チケット料金=前売4,000円






楽座風餐 第33回  汽水域   2014年 11月 29日

〔観劇者〕 府川雅明  林日出民


 全体印象

 2時間20分、リアリティー溢れる舞台を飽きることなく見切ったという感じです。フィリピンの村と横浜の港の端の波止場の両方が交錯しながら話を進めるのが出色で、シアター・トラムの劇場構造上、幕を下ろして回り舞台にするわけにはいかないことを逆利用して、フィリピンのシーンが終わらないうちに横浜のシーンが重なるように始まる。その混ざり合い方が、作者が意識していた汽水域とオーバーラップしますし、また、アキオとトオヤも日本人とフィリピン人の混血なので、これも比喩的には汽水域を暗示している。海水と淡水がまじりあう汽水域というコンセプトが全体的に機能していました。

アキオの家族たちの人間造型がそれぞれしっかり描かれていたと思います。だからこそ、日本に来たアキオが突然、フィリピン人になるところに不自然な印象を持たなかった。ここでリアリティーに乏しいとマンガのようになってしまって観客としてはつらくなりますが、それが見られなかった。

府川 今日の芝居は、汽水域ということで、場が終始一貫して重要なファクター、中心的位置を占めていたと思います。それはわれわれ風餐が常に標榜する“場からの思考”ともリンクします。その意味で、場を生かす芝居として、演出、舞台設定が非常に優れていました。装置のコンセプトの成功が舞台上のパフォーマンスを助けたと思いますね。これは脚本の力量とはまた別のセンスが要求されます。

それからこれは全くの偶然ですが、ここ四回続けて我々が見た芝居のテーマが全部、集約されていました。29回は『マニア俘虜記』で戦争直後までのフィリピンが中心の舞台でしたし、30回の『母に欲す』は親子がテーマで、純日本人の田舎の若者が主人公でしたが、今日は混血の若者で状況がハードで好対照です。31回の『どんぶりの底』は、同じどん底生活がテーマでしたが、空想的だった前回に比べて、今回はリアリスティックでした。32回の『地の乳房』は母子がテーマで、息子が母親の愛を裏切るというシークエンスが今日も、母子が離れ離れになるシーンで再登場した。


 脚本

 不法入国者という設定では政治的なテーマを孕んだ芝居でした。しかし、政治色を強調するのではなく、家族の視点から描いていた。そのほうが政治がより感じられるわけです。いかに悲惨かは家族から描かないと本当の政治的な重みが伝わらないからです。それを詳細に描こうとすると勢い調査報告的な脚本に陥りかねないんだけど、うまく回避している。

日本がフィリピンを食い物にしてきたのは枚挙に暇がないですが、一つ言えば、ナタデ・ココの例ですね。フィリピン農民が今までやっていた耕作をナタデ・ココ栽培に変えてしまう。ところが一年後に日本でブームが終わってパッタリ売れなくなって、買い取りを突然辞める。残されたナタデ・ココ畑はどうするんだということです。そんな風に踊らされているフィリピン人の家族の内側の心理や状況を今日は良く描いている。家族は一つにならないけれども、どこかでつながろうと模索している姿はなかなかのものでしたね。

脚本の長田さんはたぶん文学臭いものをたくさん読んでおられる。

最後の水の底のイメージなんか、宮沢賢治の『やまなし』のイメージと合致していた。水の中に蟹の兄弟がいて、上から光がいっぱい降って来てそこに父蟹が現れる。本人が意識しているのか、無意識に昔読んだ記憶が書かせたのか。

府川 ファンタジーの素養のある作家だと思います。

 名作を読む込みことは、脚本に陰に陽に力を与えるということですね。

アキオは名前が日本名でも、憧れの日本に来たら、明らかにフィリピ―ナのよそ者なんですね。日本に来たことで、アキオがフィリピン人以上にフィリピン人にならざるを得ないという矛盾にリアリティーがあった。

私が感心したのは、アキオのたどたどしい日本語がなかなかそれらしい、いい発音をしていたことです。かつて他のいくつかの芝居で片言の日本語の下手さを指摘したことがありました。私は仕事上、日本在住の外国人の片言の日本語を年中聞いていますが、なかなか再現が難しいです。単につっかえつっかえ話せばいいわけじゃない。その意味でアキオ君は非常にリアリティーを出していた。

府川 『マニラ俘虜記』が不満だったのは、フィリピンという外国が舞台でありながら、そこに寄生する日本人の有様ばかりが、あくまで日本の視点から描かれたことです。今回はもう少し中に入ってますね。より現地化した日本人像ですね。日本人をクールに見つめている。これは『マニラ俘虜記』にはないアプローチです。

 そうだね。『マニラ俘虜記』は熱くなっていたから。

府川 あの作品は、日本の米国に対する敗戦主義の心理が反映したモチーフで作られていた。往時の時代の空気から生まれた戯曲だと思いますが、今は時代が違う。『汽水域』は逆に加害者としての日本人像が描かれている。これは現在の問題です。

 家の作りや桟橋的な板の架け渡し方など質素な作りの中にリアリティーがあった。私は東南アジアに出かけているので、ああいう海べり、川べりは歩いてきているのですが、懐かしさを醸し出していました。妙に自分の心の中の過去のメモリーとつながり得るような舞台設定でね、弟のトオヤなんかいかにもフィリピンで見かける感じでね。

府川 アキオの祖父が親フィリピン的メンタリティーを持った、現地人思いの経営者という仕立てですね。こういう方は実際にいたわけですし、また彼らが置かれた戦後の悲劇もあった。日本の経済発展の裏面としての東南アジアへの資本の悪戯を暴くことは、日本人が見過ごしている加害者としての立場を浮き彫りにする。

 フィリピンに残された父親が深く抱く日本に対する拒絶感というのは、舞台の中では真意がはっきりとは提示されませんでしたが、そのまた父の親がらみの問題なわけですね。私自身は、今日の芝居とは逆パターンの方とお会いしたことがあります、インドネシアのスマトラ島ですが、戦後、現地にとどまって、インドネシア人の妻と家族を作られた方です。ハーフの息子さんは徹底した親日派で、日本語学校まで開いていますが、近年、スマトラ島に日本人が来なくなったことを嘆いていましたね。ですから、こうした反対のプロットでも作品は成立すると思います。

向こうの方は貧しい人は海沿いに作るんですね。バラックのような住居を作る。なぜなら、熱帯で蚊がものすごいからです。住むには過酷な環境でね。金持ちは決して住まない。とにかく蚊がきついですよ、熱帯の水辺は。長田さんが実際に行かれて体験したら、脚本に当然入ってくると思うんですね。ただ想像で書かれた割にはリアリティーがしっかりしているので、これは筆力であり、センスだなと思います。

府川 ヨーロッパ人全体のDNAの種類よりも、日本人一国のDNAの種類のほうが多いわけで、つまりアジアのどん詰まりとして、祖先がいろんなルートで日本にやって来ている。

 日本の南方起源説を取れば、黒潮の流れに乗ったウナギの回遊とも一致する。海流に乗ればオンボロ船でも南から日本にやって来れますから。実際、東南アジアで見られる遺伝子が九州から関東にかけての遺伝子のあるタイプと一致しているし、九州に近くなるほど、その血が濃くなっているわけです。古代のある時期に大量にやって来たことは裏付けられます。現実にフィリピンから見れば、ヴェトナムより日本の南西諸島のほうがよほど近い。

石垣島で台風に遭遇して1週間くらい身動きが取れなかったとき、夜、酒場に行くとフィリピン人の労働者にたくさん会いました。話を聞いてみると、直接、船で来たと言いました。今思うと、違法入国ですね。

府川 だから、今日の芝居でのアキオはまさに不法入国、アンダーグラウンドの話ですね。こんなことが日常茶飯事なら日本は法治国家ではないわけです。

 アキオの話はフィクションでしょうが、それが、何か本当にありそうだという現実感を持っているのが脚本の腕なので、その点で成功している。

府川 パンフレットを見ると、タガログ語の翻訳のスタッフもいるようで、周囲のバックアップのサポートを感じさせます。


 役者


府川 役者としては、日本人ブローカー役の笠木さんが存在感を出していました。マイラも熱演でした。

 ヤスユキ役も同様にね。アキオ、トオヤ。この二人はいかにもフィリピンの若者という感じで、いい味を出していたね。結局、混ざろうとしても混じりあえないという葛藤が出ていた。それが日本とフィリピンの間に横たわる実態に根ざした個人感情ですよ。ヤスユキが劇中、周囲のフィリピン人たちに「昼と夜で考えが変わる。あっちについたり、こっちについたり。その場限りで物事を決める。」と吐きますけど、これは本当に東南アジア人間の本質を言い当てていてね、よくわかるなあ。

私が知っている日本で生まれたフィリピンの混血の人を知っていますが、十代後半になってフィリピンに行ったけど、結局、適応できずに日本に戻ってきた。食習慣が違うんで、げっそりやせて帰ってきました。

金松さんのフィリピ―ナぶりもなかなかのものでしたね。今は減りましたけど、一昔前までは緩かった興行ビザの名目で日本に来たフィリピン女性と日本人の男との間で混血の子も生まれました。そういう意味ではリアリティーのネタはたくさんありますけど、あくまで家族のイッシュ―に的を絞ったのが正解でしたね。

それから大事なことは、解決を目指していないということですね。

こういうテーマだと、ついついペンが走って落着を目指しがちだけど、ラストの兄弟の再会の仕方の処理が良かったと思う。

府川 政治的メッセージは今の若い作家は関心の外にあるようですね。同世代に共感を与えるものではないんでしょう。いい意味でも悪い意味でも、個人個人がバラバラになっているから、共同体的テーマはそぐわなくなっているんでしょう


 ウナギ

 ウナギをメタファーに使うとき、露骨すぎるとあざとくなる。拡大解釈すれば日本ウナギはアキオなのか。ウナギの処理ですね。フィリピンではウナギを実際に捕る。日本にも来る。これは事実。かつ、ウナギの回遊とアキオの出入国を表象としてダブらせる。そこがどうか。作者が意図するほどには観客にとっては関心を引かないのではないか、少なくも私はそれほどでなかった。ウナギは美しい新月の夜に大量発生する生物という補足的表象で終わっていたように思う。にもかかわらず、作者のうちではウナギの大回遊のイメージの思い入れは強かったと推測される。

府川 我々が何度も言ってきたように、書き手にとって思い入れが強い部分が、最も客観化が難しい油断の部分にもなる。それがなかなか客観化できない。ゆえに我々のような批評的立場が必要になる。

 クリエイターにとっては強い思い入れが創作動力として絶対に必要なんですが、それが逆に弱点になります。

府川 ですから、生意気なことを言わせてもらえば、長田さんがウナギの大回遊をヒントにイメージが広がって書き上げた後で、もう一度、自分の脚本を他者の目でクールに突き放せるかどうかではないですかね。

 登場人物の生き様とシチュエーション、その自然さ、さり気なさだけで勝負して十分に足りていると思う。ゆえにウナギの大回遊のチラシがとってつけた感じで邪魔になる。かえって余分な鑑賞を強いる感じ。

府川 最後に海の中でウナギの親子が一緒というのじゃ落語っぽくなる。

 蟹の親子ではなく、うなぎの親子を思ったのかなあ。上から降ってくる光が、『雪が見たい。』という雪の表象だったんでしょうか。確かに東南アジアの人にとって雪への憧れは強い。現地で何度も雪のことを尋ねられましたから。

府川 そのあたりフィリピン人の願望をきちんと踏まえて、雪を出してきているのはわかる。

 アキオが日本に来た理由は、例えばですが、むかしむかし、日本人はこんな風にして南から来たんだよという暗示をほのめかせる程度で済ませておき、ウナギとイメージをかぶせなくたっていいと思う。

府川 一度かぶせてしまうと、冒頭に港で日本人労働者からいためつけられて動かないアキオは、打ち上げられた漁獲物のメタファーかということになる。あるいはアキオのような存在は絶滅危惧種?みたいな連想感を与える持ち込み方はあんまり面白くない。その場では一見、面白そうだけど残らない。

ウナギの回遊図は勇み足でしょう。入れたくなるのはわかるけど、書面上はプロット紹介の中で「ウナギに想を得た」程度に、逆に軽く触れておけばいい。

 ちょっと詰め込み過ぎだな。ウナギは白いダイヤだとかで、いろいろな比喩をまぶそうとした。しかし、もっと単純なほうが見る側の心に響くもの。自然に舞台上の展開が受け入れられるんですが。でも、書き手ってどうしても欲張っちゃうんだね。

府川 若さ。一つの話の中にいろいろと盛り込もうとするエネルギーは感じる。

 ウナギの扱いが暗喩というよりももはや直喩ですからね。誰にもわからない暗喩としてウナギを使えば、それはそれで生きてくるけど。


 ヤスユキ

府川 最後に弟がどうなったのかがあいまいな点をどう思いますか。

 弟が死んだかどうかは不明なままでいいんですよ。決定不能にしているのは悪くない。ラストに兄弟が語り合うファンタジーにも接続しています。距離や時間を超えて混じりあうという汽水域のコンセプトに合っているから。

ただね、父親が日本の利権の侵入に背を向けて、フィリピンの庶民と身を粉にして抵抗運動をする真の動機をどこかではっきりさせないと見る側はすっきりしない。

府川 人間は誰もが私的幻想を所有しているので、ヤスユキが日本とフィリピンとの政治的歴史的関係とは別に、個人の義憤のようなものがあるのだと解釈して納得することは可能でしょう。ただ、最後にヤスユキが後生大事にしていた旧日本軍の手榴弾が出てくるあたりで、私憤なのか公憤なのかがどうもわかりにくかった。積年のレジスタンスの象徴なのか、単なる恨みなのか。

 私憤が根っこにあるとすれば、ヤスユキが引き揚げ船に乗って日本に戻ってしまった両親と離れ離れになるとき、十八歳になっているっていうこと?細かく考えるとキリがありませんが、分かりにくい話なんですよ。私の想像裡には気持ち悪いものが残る。赤ん坊ならまだいいんですよ、中国の残留孤児のように。私は日本に住む中国残留孤児の方を知っていますが、みな親中国ですよ。生まれたときから中国人の家族の世話になっているんですからね。

しかし、ヤスユキの場合、青年になるまで両親やフィリピン人の社会の中で育って、フィリピン人に疎外感があるのがどうしても釈然としない。その後、フィリピン人にいじめられたと言うが、彼は親フィリピン以外ありえない。

それから、ヤスユキが終戦のときに十八だとすると、昭和二年生まれになる。そうなると現在は八十台の後半です。息子のアキオは還暦前後になってしまう。そうなると、若いアキオが日本に来たのは三、四十年前になる。だけど、ウナギが絶滅危惧種になったというのは今年の話ですよ。一体、何年の話ですか。

府川 これはどうしても年齢が合わないね。オリンピック特需みたいな話が飯場のシーンで出てくるが、今度のオリンピックとしても、仮に東京オリンピックとしても時間がずれる。

 小説ならば絶対に成立しないです。読者は自由にページをめくって後戻りするので辻褄を合わせないといけない。演劇は後戻りできないから、そこは必ずしも厳密でなくていいけれども、しかし大柄な骨格は誤ってはいけない。汽水域という混じりあうイメージを、時間のいい加減な処理に利用するなら、失敗でしょう。最初から自然な設定にしておけばいいわけで、それができないからあれこれと説明的な糊塗を弄することになる。

例えば、終戦直前にオギャーと生まれた。親から取り残されてフィリピン人の中で育ち、親フィリピンになった。あるいは反日本になった。ならば全く矛盾がないんです。あとは観客の側が想像して受け入れる。

日本に背を向けたくなるというのは。シンプルであるべきなんです。あんまりこの経緯を複雑にする必要はない。

最初から、観客が無理なく受け入れるような設定を提示してしまえばいいんです。芝居は説明ではないです。姿を見せてくれればいいのに、説明をして墓穴を掘りました。

現実はもっとシンプルです、親日にせよ、反日にせよ。私がこれまで出会った混血の方や残留孤児の方を見ると、誰も思いはすっきり片付いています。

府川 リアリティーあるヤスユキの造型を突き詰めてみれば、フィリピンの気候や設定された状況の中で、はたして長い間、複雑な心理を抱いたまま正常に生きていけるものなのか。完全に同化しているか、それとも徹底的に気が狂ってしまうかのどちらかしかないんじゃないか。

 私が脚本で感心したのは、ヤスユキが現地の仲間に『本当におまえたちは将来を読まない。』と批判がましく言うところです。これはわれわれ日本人の眼からすれば確かにそのとうり。しかし、現実にはこのセリフがありえないですね。東南アジアで生活すると、自分の頭も非日本人化するからです。

何で僕が東南アジアの空気を吸いに行きたくなるかといえば、日本人的発想を忘れられるからです。細かい時間や約束事に冷たく縛られている日常が、向こうに行くと解凍されて時間なんかどうでもよくなるからです。 

ましてや、ヤスユキは生まれてからずっとフィリピンでしょう。脳味噌の中身ははるかに東南アジア化しているはずです。彼が生まれも育ちも日本で、成人してからフィリピンに行ったというなら理解できる。なぜ、彼だけが他の人間と違った観念を所有できるのかと言えば、ヤスユキがフィリピンで生まれ育った存在ではなく、純粋な日本人として観客よりに描かれているからにほかなりません。そうなると根本的な設定ミスです。

府川 仮に彼が十八歳まで日本にいて基本的な人格形成をし、それから後、フィリピンに行って現地の人間と結婚し、子供を作ったしても、やはり不自然さはぬぐえない。結局、我々日本人から見たフィリピンという限界性を露呈している。またそうしないと芝居が成立しないのかもしれない。所詮、観客は日本人なんだから。でも、そうなると日本人のための閉鎖的な芝居で終わる。

 やはり想像の限界はある。優れた作家でも想像では補えないものがある。

開高健ですらも音を上げて海外に行ったのは、やはり体験しないとわからないことがあるからですね。実際、現地に行くと、そこでしか得られない収穫はありますよ。

例えば、一年中、夏ということを日本人は誤解しています。常夏というのは単に今年だけ暑い日が続いたという感覚じゃないんだ。何百年、何千年、毎日ずっと夏が続いているということなんですよ。その気候の下での長い歴史の営みから来る人間のものの考えは簡単にぬぐえるものではない。

日本に来た良識のあるベトナム人女性でも、履歴を調べると一年すっぽりずれたりしているが、何とも思わない。常夏の民族にとって、一、二年の違いは許容範囲ですし、それが当然と思う。

府川 一方で日本に来たアキオの造型はしっかり描かれていますよ。作者は日本における異国人の行動はきっちりフォローしています。


 フィリピン

 フィリピンの水辺は蚊が半端ではなく多い。マラリア蚊も混じって飛んでいるですから、府川さん。恐ろしいですよ。

府川 それでも水際で生活するのは、どういうことでしょうね。

 生まれたときから住んでいるから抵抗感がないんです。それが当然の現実です。水際どころか、水の上。水上家屋生活者がたくさんいます。

府川 フィリピンを知らない日本人がほとんどでしょうから、例えば、年中、蚊を払うようなしぐさを役者がすれば、不自然に感じるでしょう。その意味で、『マニラ俘虜記』のほうが現地の熱い雰囲気は出していました。

 今日は南方色っていうのは入ってこないです。ただ、今日は兄弟の演技がね、特に弟のほうは体型がやせこけていてね、フィリピン人を想像させた。竹で踊ったりするのも味わいを出していた。しかし、匂いと音をもっと考えてほしい。それがフィリピンと日本の大きな違いですから。蚊取り線香くらいは、向こうでは必需品なので焚いてもよかった。舞台の上で水をかぶったり、煙草を吸うなんて芝居はいくらもあるんですから。別に無理に生々しくリアルにやれと要求しているわけではないのですが、そういう発想を忘れると、日本の小奇麗な机の上で書かれた台本ですねということになる。

府川 ただ、汽水域を中心にしたドラマとすると、フィリピンの気候と日本の気候の違いや土地柄のほうをあんまり際立たせると、水のイメージのほうが薄らいでしまう危険はある。

 勿論、映画のようなリアリティーは舞台上で再現できないのは当然です。ただ用心しなければいけないところはあると思います。

府川 いかに汽水域で、つまり水つながりとはいえ、横浜とフィリピンを同じ地面と考えるのは、リアリティーの面からはあまりに乱暴。

 確かにフィリピンと横浜の舞台の切り替えは巧みでした。話を戻しますと、父親の年齢設定のようなところなんです。僕がこだわるのは映像的写実主義ではなくて、舞台上のリアリティーです。それを維持するために、父親の初期設定をしっかり作っておけば、あとは観客のイマジネーションとマインドで補えるものです。

府川 さらにディテールの設定に踏み込んでいくと、マイラは純粋なフィリピ―ナですが、彼女のようなメンタリティーは本当にフィリピン女性のものですかね。これは気になった。抱きついたりする表の演技は日本人離れしていましたが、本当にフィリピ―ナ?と疑問符がつく。

また、アキオがゴスペルを大声で歌うシーンがありますね。フィリピンはカトリックですからね、これは唐突で違和感があった。アキオの家族の宗旨は一体どうなっているのかなと。フィリピンでのシーンでは、キリスト教が彼らの生活習俗に深く影響を与えるようには見えなかった。

 アキオが感極まった時に英語の歌が出てきた。これが英語の歌でなければ余計なことを考えなくてもよかった。生活の土台がないとあの歌は出てこないのだから唐突かもしれない。まあ、フィリピンも田舎に行けば、二重言語化していて、日常はタガログ語の原始素朴な生活で、英語はあまり話しませんが。

府川 100%フィリピ―ナらしく演ぜよなんて要求はしません。舞台上でいかにもありそうだと思わせればそれで十分なんです。後で騙されたと思っても。

しかし、見ているリアルタイムで首をかしげるところがあるとしらけます。


 楽座価格

 フィリピンの村と横浜の波止場を結びつけたアイデアなど評価すべきところはたくさんあるし、評価できないところもあった。全てを相殺すれば区切り良く、4、000円です。

府川 脚本の根本設定に疑問がありましたが、舞台演出にはセンスを感じました。コンセプトをうまく生かした点を評価したいので4、800円。

最後に繰り返しますが、外国を舞台にした芝居の場合、日本人的発想から抜け出た普遍性、あるいはその反面の地域性をいかに出すかは、今回の芝居に限らず、未来の日本の演劇に託された課題ではないかと思いました。



楽座価格=4,400円

 


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