チケット料金=前売3,800円





 

楽座風餐 第14回  紙芝居   2012年12月1日

観劇者 林 日出民  府川 雅明


唐十郎の芝居はこれでいいのか?

  私は以前、この楽座風餐の中で、昨年の東北大震災以降は二つの芝居形式しか残されていないと言いました。中途半端なリアリティーは通用しない。あの震災に拮抗するようなリアリティーを与える芝居か、さもなければ、その対極にある全くの反リアリティーかの二つしかないと。今日の作品は明らかに後者でしょう。この一年間、新作については多かれ少なかれ、震災のインパクトが芝居に反映しているものを見てきましたが、今日の芝居は新作であるにもかかわらず、およそ震災が我々に与えている状況の影響を受けていない。意図的にそれを避けているようにも見えない。それに驚き、戸惑っているのが観劇直後の印象です。

府川  僕は大学時代に唐十郎自身が舞台に立っていた赤テント、状況劇場の芝居や、さらにその前の中学生時代に見た佐藤信の黒テントが、前衛演劇の原体験として深く自分の中に刻まれています。ですから、「紙芝居」は三十年前と変わらぬ唐十郎の世界との再会の衝撃があり、今日はいつものように冷静には劇評を語れないと思います。

  反対に、唐十郎の芝居とは縁がなかった私は、府川さんと対照的な立場から今日の芝居を語れると思います。今、府川さんは昔と変わらぬと言いましたが、外部状況の変化に適応してカメレオンのように変貌していく文芸作家が多い中で、例えば、谷崎潤一郎のような作家は、戦争前も後も全く作風が変わらなかった。微動だにしなかった。これは資質によるものか、まず尋常なパワーでは真似できるものではないでしょう。ただ、その変わらなさを論じる場合、当然のことですが、作家がこだわっているものに何か普遍的な価値があるかどうかが問われてきます。

申し訳ないが、私は今日の芝居は単純に面白くなかった。ストーリーの内容についていけないし、役者についても演技論として一人一人を問題にできる水準ではなく、大学サークルの発表会のような印象が拭えない。

府川  僕はね、唐十郎の演劇に対して、林さんをして初見でそのように言わせてしまう今日の芝居の出来に憤りを禁じ得ない。今日の芝居はまぎれもなく唐十郎の脚本でありながら、舞台自体は全く唐十郎の世界を表現し切れていなかった。非常に不満だ。ストーリーの内容については後で言いたいのですが、僕はいわゆる筋の通ったストーリーを唐十郎の芝居には求めない。むしろ物語を懐疑し、破壊する物語の状況提示だと思っている。

僕が三十年前に見た、舞台上の唐十郎がまさしく猛獣使いのように目をギラギラ輝かせながら、他の役者たちを、ときに野獣に、ときに天使に自在に変貌させる魔術的な演劇空間の瞬間は、残念ながら一度として出現しなかった。

不満はいくらもありますよ、思いつくままに箇条書きに言いましょうか。
1、『です。ます。』で語尾を言い切るのは、他の不条理劇においても決して珍しいことではないが、唐十郎においては、独自のアクセントがある。それは、知的な小心さと慇懃無礼さがアンビバレントに共存するような独特の発話なんです。ただの丁寧語や思いつきの符牒なんかではない。
2、『この弁当箱!』、『黒百合!』と演者が事物を差し上げるとき、もっとフェティッシュでデモーニッシュな認識を演者自身が持たなければならない。それによって本当に身体が痙攣を起こすようでないといけないんです。なぜなら、唐十郎において、こうした象徴物は決して取り扱いが容易な<オブジェ>ではない。観念自体が具現化したものだからです。たんなる妄想癖から事物の意味を勘違いしているようなフリを演じる学生芝居とは一線を画さなければならない。
3、復員兵を演じる広島さんは、戦場を思い出して匍匐前進の演技をするが、あそこでの地べたを這う動きがもの足りなかった。下半身を床にこすりつけてオナ二―をして果てるような、そこだけ逸脱したエロチシズムを発散すべきです。唐十郎が舞台にいたら、『お前、そこまでやらなくてもいいよ。』と苦笑させるくらいの自己主張がほしい。おとなしすぎる。あそこは広島さんの見せ場です。ならば迷うことなく逸脱すべきだ。
4、役者が啖呵を切った直後に、音楽や照明が突然入り、舞台が転換するのは唐十郎の芝居にはよく出てきます。が、いつも絶叫調、一本調子では平板すぎる。常に教科書的に大声を張り上げればいいのではない。ときには声をひそめて、あたりを舌で撫で回すようなヴァリエーションがほしい。
5、二人の役者が舞台上で対峙して、セリフを言い合うとき、言いかえれば、AとBが存在するとき、食塩と水がただ混じりあうような、混合物になるような実験では面白くない。マグネシウムと酸素がセリフの熱量によって、強い光と熱を放出しながら白色の酸化マグネシウムへと化合する実験こそが、唐十郎の世界なんですよ。舞台上で連続して化学実験が行われる。それを期待し、目を見張るのが観客です。また演者はそれを楽しむべきだ。
6、エネルギーを舞台上で放出してばかりいると、当然エンジン切れになります。だから、演者は舞台上で休息し、他の演者の発散するエネルギーを吸収する必要がある。それによって役者全体があちこちで呼吸をする、その呼吸音が聞こえてこなければならない。舞台では息を出し続け、出し終わったらおとなしく舞台に引っこんで息を吸うのでは、他の劇団と変わりがない。そうではなくて、舞台上で大胆に休み、息を整え、再びその場で参戦するという営みを見せることが必要ではないのか。

評論家の扇田昭彦が、チラシの中で艶の演技を評価していたが、僕は不満ですね。李麗仙とどうしても比較します。なぜ梁山泊の役者陣は存在感がないのだろうかと考えました。滑舌の技術の不足?否。身体の柔軟性の訓練不足? 否。もしかしたら活字を読んでいないのではないかと思う。文学を読み込むことで妄想を旺盛に逞しくし、唐十郎の妄想世界と自分の妄想をぶつけあって、そこにアウフヘーベンされた独自の表現が結実するのではないか。そういう印象を持ちましたね。


観劇者はこれでいいのか?

  観客にかなり年配の人が多くて、劇の反応を見ていると、なじみの役者が出てきて「ワー」と小さな歓声があがった。おそらくは固定のファン層が多くを占めているのでしょう。それは一つの確固としたワールドを築いているからこそだから、僕のような部外者がいくらつまらないと言ったところで、蓼食う虫も好き好きの論理で『だったら見に来なくてもよい。』ということになる。確かにそうだが、これでは劇評にはならない。

芝居を楽しむ上で、作る側と見る側の間にいかに前提となる情報の共有が必要かを今日は痛感しましたが、しかし、考えてみれば最近の芝居では、そうした疑似共同体ともいえる濃い共犯関係で成立するものがめっきり減ったなと思い当たる。いい意味でも悪い意味でもクールな関係になっている。おそらく今の20代、30代の観客は、今日の芝居に対して、私と似たような印象を持つと思う。ただ本当に迫力のある芝居ならば、初めて見る者に対しても、いやおうなく世界に巻き込んでその場で共犯関係を作り上げてしまうはずだ。それが今日は全く体験できなかった。

府川  三十年前と比べれば、演劇を活気づける時代のドライブ感の後押しというか、暗黙の連帯意識は薄らいでしまったのは事実です。しかし、それを差し引いたとしても、林さんの言う<固定ファン>層が存在するとして、そのセンスは問われなければならないと思う。これは僕自身の反省でもあるけれど、何か唐十郎の過去のパフォーマンスの再現に対するノスタルジーとして芝居を見ていないか。これは決定的にまずい。老化現象だ。

僕は唐十郎の世界は、現代とは何かという認識を踏まえた表現だと思う。例えば、今年惜しくも亡くなられた立川談志などは、落語を熱く演じているまさにその佳境で、『俺って、何で落語やっているの?』と口に出しちゃうわけです。つまり、演じている物語を演者自体が本番中にみずからカッコに入れちゃう。今日の芝居でも、紙芝居という物語を演じつつ、それをカッコに入れて揺すぶってみたりする爆弾が随所にばらまかれているわけです。何て言うのかな、物語を忠実に演じる下僕たる役者が、それを乗り越えて実存を示威するような隙間を作っている。ところが、それに挑んでいないので僕は憤るんです。

最近の芝居って、こういうしんどいことをやらなくなっちゃった。観客が馬鹿になったんですよ。極端に言えば、テレビを見るときのようにお涙と笑いを頂戴という風になった。だから、作る側は最初っから演劇という枠組みを疑おうとしない。自明のものになっているんです。『私は演劇をやっていますから、当然、演劇を真面目に作ります。』というわけです。予備校なんかでも、今じゃ講師がへたに人生論なんて話そうものなら、『先生、さぼらないで合格のノウハウだけを教えてください。』となる。

林  2、000円
府川 3、000円


楽座価格=2,500円