チケット料金=前売4,800円






楽座風餐 第27回  荒野のリア   2014年3月 23日

〔観劇者〕 府川 雅明  林 日出民


 シェイクスピア劇を日本人が行う意味

府川 楽座風餐上で、シェイクスピア作品を初めて劇評するにあたって確認したいことが二つあります。一つは、『なぜシェイクスピア劇をやるのか』。もう一つは、『なぜ今、それをやるのか。』です。これらの問いかけに対して、『シェイクスピア作品は完成された古典であり、見せる側も見る側も“安心”だから。』といった回答が予想される作品はご免蒙りたい。安心にはいろいろな意味がありますが、第一に、僕は身銭を切って見るという大前提の立場があるので、できる限り退屈なお芝居は見たくありません。

シェイクスピア劇を見る誘いを受けることがあるが、ほとんど敬遠しているのは、シェイクスピア作品の忠実な再現などというものは、日本人にとって最初から退屈で不可能と思うからです。ところが、台本の完璧さという誘惑のもとに、それにのっかってあまたの劇団が“再現”を試みる。しかし、頑張ってセリフを言って体を動かしました、いかがですかでは、全く鼻白む。

府川 僕は、川村毅演出という事前情報から、決してシェイクスピアの怠惰な“再現”ではないと判断したので、選びました。そして、冒頭の二つの問いかけに戻りますが、林さんは、これらの問いかけに今日の「荒野のリア」は答えようとしていたと思いますか。

 思いますね。これからそのことを話したい。

府川 僕も同意見です。


 第一印象

府川 シェイクスピア劇は、とにかくセリフの質量が半端じゃありませんから、役者は必然的に早口になり、息が浅くなり、胸から上に意識が集中しがちです。手が泳ぐような感じになる。これは腰高で一年中靴を履く生活で、表音文字言語の欧米人には不自然ではない。しかし、いかに最近の日本人の体形が欧米人と遜色はないとはいえ、生活が欧米化したとはいえ、伝統的な身体表現の核は地べたに近いところにある。で、今日のシェイクスピア劇の動線の重心は胸を張った上半身ではなく、下半身にあったので、僕はバタくさい違和感を覚えなかった。舞台全体が傾斜しているという巧みな機略によって、身体を安定させるため、演者が常に下半身への意識を強いられたことも見逃せない。

 今日の芝居の何が良かったかと言えば、まず麿さんのリアの存在感、迫力ですね。もっと大胆に自由に身体を動かすことができるところを逆に抑え込んで、むしろセリフの中でこそ踊っていた。これほど肉感的なシェイクスピアは見たことがない。麿さんの演技はよくできた作りもののように動くびっくり感がある。まず、その肉体表出が成立した上で、そこから後に言葉が出てくる。と同時に、一種の古典的な、また歌舞伎を見るような様式の美しさも感じた。これは演技者としての豊富な経験や演技力の下地があってこそ、初めてできることです。シェイクスピアの世界と歌舞伎は通じるところがあると思った。リア王と言うか、麿王という感じで、麿さんの演技、セリフ回しは特筆すべきだ。

府川 シェイクスピア劇の精神性と歌舞伎の荒唐無稽さを比較するなどという訳知りの乱暴な演劇論など僕は言いたくはない。欧米人の知の枠組みからでしか日本の演劇を語れないのなら、この国でアクチュアルに芝居を見る意味はほとんどなくなってしまう。本質的に人の目ん玉に同じ刺激を与えるものは、同じことなんですよ。講釈はその後のことだ。


 男臭の充満する “リア王”

 僕が歌舞伎を連想した理由ですが、男芝居だったということですね。男くささだけを出していた。女が入るとどこかにストップがかかる。男は行きつくところまで行く、ホームレスになり、ストーカーになり、殺傷沙汰に結びつく。歌舞伎は男が女形を演じるし、破滅型男の総決算のようなドストエフスキーの小説にも女性は出てくるが、主役ではなく、脇役です。

結局、いつもさまよっているのは男。今日は一人も半端者が出てこない。

府川 リア王では端役にもそれぞれ重要な役割が担わされていて、全く隙がない。これはシェイクスピア劇の中でも特に際立っている。

 どの役者も生き生きと演じていました。端役なんてないのだから、セリフが少ないからとモチベーションが下がることもない。まあ、改めて、みながシェイクスピアをやりたがるのは無理もないと再認識した。

絶望のドン詰まりにいる野郎たちが荒野に引き寄せられて、ひたすら破滅の道を進んでいく。『胸が張り裂ける。』というセリフが何度も出てきましたね。

江戸時代の芝居の中では、『腹の虫がおさまらねえ。』とか『腹をくくる。』といった“肚”にまつわる表現が多く、欧米の胸=ハートの文化とは違います。

府川 日本はつい最近まで、肚の文化が脈々と続いてきた。

 文楽に珍しく『胸をかきむしる。』という言い方がある。これは『胸が張り裂ける。』とほとんど同じ意味だと思う。要するに悲しみが募ってどうしようもない状態。

例えば、「熊谷陣屋」は、かつての恩人の息子を救うために、身代わりに自分の息子を殺す。そのときの抑制した嘆きっぷり、表情なんかは、まさに今日の麿さんのリアと重なって見えた。江戸後期の鶴屋南北なんかも登場人物たちが競うように破滅に向かって邁進していく。

府川 江戸時代もエリザベス朝の時代も、形而下的な経済的な繁栄が背景にあって、いわば町人による文化の爛熟があった。絶望的な時代だから絶望的な芝居が出てくるのではなく、むしろ逆なんですね。見る側に気持ちや生活の余裕がなければ、“絶望劇”を堪能することはできない。

林さんは、荒野のリアを男の芝居と言ったが、登場する男優の年齢の幅とバランスが良かった。大ベテランの麿さん、中堅の手塚さん、ホープの玉置さん。そして、その周りを有薗さんをはじめとする脇役陣が固める。麿さんに対して失礼な言い方になるかもしれないが、年齢に比して格段に若い。リアは若い人間が背伸びして演じても無理。かといって老齢の役者は演技に切れがない。だからこそ、麿さんを得たのは本当に僥倖と言うほかにない。

 玉置さんは、偶然、前回の楽座風餐で取り上げた「柿食う客」の医者役でも印象を残していましたが。これからの俳優ですね。今回、断然良かった。

府川 全力の演技で、非常に好感が持てました。芝居全体の活力ある流れを先導していた。唯一、生身で登場する女性、コーディリアも生きている人間というよりも、天使、亡霊のよう。このコンセプトは、演出家の計算でしょうから、僕の話していることは、そのプランを解説しているようなものだけど。

女の登場場面を映像と音声処理だけで済ましてしまうのは、演出上の工夫でもあるが、そもそも男は女のことは描けないという潔癖さ、また男が女を見るときの偽りのない表現を示していた。それが男の眼からは実に爽快だった。

 男の芝居で、女は影のような存在。生の肉体を出すとしたらもう裸しかない。オチンチンを刺激する存在でしかない。ですから、スクリーンいっぱいに若い女のヌード写真を出したというのは非常に正直で好感が持てた。一体、男は女の詳細、本心を描けるものなのか。結局は男から見た性的対象としての異性しか描けないのではないか。リア王の筋とは別に、そういうことを考えましたね。

府川 ただ、僕は道化とコーディリアを同じ人間が演じたことはどうしてもひっかかる。どんなに変装したって、客の眼からは有薗さんの二役というのは見え見えなのだから、故意にそのように配したとしか思えない。リア王における道化とコーディリアは全く正反対のキャラクターという認識を持っていたので、強い違和感がある。たとえ、道化とコーディリアをリアの妄想の産物であると解釈しても。

今日の芝居を男芝居だとすれば、では男とはそもそもどういう存在か。権力を求めて互いを騙し合い、殺し合う。あるいは権力者にひたすら忠義を尽くして自尊心と安寧を保つ。女と違って子供を作ることができない観念的存在。何か生きる証しが欲しい。それがたとえ悪の所業とわかっていても、死ぬための大義を求める。

以前に楽座風餐で観劇した今日と同じT・ファクトリーのパゾリーニの『騙り』では、愛する息子に裏切られる父を演じた手塚さんが、今回はまた手塩にかけた息子に騙され、命まで狙われるグロスター役で登場したのは印象深い。

道化は始終、下腹部を手でおさえていたね。

 下半身の芝居を貫徹したのは麿さんに限らない。傾いた舞台で、とにかく役者がよくころがったね。『騙り』でも、手塚さんは階段を何度ももんどりうっていた。男は悶え、もんどりうつ。もんどりうつしかないのかなあ。

府川 もんどりうつことは男の心理の象徴ということか。これは川村スタイルですね。


 今、なぜリア王なのか

 荒野に放逐されたリアから即座に思い出すのは3月11日の東北大震災ですが、あれから丸三年が経って、被災地の状況はすこしも変わっていない。NHK特集の中で、家族全員が津波に流されて一人生き残った中年男性が、娘の小学校の卒業式に遺影を前に置いて机に座っている映像があった。そのたたずまい、卒業証書を渡されるときの表情、動作。それら一つ一つが、誤解なく聞いて欲しいんですが実に見事な〈演技〉だった。そのようにまざまざと見えた。勿論、一家を失ったという圧倒的事実の悲しみが深く沁みますが、しかし何よりもその姿なんですね。演技を超えた〈演技〉に見えた。つまり感動を与える演技というのは、演技を超えている。手塚おさむさんは、楽座風餐で以前に観劇した『騙り』でも感じましたが、今回も、そのような演技ができる人だと確認できました。「演技している自分を忘れること」。

ドストエフスキーの小説や鶴屋南北、そして、このリア王でも、一体、人間は何でこのような絶望を表現に求めるのかという素朴な疑問が沸きます。

府川 リアを演じるのではなく、自分がリアとなり、リアを生きる。僕はね、『リア王』はキリスト教が入ってくる前のイギリス人の精神世界を反映していると思っていて、それは仏教や儒教が入ってくる前の日本人の精神世界とも通じるところがあるとも思っています。ですから、同じ島国としてパラレルに通底する親近感を覚える。日本の舞踏パフォーマーでもある麿さんの演技は、ですから、シェイクスピアの原リア像と相通じているんじゃないか。少しもバタ臭い演出は必要ないと思いますね。

 繰り返しますが演技していることを舞台上で忘れてしまっている。荒野をさまようリアの姿は、家族全員が津波で流されて、その遺品を瓦礫の中から掘り起こしている生き残りの男の姿とオーバーラップする。リア王と先の大震災を無理やり関連づけようというのではなく、いつの時代にも普遍的に吹き出している状況なんだと思う。僕らが絶望を見るのはなぜか。実際に被災地を歩いたときのことを思うと、本意は他者の悲劇に対する覗き趣味ではなくて、それによって心洗われたいという衝動があるのではないかな。

府川 全く偶然ですが、今日、芝居を見る前に、ビデオでメル・ギブソンの『パッション』を家で見ました。全編100分以上にわたり、イエスの受難の場面の映画です。捉えられて裁判を受けて鞭打ちの拷問、磔の処刑、その間に行われる絶え間ない中傷や暴力のシーンの連続で終わります。三日後の復活の兆しすらも示さず、イエスが息絶えて終わる。

この後、現実の歴史では、弟子たちが改心してイエスを救世主キリストとして信仰し始めるのですが、救済って何かなと考えると、極限の絶望を眼前で見据えた後に来る強烈な反動としての希望への思いなんじゃないか。リア王は4大悲劇の一つとか、ギリシア悲劇を超えているといった評価がありますが、悲劇とか喜劇とかという枠組みで括っちゃいけないんじゃないの。

 悲劇とは別の言葉を持つべきなんでしょうね。存在への突き抜けた認識劇というか。僕はドンキホーテを思った。笑うべき姿は同時に悲劇でもある。そもそも悲喜劇の図式化なんか意味がない。突き抜けてしまう姿に感動するんだと思う。あるいは鶴屋南北の「東海道四谷怪談」での伊右衛門の極悪非道ぶり。妻を毒殺して呪われるどうしようもないその姿になぜわれわれは心を揺さぶられてしまうのかですね。

府川 大震災に対して、そこから安易な慰謝や救済を求めるだけでは足りない。

人間のどうしようもなさと向き合う。たぶん、シェイクスピアの生きていた時代、それが人々の中から忘れられていたに違いない。だからこそ、リア王が生まれた。

 大震災に関する作品、表現はこれから出てくると思う。被災者への純粋な献身者もいるし、弱みに付け込んだエセ癒しのアコギな商売もあるし、今もあるだろう。しかし、今、東北の被災地にリアはたくさんいるだろう。これが最初の府川さんの問い、『今、シェイクスピアをやる理由』の答えの一つだと思う。

 独創的なリア王の編曲

府川 今日のリア王は、第三幕以降の伏線となる第一幕、第二幕の内容を思い切りよく省略している。

林 そのあたりの糸の張り方の詳細はあまり大したことはないんだと思わせる出来だった。

府川 リア王をそのまま再現しようとするときに予想されるしんどさとは、単なる物量的な負担とは別に、そもそも異国の芝居を丸ごとには再現などできないという壁の存在にあるはずだ。

林 麿さんを中心して、日本人として新たなリア王をアレンジするといった試みの中にこそ、逆説的にシェイクスピアの面白さを再認識する方途がある。今日の場合は、リアの狂気、妄想を中心軸にして周囲の男たちが磁石のように、その圏内に引き込まれていく姿を見せることができたと思う。

府川 ラストのスクリーンに映される地球の姿。つまり、劇は地球外で行われたというドンデン返しと、その異星の荒れ地に立つリアとグロスターの二人というのは、必要だったか。あれがなければ台本どおりの終わり方ですが。また、これは冒頭の宇宙服のヘルメットと思しき恰好でしばし会話するシーンともつながります。これは、ただのシェイクスピアの翻訳劇ではないぞという演出者の気概だったと僕は考えます。

林 そうなのでしょう。しかし、僕はどちらでも良かった。人間のリアリティを掘り下げるという中心主題と比べて、あえて取り上げるほどのことではないと思う。

ただ、シェイクスピアを忠実に再現してばかりいる人たちに見てほしい作品だ。『こんなのシェイクスピアなんかじゃない。』と言うなら、そんな輩にそれ以上もう何を言っても無駄だろう。

家族に死なれて一人だけ震災で生き残った老人が、家族のために家を再建したいと海を眺めている姿は、リア王と重なる。海沿いにはもはや法的に家は建てられない今、それは見果てぬ夢、妄想になっている。繰り返されるリア王の現実がそこにある。

 楽座価格

  6、500円

府川 6、900円


楽座価格=6,700円

 


                                                                         ▲楽座TOPへ