チケット料金=前売3,300円





 

楽座風餐 第9回 記憶、或いは辺境  2012年7月1日

観劇者   府川 雅明   林 日出民


全体の印象

府川  とてもきめ細かい作り方をしていますね。観劇直後の全体の印象としては、料金の3,300円に過不足なく収まる内容だったと思います。劇団創設二十周年を記念しての再演ということもあって、旧知のファンにとっては抵抗感なく自然に入っていける芝居ではなかったか。

  一言で言うと、≪佳作≫という言葉がぴったりです。台詞、小道具含めてすみずみまでゆきとどいた演出で、各演者も場面ごとにそれぞれ安心感を持って見ていられる。こうなると申し分なくて、劇評も終わってしまう。ただ、同じ劇団で以前に観劇した「機械と音楽」のような≪絶品≫の出来ではなかった。佳作を超えうる条件は何かを考えてみたいと思います。


リアリティー

  僕が観劇においてしつこくこだわるのは、何と言ってもリアリティーですが、舞台となる南樺太がかつて日本の領土であり、韓半島からの人々が炭鉱労働者として、この地で働いていた、働かされていた事実がまず、ノンフィクションとして芝居の下敷きにあります。 

第一に,その事実に即したリアリティーに関して言うと、朝鮮人(註 本劇評では、今回の劇の舞台となる朝鮮戦争以前に韓半島に居住していた人々を総称として朝鮮人という表記にさせていただきます)役の話す片言の日本語にリアリティーがなかった。僕は仕事柄、韓国人や中国人と年中接していて知り合いも多く、彼らの話し方の癖がわかりますが、コミュニケーション・ツールとして日本語で懸命に意思疎通を図ろうとする感じが全く出ていなかった。近年、韓流ブームで、韓国人歌手が話す日本語のイメージが定着しているのかもしれないが、芝居の中で、その台詞のやり取りのところだけ、安易にカタコト日本語を不器用そうに装うことで、まるで学芸会を見ている感じになってしまった。これだけ隙のない演劇空間を作り出せる詩森さんならば、いっそ韓国人が話す必然的に「不器用」な日本語の指導を入れるべきだったのだと思います。

第二に、舞台上のリアリティーについてですが、樺太からの帰還者の手記や取材から事実を掘り起こしたノンフィクションの持つ力に対抗して、舞台上でのフィクションがどう動き出すのか。ここに演劇の本線があると僕は思うんです。「事実は小説より奇なり」で終わってしまったら、レポートになってしまう。フィクションの負けです。

僕は、今回の作品から、事実に基づいて想像を入れて作ることの難しさを考える機会を改めて得た。自分の経験を言わせてもらうと、以前インドネシアのスマトラ島を訪れたとき、太平洋戦争終戦後、現地人とともに支配者のオランダと戦った旧日本軍兵士と現地女性の間に生まれた息子さんと知り合う機会がありました。彼の父は戦後日本に帰ることなくスマトラの土となったわけですが、彼の導きで今は亡きその日本人の父の墓参をした折り、メッカの方角に向いたその墓に彼は「日本から××さんが会いに来てくれた」と報告しむせび泣きました。それは現場ではなかなか胸に来るシーンではありましたが、しょせん氷山の一角であり、その背後には戦後彼とその一家が歩んできた苦難のノンフィクション世界が巨大に横たわっています。それを想像で書くことにどれだれの力があるのか。自分の想像で埋めて自分のワールドをつくりたい誘惑はあります。だが事実の圧倒的な力の前に想像が空しくなる場がある。それをごまかさず承知の上で跳躍することができなければフィクションはノンフィクションを乗り越えられないでしょう。

府川  うーん。僕が今日の芝居の中で、うっと気持ちを動かされたところっていうのを振り返ると、個々の演者の台詞やシチュエーションに触発されて、「あー、日本人はこうやって半島の人を搾取していたんだよな。」とか「労働者の欲望のはけ口として、やっぱり娼婦がいたんだろう。」といった事実の重さを認識するところだった。これは別の言い方をすると、ノンフィクションの力に芝居がもたれかかっているとも解釈できるね。

それから盛岡の言葉って、京言葉のようにはんなりしていて、官能的、女性的で洗練されているなあっていう驚きですね。こんな言葉で女に巧みに言い寄られたら、男はメロメロになると思った。

  オスカー・ワイルドが「自然は芸術を模倣する」という言葉を残しているが、作品がノンフィクションへの依存を乗り越えたとき、演劇というフィクションの力が勝利を収めるのだと思う。今回の芝居に即せば、民族差別とか厳しい自然風土とか戦争といった歴史的な諸状況、深刻な事実の中にあっても、そうした制約を乗り越えて、一人の男と女の間の恋愛が普遍的に存在することをフィクションの力で打ち破る、その演劇上のリアリティーがやはり欲しい。


男女の愛の表現

  本演劇の本線はノンフィクションの部分ではなく、朴大鳳と津田美都子の、つまり一人の男と女の恋愛フィクションにあると思う。その下地として、重たい事実背景があるとしてもです。その意味で、なぜ美都子が朴を愛したのかという最も大事な理由、「そうか。だから美都子は朴と一生、酷寒異国の地に骨を埋めようとしたのか。」というドラマ上の説得力が僕には強く感じられなかった。 美都子が世話好きで、その面でのかいがいしさが良く出ていましたが、ドラマの柱である結婚において、自分からではなく、妹思いの優しい兄や朝鮮人女性の李仙女に促されてほだされて、その後に決心する。この消極性は、ラスト近くにハングルで愛を告白するシーンと自然にはつながらない。唐突さが否めない。

府川  僕はね、当時の日本人女性の儒教に親しい行動様式やら、朴が既婚者であるとか、あるいは東北人のつつましさなども関係しているのかもしれないけど、美都子は思いを外に表せない性格だし、自ら初心さを認めていたから、あまり不思議はなかったんです。むしろ、強く感じたのは、結婚という本人にとって一生の大事においてすら、自らの意志を明らかにできない女性の封建的な暗さというか、やるせなさですね。あるいは周囲からの承認、環境の整備といいますか、それがあって最終的に本人が初めて口を開くと、貞淑な女性だと思われる。それは異性の目から見た場合、いじらしさやかわいさにもつながってくる。こんなことを今の時代であまり言うと、差別発言になるので、猛反発を食らうから気をつけないといかんですが、正直そう思った。もっとも、男も今までそうやって女にだまされてきたのです。因習を互いにしたたかに利用してきた。

  美都子が時代の特殊性を乗り越えていく普遍性を垣間見せるところに面白さがあると僕は思います。美都子が府川さんのいうような女性であったとし、美都子のほうからの積極的なアプローチがないとしたら、今度は、美都子が惹かれる朴という男性の造形が問題になってきますね。「ああ、この男なら女は惹かれるだろうなあ。」と身銭を切って見る側が納得させられるような魅力が見当たらない。美都子を惚れさせる何か決定的な契機なり存在感の証しのようなものに欠けている。例えば、いよいよ津田家が故郷に戻るというとき、朴が美都子に対してもっと毅然としていれば、見る側にもクライマックスの期待感は高まるはずですが、美都子の兄のほうから結婚話を持ち出す。そういう経緯があるものだから、その後の朴と美都子二人の会話が盛り上がらない。あまりにも拍子抜けだ。

府川  うん。社会的桎梏や抑圧を解き放つ個人の力がどこから出てくるかと言うと、一つは、前例のない個人の行動が愛というキリスト教のような宗教的理念によって擁護されるような社会があるかどうか、もう一つは個人が狂的に自己愛が強い、あるいはカリスマ性を所有しているということですが、美都子の場合、儒教的社会に属しているし、ごく一般的な市井の人間であって、そのいずれの条件も欠いています。

風琴工房の傑作である「機械と音楽」では、革命という、個人が社会と戦うための歴史的に新しい第三軸を見事に描いたから、「劇的」に面白いわけですが。 となれば、もう一方の朴の人物造形ですね。サッカーの中田英寿に顔がそっくりの金さんが演じる朴は、とってもクールで理知的で、判断力もあるし、日本語もロシア語も堪能で、とりつくしまもない存在です。本当に中田英寿みたいな人物です。でも、あまりに完璧すぎて、フェロモンの発散すらも抑制している感じでしたね。

  あるいは、人を寄せつけないそうした朴のキャラクターに、なぜか惹かれてしまう美都子を、もっとはっきり出すべきでしょう。恋愛というのは理屈ではありませんから。だからこそ面白い。芝居では、朴のそのあたりの性格を皮肉っぽく揶揄する台詞はありますが、それだけでは弱すぎる。

府川  弱く見える理由は二つあると考えます。一つは脚本家が、美都子と朴という男女のその性格設定に惚れているということですね。脚本家の出身地と同じ方言を美都子が使っている。作者が一番描きたいところは、常識に倣えば、ノンフィションの再現ではなくて、想像を膨らませるフィクションの部分でしょう。その部分は一番こだわりがあるから変えられない。逆に言うと、作者が思い込む一番のストロング・ポイントこそが、第三者の林さんから見ると一番のウイーク・ポイントになってしまうということですね。いわゆるテイストの違いが評価を左右する。

  もしも作者が自分の作品がどう見られるかを完璧に把握できたら、劇評など必要ありませんし、また「すべてわかってます。」なんて言う傲慢な作者の作品を見る気もしません。アンケートで「面白かった。感動した。」などと第三者の視点が介在しない観客のコメントなど意味がないでしょう。

府川  もう一つは資源の問題です。経済問題と言ってもいい。今回の舞台は小さな劇場で、終始、セットは理容室の室内で変わりがありません。例えばですよ、朴がロシア軍の銃弾から妹の春子を救うのではなく、美都子を救うシーンに変え、しかも舞台が大転換して、極寒の地を表す背景に、大音響で、照明を派手に使うような一シーンを挿入したとしたらどうだろうか。勿論、僕のこの思いつきは陳腐ですが、しかし、お金をかければ、美都子が朴を愛する決定的な理由をよりはっきりと舞台上に再現できます。作家ではなく、演出専従の人間なら、そうした見せ方に普通は情熱を傾けますね。
スペクタクルな手法を禁じるとしたら、トリビアルなふるまいや人物背景や言葉が美都子の内面を動かす方法になりますが、これには研ぎ澄まされた脚本の力と同時に観客の繊細な感受性が動員されなければならない。風琴工房の常連ファンはそういう感受性を持っている方々なのだろうと想像するわけですが、一方で、制作側があらかじめ観客を選別している結果ともいえますね。

実際、今日の芝居では、朴は美都子の父親を表徴し、美都子は朴に自分は男がわからないと告げ、「簡単な言葉でかばうな。」ということを朴から教えられて人生が変わったと告白している。ディテールが、人を決定的な局面に導いていくということを作者は言いたいのかしらと思う。朴が美都子に「出ました……美都子さんの真骨頂だ。」と出し抜けに大きな声をあげる場面があります。僕は思わず、「作家が自分で楽しんじゃってる。」と叫びたくなりました。あ、作者は美都子に自分を重ねているに違いないと。


風餐的視点

府川  僕のおふくろは樺太からの引揚者なんですね。今日の舞台は落合ですが、おふくろはずっと北のソ連領との国境に近い太平炭鉱のある恵須取(エストル)あたりにいました。秩父生まれの祖父が末っ子で、イギリス人と同じく、日本人は家を継げないから、外地手当てが出る樺太に住んで教師をしていた。おふくろから聞かされた樺太の自然というのは、われわれ内地の人間の世界とはかなり様相が違って、川に行くとししゃもが手掴みで取れるとか、夜の短い夏は時間つぶしに家族が近所の人と遅くまで麻雀を続けたとか、晴れた日にはいつも対岸に大陸が見えたとか。話すと長くなりますが、要するに何が言いたいのかといえば、自然があっての人間ということなんですよ。

で、今日の芝居ではね、水道の蛇口が凍るとか、舞台中央の出入り口から人が寒そうに入ってくるとか、また言葉の端々などに樺太の自然の厳しさを暗示させていますけど、皮膚感覚的に観客に自然を想像させるものがないんです。テーマが自然と人間のかかわりではないからといえば蛇足になりますが、また詩森さんご自身がインテリア(室内)志向の作演出家ということも大きいのですが、僕は土地の自然環境というのが一番のノンフィクションだと思うわけ。その上に人間が生まれて、あるいはやって来て、資源争奪とか戦争とか民族差別とか勝手なことをやって、それをネタに芝居なんかができるわけです。ですから、自然は人間にとって最大の批判者でもある。生きている場所の風景の視点を踏まえないと、樺太のような今では異国の土地をベースにした芝居はそもそも成立しないのじゃないかと僕は基本的に思っているんですよ。

  以前冬の北海道の友人宅に何度か居候に行った折り、外出時には水道の水抜きをしました。冬場の蛇口のトラブルは何も樺太だけとは限らない。僕の樺太に対する感覚的記憶で今も生きているのは、真冬の宗谷岬から樺太を望もうとしたときのものです。猛吹雪で海が全く見えなかった。今、自分が立っている場所よりもさらに北に土地があって、人が住んでいるのかという実感です。温帯ではない自然の中での人間劇という位置づけはあっていいと思う。

別の作品を思い出したので言いますが、『サンダカン八番娼館』はノンフィクションの極致のひとつでしょう。あれを仮に舞台化するとどうなるのか。当然娼婦の住む楼閣の内部が中心になろうと思うが、府川さんの言う外の自然を示唆してこそ、日本の島原から、たとえば博多とか大阪に売られたのではない、ボルネオ島くんだりにまで売られた若い娘の絶望感という重要な心理的前提が得られる。まがまがしいドリアンの匂いが会場に満ち満ちるような方便を避けて、単に楼閣の内部だけで終始したら、それはもう『サンダカン―』を冠する資格はないですよね。

府川
  樺太で朝鮮人労働者をかくまって助けたとか、反対に日本人が朝鮮人から食糧を分け与えられたというエピソードがあります。それは美談でもある一方、おかれている自然の厳しさの中で、お互いに助け合わないと本当に死んでしまう。ヒューマニズムというよりサバイバルの問題であるわけですね。

海水浴に行って、人で混んでいるから海の近くのプールで泳いで帰ってきて、絵日記に書くということが演劇なのかということがある。実際、僕は不器用ということもあるが、海で泳ぐと必ずといっていいほど怪我をする。クラゲに刺される、とがった岩で背中を切る、沖のほうまで流されて溺れかけるとか。他人にあえて言うほど大した話ではないが、少なくとも安全無菌ということは現場では絶対にありえないです。


最後に 20世紀の時間内ではなく、1万年のスケール感の内包

  津田家が盛岡から樺太への移住者であることをはっきり示したほうがよかったのではないかと思う。なぜなら樺太は米国と同じようにフロンティアなのだから、内地とは違って、互いの出身を遠慮なく言い合う往来感、開放感があるべきではないか。

府川  確かに東北、北海道からの人は多かったでしょうが、僕の祖父は前にも言ったように秩父の人間だし、祖母は金沢の出ですから、林さんの言うことはわかる。

それにしても、こうして話しているうちに自分の最初の考えがどんどん変わってきて、今回の芝居からとても大きなインスピレーションをもらったなと思えてきた。元が取れています。

つまりね。朴と美都子の会話には、単に異民族間の困難な恋愛という通念的な20世紀のテーマではなく、一万年単位の大きな物語が内包されていたんですよ。芝居で未来の可能性として暗示されるのは、朴と美都子の間に子供が生まれることです。混血の誕生です。

僕たちが昨年経験した東北大震災は、樺太も本州も同じように自然が過酷な辺境なんだと再認識させた。地震、台風、噴火、洪水の自然環境の中で僕たち祖先は綿々と生きてきた。反面、豊かな四季にも恵まれています。そういう辺境の風土の先住者の女と、その地に新しく渡来してくる男が共存するためには、どのようなたたずまいが考えられるかということを静かに語っていたのが今日の芝居だったんだと僕は思う。

樺太も日本列島の弧の延長と考えると、美都子も列島先住者の一人になる。女と一緒になる半島からの渡来者がこの土地を受け入れるとき、土地柄をひっくるめた上での生き方の受容の様式が見立てられている。

そのとき、先住者の美都子が外面上は極めて、繊細で弱い存在であるということ、つまり自然に対する耐性をより柔軟になるために、動物でいう擬態を発現している。ここが非常にユニークなんですね。人間の誰もが住みたがる、逆にいうと、常に政治権力が介入して収奪の場になるような開かれた肥沃な地域ではなく、世界の端の、生きることに(特殊技術)が必要な辺境での若い男女の有様が一体どういうものか。単一の強い原理ではこの辺境では生き得ないですね。遠藤周作という作家が、いみじくも「沈黙」という作品で表しています。私たちの国土は原理が変容し、溶解する土地です。結論的に、今日の作品は非常に日本的です。最初に言っていることとかなり違ってきたけど、話しているうちに、だんだん芝居の中身が沁みて来た。

  府川さんがどう観賞するかは自由ですが、そのように思わせたのも詩森さんが丁寧に舞台を練り上げたからでしょう。ここまでセンスよく、綿密にまとめあげられる力があるのならば、もっと大きな挑戦ができるのではないか。勿体ないという感じだ。今回、ハングルの字幕を映し出す左右二本の柱が細くて、貧弱で字が見えにくかった。予算さえあればすぐに解決できることです。

府川  詩森さんの野心次第でしょうね。風琴工房の芝居を見るのは5回目ですが、いつも思うことは、脚本が抜群に良質だということです。台詞にリズムがある。役者も演じやすいんじゃないかな。一方で演出は手堅くまとまりすぎて、スケール感に乏しい。劇団三十周年では、今日の芝居の再演を見たいですが、より大きな舞台設定を期待しますね。美都子と朴の間の静粛な会話も、ダイナミックな舞台の中でこそ、さらにメリハリが利いて、生きてくるのではないだろうか。


楽座価格=3,300円