈な皮肉ですよ。

ただ、僕は何となく彼の気持ちがわかる。キリスト教は一般に愛の宗教と思われているが、裏面も考えないといけない。個人が悪と対峙して、逃げずに執拗に性根を据えて突き詰めるところがある。これが日本人の多くにはなかなか受け入れがたい。我々はまず俗世界の小事を生真面目に楽しむから。精神面ではそんなに執着も体力もない。

だから、今日の“ヘカベ”はキリスト教的人間観が濃厚に出ている。ヘカベが上演された当時のエウリピデスが意図したヘカベの悲劇性は、もっと政治社会状況に対するアクチュアルな創作動機に富んでいて、ゆえにこそその演劇行為の一挙手一投足は、控えめであったにせよ、過剰なインパクトを観客に与えたはずだ。悲劇的要素が創作時に何を訴求し、何を意図していたのかは現在と同じではないだろう。勿論、慣習や流行という側面も含めて。

悪とは、悪事を犯すことではなくて、誰もに潜む悪を自覚しないこと。その認識から逃げない忍耐力をキリスト教は要求する。これでもか、これでもかと苦しめられ、コロスからも馬鹿にされる。それに耐えうるのは、キリストの受難とオーバーラップするなあ、僕は。女イエスだ。現世に全くの救いが見い出せないが、来世で最後に光が待っている予兆が見え隠れする。僕は生理的にこの世界が苦手だ。鑑賞の限界を感じる。



 仮面劇

府川 エリック・ドゥニオーという仮面制作者による土着性を想起させるデザインの仮面を林さんはどう見ましたか。

 体裁だけ整えたという感じですね。そもそも仮面をつける必然を感じない。仮面をつける行為は、生身の姿から、仮面の人格が憑依して全く別の人間になることでもあるから。

府川 日本の能楽がそうですね。

 鬼女ものでは鬼の仮面をつけて乗りうつる。バリ島の演劇における仮面も同じく、異様な存在になり切る。クリスという短剣を身体に刺しても平然としているのは演者がトランス状態だからです。それを可能にする精神的土壌がある。例えば、バリ島では島の真ん中にある霊山アグン山を中心にそれより北の人間は南に頭を向けて眠り、南の人間は北を向ける。だから、南の人間が北に行くと気分が悪くなる。
それくらい信仰が日常的に強固な上に、小学生のころから踊りの所作を習うから動きの型が自然で、揺るぎがない。それらが集約された舞踏の中で仮面をつけることで、表情が仮面から浮き上がってくるような迫真性が生まれるのであって、簡単に被ったり、剥がしたりできるものではない。

現代の西洋人の仮面の取り扱いは、多分に表面的で、悪い面が出ている。

府川 文明がもたらす再帰性の下に、それをまた日本人が真に受けて、能という仮面劇の伝統の意味をないがしろにするのは一考を要する。バリの演劇から、全うさを突き付けられるなあ。人間が生きていくことと演劇の関係は、頭や理屈、趣味の問題じゃなくて、身体ぐるみの宿命的なものだということを。

話が飛びますが、日本のロック・バンドの『ベビー・メタル』の世界的人気も、身体の宿命性をよく捉えているからだとライブを見て思いました。

 ピカソの絵画『アヴィニオンの娘たち』の顔の描写が、アフリカの部族のマスクにそっくりだというので、それをネタにしたエキジビションをニューヨークの美術館で開催したことがあったけど、その発想は感心しない。

府川 今日の芝居のチラシには騙されました。自前の小屋を有効利用して撮影された舞台シーンの再現写真は、作品として視覚的にうまく決まっているので、舞台の内容のほうも思わず期待してしまう。しかし、演劇は生身の人間が演じる時間表現でもあるから、単に表面の形にこだわる演出では化けの皮が剥がれてしまう。

 今回、若い演出家なので気になることがあった。ヴィジュアル情報の見栄えに傾きすぎて、台本の文字が喚起する想像力の広がりが感じられなかったのが残念だ。それが役者陣の演技の解釈力の貧弱さを助長させたと思う。

  楽座価格

 演技は別にして、美術の分野ではお金が取れるから、1,800円。

府川 2,000円。辻さんの一人芝居。


楽座価格=1,900円

 


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