チケット料金=前売3,600円





 

楽座風餐 第16回  カウラの班長会議   2013年3月23日

〔観劇者〕 林 日出民  府川 雅明


全体印象

府川 楽座風餐を開始後、取り上げた演劇作品の中で今回はベストワンです。個々の役者の演技や音楽・照明といったもののクオリティーは別にして、その弱点を凌駕してあまりあるテーマ性、批評性を高く買います。劇中劇という二重構造の形式を取っていますが、これは通常は入れ子になって、パロディー劇に陥りやすい中で、今日の場合は両者が互いに最後まで緊張感を保持していました。

 おっしゃるとおりの二重構造ですが、また男の世界と女の世界という二分法でも舞台を切っている。勿論、だからといって単純に男と女を対比させた内容ではないわけですが、この対立構造を意識して双方の演技のパフォーマンスを比較すると、女性陣のほうがはっきりいってパワーが弱かった。全体としてバランスが良くないという印象です。一所懸命に演技しているのだが、その痛々しさが逆に伝わってきて、劇の世界に入ろうとする自分を妨害した。単刀直入に言えば演技が下手です。全員とは言いませんが、時々見せるオーバー・アクトな感じ、不自然さが気になった。

府川 僕は中立の立場だから、別に劇団を擁護するつもりはないが、役者の演技の質の問題については3つの点で妥当と考えます。一つは、40人近い異例ともいえる大所帯のキャストに対して観劇料が3000円代と良心的で、舞台装置を含めて法外な要望はできない。二番目に、創立30年の当劇団は、最近主流のいわゆるプロデュース型公演、すなわちアドホック的にキャストやスタッフを集めて行うタイプではなく、劇団色を継続する方法を採用していて、突出した個性的なキャストの表現力や企画の話題性等で観客を集めるのではなく、主宰が展開する一貫した主張を忠実に再現できる演技を役者に求めてきたことです。それは劇団名の燐光群に象徴されていると思うのですが、いわば社会群像劇の指向性があって、全員野球のスタンスが標榜されている。スター的な役者の技量で魅せるような芝居を期待してはいけないのでしょう。少なくも僕はその視点で芝居を見ました。林さんは役者が下手と言ったが。要するに華のある役者がいないということだと思う。しかし、その点は気にならなかった。

最後に、今日の芝居の場合、特に啓蒙色が強いコンセプトの印象を受けましたので、そのためには、少数精鋭の海千山千の演技者よりも、むしろ新人らが、たとえ観客に表現上稚拙な印象を与えるにせよ、必死にメッセージを伝えようとするほうがむしろ効果的とも考えられることです。つまり劇中の人物は決して特異なキャラクターではなく、我々と全く同じ普通の等身大の人間が、状況に対して何を思い、何を行うのかということを説得させることが、劇の主題から要請されているからです。この点は、また後で触れたいと思います。


テーマについて

府川 過去の日本人の戦争にまつわる史実、エピソードを土台に置いた作品ということで思い出すのは、第9回の楽座風餐での風琴工房、詩森ろばさん作・演出の『記憶、或るいは辺境』です。ここでは戦時下における樺太での一人の女性とその家族を通じて具体的にミクロから戦争を考えさせられました。一方、今日はイデオロギーや国家観といった観念的なマクロ的な視点から、戦時下の収容所に下りていくという視点を持っている。好対照を成している。坂手さんの男性的視点と詩森さんの女性的視点の違いというのは図式的にわかりやすいが、しかし、そういう横の差異ではなく、根本的な縦の違いがある。今日の芝居は単なる過去の歴史の詳細な再現ではなく、現在の人間が過去の歴史を再解釈して創造するからです。

演劇と人間の歴史は別々のものではないということの確認が、本芝居の一番の眼目だと思います。過去の人間の営為を価値づけるのは、現在を生きる人間の主観的主体的選択や判断であって、決して過去そのままの再現ではない。現代は伝統的停滞的な社会ではないのですから、常に再解釈して書き換えていく。またそうでなければ発展もない。決して上から決定されているのではなく、一人一人が参加して作り上げるべき社会と個人の関係とは何かとは決して簡単な問題ではないですが、今日の芝居がこの重要な命題から逃げていない点を高く評価したい。


男と女

 男と女とのキャスティングを意図的に明確に設定している。それはテーマをわかりやすく示すためでしょう。秀逸だと思います。勿体ぶった比喩や暗示で難解さをまとわせて、作品を高尚に仕立てないところがいい。ところで、男女の間にある深い断絶をここで考えてみたいですね、戦争の時代と現在との価値観の断絶とは別に、セクシュアリティの断絶が人間にはつきまとっていると思うので。軍国主義下に徴用された兵隊としての日本人男性と民主化された世界に生きる現代の日本人女性という対立図式でなく、戦争好きの男と戦争嫌いの女という性の違いで考えてみたい。収容所での捕虜たちの様子を見ていて、僕は男子校だった自分の高校時代を想起しました。何かのきっかけで火がつくと盲目になって勢いが止まらなくなる状態をです。女にはわからない男の世界が厳然として存在すると思う。インスタントな机上の相互了解ではおさまらない。女にしてみれば理屈抜きで「何、バカなことをするの。」ということでしょう。アクセルを踏み続けると世界は暴走してしまうので、ブレーキを踏まなければならない。そのブレーキを踏むのは女の役割で、それで世の中が破綻せずに収まっている。ファウストにおけるグレートヒェンなんです。

ファウストを最終的に天に導くのはグレートヒェンの力ですから。しかし、今日の作品で、男たちが収容所からの集団脱走という暴挙の第一シナリオを「そんなバカなことないわよ。」と女たちがそれこそ喫茶店での茶飲み話のレベルの調子で書き換えて、結局、男たちが集団脱走をやめてしまうといったラストだったら、僕は噴飯ものだと思いました。なぜなら、現実とはそんな安易なものではないからですが。しかし、そうはならなかったので安堵した。書き換えられた第二のシナリオでも男たちが最終的に脱走してしまうのは全うだと思います。そして、彼らは自分たちの行為の価値判断を未来の世代に委ねている。

府川 彼女たちの意に反して、男たちが結局、自決を覚悟で飛び出していくのは、しかし、彼女たちの潜在的な欲望とも考えられるわけですね。日本の歴史をふりかえると、そもそも天照大神が女性だし、卑弥呼も女性。女帝の時代もありました。けれども、そんなことをいくら言っても、圧倒的な西洋文化の原理の前には、現実の説得力を持ちえない。

 女が男の暴走のブレーキ役などと言いましたが、女の存在によって世界の安定がもたらされるとすれば、今日の芝居でも、やはり女のパワーがもっと出てきて良いんですよ。

僕は女性が大好きだから、これだけたくさん女性が登場して舞台上をいっぱいにしたら、もっときらびやかになってしかるべきだと思う。ところが、そうではなかったのは不満ですね。戦後、全体主義から抜け出した世代の象徴である女性たちのほうは、会社で疲れ切った親父の尻をたたく気の強い娘とか、帰国子女で日本では浮いてしまっている学生とかいった感じで、何か若さに任せて各自が勝手におしゃべりしているだけで、収容所の男たちと拮抗する存在感を持っていない。今の若い子だったら、こんなことを言うんじゃないかなというあて書き的なセリフになっていた。ということは推測するに、作者はやはり収容所の男たちへの思い入れのほうがウエイトとして強く、女たちのほうは後付けになっている作為性が否めない。女の中に一人でも、あるいは兵隊の中に一人でももっと特異なはみ出したキャラクターを設けて劇を活性化できなかったのだろうか。

男の側は、大岡昇平の『野火』に出てくるような凄惨な運命を負った兵隊たちではなく、オーストラリアから食糧も十分に与えられていて、非人間的な扱いを受けているわけでもない。それでもなお男の側のほうにパワーを感じたのは、作者のうちにある創作のモチベーションに段差があるからではないか。

府川 そうかもしれないが、女性のリーダー役のセリフなどは女性自身というよりも女性の姿を変えただけの男ですよ。林さんの言われる女性の側のパワーのなさというのは、女性の側にパワーを与えるようなまともな自立した言説が今の日本の中に現実の下地にないからだと僕は思いましたね。もしあれば、セリフも当然変わるはずだ。これは男女の問題というよりも、あるいは台本の問題というよりも日本人自身の課題なんです。それを正直に再現すると、現代人のほうがパワーレスな印象になる。ですから、全員女性であるよりも、男性が混じった設定であれば、そのへんの事情はより観客に理解できたとは思います。セクシュアリティーを強調しすぎて、現代人と戦時下の人間という対比の重要性が蔭に隠れてしまわないのかなとも思った。

女性の役者たちの側にインパクトのある、ある種の理想主義的なメッセージを言わせて演劇的カタルシスを与えるという手もあるかもしれない。が、それはリアリティーを反映しないと僕は思う。パワーのなさや情けなさ心もとなさは、認めたくないが我々の実態なのではないだろうか。これは日本人に対する啓発劇なんだと僕は解釈していますから。でなければ、わざわざ外国人を登場させて、彼らの個人主義的に自立した人生観を垣間見せたりはしないでしょう。

舞台上で男と女が全員で足踏みするシチュエーションがありますね。これが燐光群の基調的主張だと思いました。歴史に抗うヒーローとか、歴史に埋もれた個人にスポットを当てることでドラマを構成するのではなく、歴史の流れの中に巻きこまれていく一般の人間たちを群として丸ごと描こうとしたいのだなと。

とはいえ、一方では僕のように芝居を見る人間はごく少数と思いますから、やっぱり金を払って見る以上は、自分が肯定的に感情移入できる役者が舞台に立っていてほしいと考えるのは人情だと思う。基本的に演劇は嘘の世界ですから。全くの嘘なら鼻白みますが、ここが演劇の難しいところではないか。


戦争とは何か

府川 今日は、国家が旗を振る国民総動員の戦争というものの根本的な馬鹿馬鹿しさを改めて痛感しましたね。戦争は今や国家の政治手段ですから、万が一やるとするなら絶対に勝つ戦争をしなければいけないし、負ける可能性があるのなら絶対にやってはいけない。アメリカおよび連合軍というのは、最初から負けるはずのない戦争をしたんです。それだけの合理性、損得計算ができなかったのが過去の我々だった。この愚劣さには吐き気を催すね。僕の祖父は戦後、米軍基地で通訳の仕事をして、米兵が配給でふだん使っていた食器をもらってきたりした。それを僕は引き継いで使ってますが、USと大きく印字された銀のスプーン、フォークは70年近くたった今、全くびくともしませんよ。

  戦時中も今も基本的に日本人の精神構造が変わったとは思えない。それでも、女性が自ら戦時下のムービーを作ろうという話だから、そこに創造が働く。けれども作られたものが昔と変わらない。その貧困さは何だろうか。

府川 うーん。無条件降伏で敗戦したということもあるけれど、戦争というときに我々が共有するイメージにあまりにも多様さが欠けている。それはまさしく、そのときも今でも個人が貧しいからなんだろうな。だから、それに演劇も対応するということになる。観客の受容を全く離れて演劇は成立しないものですよ。収容所自体、昔のことでなくて、今の日本のメタファーとも言える。


最後に

府川 僕がこの芝居を高く評価する個人的理由は、カウラの集団脱走の事件をうかつにも知らなかったからです。自分にとって新情報で、劇が事件に無知な僕をわかりやすく説諭したという事情がある。もしも、カウラのことをあらかじめ知っていたら評価は違ったものになったでしょう。それでもなお根本的に啓発劇として、この作品の価値を見失うことはなかったと思う。

日本にはあまたの現代演劇が日々上演されているが、欧米の翻訳劇というのは、同時代のもので状況設定が類似しているにせよ基本的には、我々とは違う “他者”の世界の再現なんだと思うし、オリジナル作品でも日本人としての肯定感べったりで批判性を持たずに我々自身の抱える根本問題から逃避しているか、あるいは妙に背伸びをしてバタくさいフリをしたものがほとんどではないのか。その中で今日の作品は、珍しく逃げていない。

 今日の芝居を見て、歯切れの悪さを感じた。その理由を考えてみるに、演者、特に女性の演者の実力不足があげられる。私は3,200円です。

府川 僕は燐光群の演劇を見るのは初めてではなく、いつも重苦しいものを持ち帰る。しかし、それは我々の時代の中に通底するものを掴んでいるからだと思う。作者が執拗に問題意識を持ち続けて放棄しない限り、今後も注目すべき劇団だと思う。5,000円です。


楽座価格=4,100円

 


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