チケット料金=前売5,400円






楽座風餐 第28回  マニラ瑞穂記   2014年4月 20日

〔観劇者〕 府川 雅明  林 日出民


 全体印象

 始まりの5分も見ればわかることだが、今日の演劇はスキがなかった。興行芝居で言えば、主演の女衒の親分が座長で、その取り巻きはすべて脇役とみなすことも可能な今回の配役構造の中では、こぼれた脇役の演技のパッションが低下しがちだが、それが全く見られなかった。

主演の千葉哲也の迫力のある演技造形を否定する者はいないだろうし、娼婦たちの奮闘も忘れられない。グループの役柄の場合、一人くらいはテンションや技量が劣るもので、そのために全体のパフォーマンスが見劣りしてしまうということがあるが、それがなかったと思う。天草言葉の音感が効いていた。方言は標準語よりも官能的だと再認識した。演者の表現力の賜物だ。

府川 演出家の誘導によるものか、秋元松代の脚本がよく読み込まれていて、セリフの解釈も丁寧で手を抜かず、真摯だったからだと思う。娼婦役に関しては、女優陣の間で切磋琢磨している感じが伺われた。誰か中心となってリードする役者が、あるいはいたのかもしれない。

 コロセウム式で、観客に包囲されるように中央に舞台が作られていて、私の席からしか見えない女優、あるいは全く見えない男優がそれぞれの場所で演技を同時に行っていることにリアリズムがあった。自分が見えなかった演技には一生、出会うこともないが、その潔さが横溢した空間だった。

府川 楽座風餐ではこれまで、コロセウム式の舞台を何本か見てきたが、当たり外れがあった。

 今日は当たりだった。人間は、日常においてはいろいろな方向に勝手に動いている他者すべてを視界に収めることなどしないが、ひとたび観客となると、金を払っていることもあって、舞台上の役者が全部正面から見えないと不満が募る。

しかし、今日は、舞台の四隅で各役者が思い思いの演技をしていてもあまり気にならなかった、なぜなら、そもそも観客がどこに座るかというのは偶然の産物であって、運命的なもの。他方、今日の芝居は各々が歴史の偶然に翻弄されて、状況の中に投げ出された人物ばかりだった。見る側と演じる側が互いに予測不能の出会いの中で視線を交差させるとき、現場特有の一体感のようなものが生まれたのだと思う。

演出が、舞台上の誰を演技や視点の中心に置くかというバランスを、ところによって取り払う工夫をしていたんだろう。

府川 林さんがそうした実存性を持って舞台を評価するのは、天上の神からの垂直的視点ではなくて、地べたに蠢く生き物として水平的に人間を捉えているからだろうが、それは今日の演劇鑑賞を自然に行うために不可欠のように思える。各役者は舞台全体の秩序との連関を意識しないようにして個々の演技を展開していた。垂直構造を意識させるのは、領事館の天井から下がる国旗だけだった。

 領事館のことが出たので、話を本題からずらすが、東南アジアの領事館は今でも、明治時代のころと似て、在留邦人が困ったときの駆け込み寺的役割を担っている。例えば、インドネシア、バリ島デンパサールの領事館では、現地の男に半分だまされるように一緒になった日本人の女性たちの離婚相談所にもなっている。ヒンズー教の教義に基づく生活に耐え切れずに助けを求めてくる。だから、今日の脚本で、マニラ領事に娼婦たちが住み着くというのは、明治時代のことを考えれば少しも突飛なことではない。不思議な吸引力を持った領事館の役割はまた、異郷に住む日本人のありようを端的に示すものだろう。


 脚本について  1 戦後日本の言説空間

林 脚本には二つの軸があったと思う。男の軸と女の軸だ。男の欲望である闘争における勝利やプライド、死を賭けたゲームという、身体の外へ発動していく対象への熱中は、自己の確たる肉体原理を中心に、現実的に生きていく女には受け入れがたいものという異性間の矛盾を、女衒である秋岡が接着剤のように貼り合せて、その天才的行動、事業によってアウフヘーベンする。

今日の芝居は、女は戦争に無関係という思いを持った。と同時に娼婦たちのたくましさを感じた。往時、天草から多くの女性が中国や東南アジアに無理やり連れて行かれたが、その中には、考えも習慣も違う地元の有力者や白人と一緒になって巨万の富を築くとか、はては東南アジアのみならず中東まで足を伸ばして、たどり着く場所場所で男に抱かれ、生活の糧を得た日本人女性がいた。そういう女性は、必ずしも美人ではなかったし、若かったわけでもない。まさに体が資本。裸一貫、身一つで生き抜いていく。

それに比べて、男が外に出るためには、理屈が必要になる。それが戦争だったりする。今日の芝居の中でも、娼婦たちの屈託のない笑いに、悩み多き志士たちがあきれるシーンがある。あれは象徴的だ。男は愚かしい観念に憑りつかれた動物であると。

府川 娼婦たちの生き生きとした演技から触発された女性の潜在的エネルギーを確かに僕も感じた、しかし、男は戦争などという妄想に駆られた生き物で、その点、大和撫子たる女は現実の中でたくましく平和的な存在であるといった図式的な考えが、世界のどこでも受け入れられる普遍性を持つと思ったら大間違いだろう。

林さんの発言の延長にある観念は、戦後の日本人の言説空間を支配してきたし、今も支配していると思う。この台本はちょうど半世紀前のものだが、当時と今のわが国の精神状況は、薄らぎながらも変わっていないことを自己認識した。その意味で見た価値が大いにある。

日本が先の戦争で無条件降伏したトラウマが続いている。戦争を遂行し、その戦争に負けた男がしてきたことは度し難くファナティックで、男の下で耐えざるを得なかった女は弱い存在だったが、たくましかったというルサンチマンの論理によって隠蔽されてきたものがある。それは詳しく劇評で取り上げることではないだろう。しかし、笑劇だろうが、どのような演劇も、背景に通念や社会思想を持たないものはないのだから、少し話したい。

秋元松代の戯曲は、敗戦のリアクションから生まれた言説空間にあまりにも従順だ。従って、思想的には凡庸だ、じゃあ、わが国で凡庸でない芝居があるかといえば、そういう疑問すらないのが現状の表現空間だろう。非常に不満だ。

男が正しいとか強いとか、女はその逆だの、いや同じだなどと言う性差の判断は、実態を見ればあまりに乱暴すぎる。僕がここで言いたいのは、秋元の戯曲が暗示するテーマを考えるとき、そこから、どうしても既成概念のコードを抽出せざるを得ないということだ。


 脚本について   2 糾弾される秋岡伝次郎

 十分に社会的、政治的なテーマを含みながらも、今日の芝居は、明治時代の中期、異国に生きる日本人を描いたヒューマン・ドラマになっていた。独立戦争の志士たち、若者の姿の裏に大きな動きが見えてくるわけではない。彼らの切羽詰まった言動を通じて、当時の状況説明、時代背景を描写する役割にとどまっている。やはり中心は秋岡と娼婦たちという印象が強い。

脚本の作者はあらがいようもなく女性なので、私のような男の感性から見たときに覚えるいくつかの根本的な違和感を率直に述べることは許されるだろう。

ラスト近くで、秋岡と古賀中尉が決闘をする。秋岡が生き残るのだが、その後、再び領事館に戻ってきて、待っていた娼婦たちに囲まれて、これまでの秋岡の女衒としてのさんざんの所業を問い詰められるシーンがある、そこで虐げられていたはずの娼婦たちが俄然、自らの主張を掲げ、存在感を発揮する。

私はこのシークエンスがどうしても承諾できない。ここからはあくまで可能性の話だが、秋岡という男の性格なら、まず逃走するだろう。その後、時機を見て再び領事館に姿を現すか、あるいはマニラを離れて別の土地に雄飛して、一旗揚げる。

台本では、古賀を殺した直後に娼婦のところに過去の悪事に呪われたようによろよろと戻って、糾弾される。良い悪いの話ではなく、こんな反ダンディズムな、愚直なさまを見せる男が、それまで女衒として何百、何千もの女騙しに成功して来たとは到底思えないし、男が作者なら決して選択しない筋立てだ。

ここには、男の罪を徹底的に追及しようとする女の復讐の論理が明らかに働いている。人間の良心の呵責を問うヒューマニズムのドラマなのだといえば聞こえがいいが、あまりにも予定調和的に思える。

府川 秋岡の魅力とは、打算を超えた破天荒さ、不良性にある。制度に殉ずるつまらない軍人古賀と比較すればより明瞭だ。それがとどのつまり、別人のように彼の全身からスサノオのような悪力が抜けてしまうと、それまでの秋岡の“偉業”の数々は、あたかも娼婦たちに、よってたかって貶められ、アメリカという新たに登場した男に振られるためのスケール・ダウンした豪傑物語にすぎなくなる。

となれば、僕がさっき申し上げたような、戦後の日本の言説空間である、日本人の敗戦心理のリアクションを想起せざるをえない。すなわち秋岡は明治期から太平洋戦争に至るまでを貫く男性像の象徴的存在として十字架にかけられている。

 もう一つの違和感は、秋岡と高崎領事との関係だ。脚本では、裏商売をする秋岡に対して、終始、寛容な態度を示す高崎の間に、男の友情を見ている。そのナイーブさは、男の目からするとこそばゆい。逆のことは勿論、言える。男性が女性の間の友情関係を描こうとすれば、やはり甘さが出てくるだろう。

府川 ここまで、男と女なる一見わかりやすい対比構図で話を進めてきたが、僕は、実在人物の村岡伊平治をモデルにした秋岡を、男と女の差違とか、明治中期の荒波に揉まれた一人の人間群像の枠でとらえること自体に鑑賞の貧しさを感じる。

秋岡は、女衒であり、かつ愛国者であり、憂国の士でもあったろう。時代と最も深く寝た人間とも言える。しかし、僕は千葉哲也や娼婦たちを生き生きと演じる今日の女優たちを見て、つまり、まさに演劇の現場を通じて感じ得たことは、秋岡のカリスーマは、狂人とも天才ともつかぬ、矛盾に満ちた一人の個性的人間の生態そのものであって、ヒューマン・ドラマに回収されるべきものではないということだ。人間という矛盾だらけの存在は類型化などとてもできない。

一体、秋岡はどこまでが天皇崇拝者で、どこまでが出世主義者で、どこまでが詐欺師などかは外側からは到底うかがい知ることはできない。

 秋岡は最後まで不可解な“男”として描かれるべきなのだと思う。背後にある社会的なテーマなり、ジェンダーの違いを思わず語りたくなるが、それが脚本の最終的な落としどころであるかのように観客に感じさせてはいけない。あくまで、それは一つの解釈の可能性としてであり、中心はやはり秋岡の予測しがたい言動、行動だ。もしも、今日の劇で秋岡が不在ならば、どうなっているかを考えればすぐわかる。

ここまで、歴史、つまり時間的側面で語ってきた。地理的な側面も語る必要がある。人間は地面の上で生きている。そこから離れることができない。フィリピンという土地は空想ではなく、実在の地だということを忘れてはいけない。


 脚本について   3 外部性の問題

府川 同感だ。人間を決定するのは第一に言語だろうが、気候や自然風土も決して無視できない。マニラに何年もいる日本人が果たして、本土と同じ日本人なのかという疑問もある。日本人が日本語を話せば、マニラがそのまま一気に日本本土に平行移動できるものなのか。

 

 詩人の金子光晴が、シンガポールの領事館で親しくなった大使館員と夜、酒を飲み歩いていたことを書いている。その後ヨーロッパに渡り、三年ぶりにシンガポールに戻ってきたことを書き留めたその手記の中には「『ああ、この臭い』と、気がついただけで、三年間忘れていた南洋のいっさいが戻ってくるのであった」とある。

東南アジア、往時、南方と呼ばれたアジアの気候の中では、どこでも一般に女が生活の中心で、よく働く。男は身体をあまり動かさず、言うなればヒモ、種馬的存在だ。その中で稀に頭を動かせる者が政治家や運動家になったりするわけだ。

南国特有の自然、気候が持っている能産性は、いわゆる高緯度文明的なものとは別種の、何か原始的感情に沿った文明観を人間にもたらすと思う。要するに熱くなる。色彩も食べ物もすべてがコントラストの強い環境の中では人間の身体に眠っているものがむくりと起き上がってくる。

男連中はまた、政治が好きだから、これが絡むと独立戦争に身を捧げることもする。例えば、太平洋戦争後も、かなりの数の残留日本兵が現地の義勇軍に混じって、日本への帰還を拒否して欧米諸国からの解放戦争に加わった。これも男を掻き立てる気候と無関係ではないだろう。寒い土地では起こりえない。

府川 北方知、南方知という考えが学者の中にある。いずれにしても、今日の芝居は外地が舞台だったから、日本の通常の環境とは別の世界、外部性というのかな、それを当然、意識せざるをえない。異国の日本領事館というガラパゴス化したミニチュアの日本の中の日本人たちによるヒューマン・ドラマで終わるべきではないだろう。

外部性という問題について触れたい。日本人を中心とする中に非日本人が登場する日本人の芝居を何度も見てきて、そのほとんどが成功していないと感じてきた。今回の場合もこの例から免れていない。一言で言うと、外国人がリアリティある造形を持つ他者として現れるのではなく、あくまで日本人から見た任意の外国人像の反映として、外人が描かれている。

 確かに。クライマックス近くで、ウィルソン大尉役の日本人男優が片言の日本語を話して、娼婦たちを笑わせる場面があった。『たかさきさん、ぬかす、いけません。わたし、にっぽんのことば、すこし、わかります。』と言って、笑いを取る。これが誠に残念な一言で、そこまで構築してきた舞台空間を一気に崩壊させてしまった。日本人の役者が日本語の片言を話すくらい陳腐なことはない。

府川 あの場面は脚本というよりも演出の問題があると僕は思う。以前に楽座風餐でも取り上げた坂手洋二の芝居を高く評価するのは、外人の役に外人をそのまま使ったことだ。今日の芝居は、外国人役に外国人を使うことでお金がかかるのなら、観劇料をその分引き上げてもよかった。登場時間はわずかだが、ウィルソン大尉は重要な役柄だ。演劇は舞台に生身の人間が出る。それはやはり大きいと思う。化粧や言い回しや服装で、日本人が外国人に扮するというのは、翻訳劇は別にして、リアリティの面で誠実さに欠ける。見立てることで外部性を示す機会を失う。

また、この場面は、片言の日本語を言うアメリカ人に対する娼婦たちのリアクションが、笑いではなく、怯え、あるいは無反応という演出も考えられた。いずれにせよ、あの場面ではアメリカ人という外部の突然の出現に対して、領事館という村社会全体に斧が入るようなインパクトがもっとほしい。


 演出について   現場性の再現

 演出の話が出てきたので、演出のことを話したい。舞台となるマニラが明治中期にどのような姿だったかを思い起こすとき、納得できないところがある。冒頭話したように、今日はコロセウム式で舞台が中央にあり、転換がしにくくなっている。写実主義的な美術や道具に囲繞された舞台ではなく、より抽象的な設定を志向していたことを理解したうえで、演出上、マニラの現地感を出す工夫ができなかったのかと思う。演者は薄着で、演技も南国を思わせる配慮はあったが、それでも実話がベースにあるので、意識的に南国感を出すべきだろう。

府川 具体的にはどういう点で?

 脚本では八月という設定になっている場面もあるが、八月のマニラ、そして都市化、衛生状態が不十分だった明治時代ということを考えるとき、自然に思い浮かぶのは、冷房設備のない酷暑の空間だ。私の実地体験から、暑さそのものにはしだいに体が適応するが、ボーとして動作が緩慢になってくるのがマニラだ。窓を閉めたら熱中症で死ぬだろう。

リアリズムに徹するならば、日本にいるのと同じ涼しい演技は成立しない。

で、小うるさいことを付け加えると、冷房がなければ窓を開けるが、窓を開けていれば、マラリア蚊の来襲の防備が必須で、蚊遣りとか蚊取り線香などはサバイバルのために欠かせない。あらゆる生物の鳴き声が一日中、かまびすしく聞こえてくる。娼婦の嬌声とまがうこともあるだろう。

スコールも定期的に襲う。スコールは滝に近い。たとえ近くに座っていても会話の声が全く聞こえなくなる。「スコールが来たぞ」などと説明する必要もなく、大音響の滝の音と演技中断の無言の時間があればマニラらしさが出る。脚本はそうした臨場感の再現が全く関心の外にあるとはいえ、私としてはせめて、暗転の幕間など、スコールや鳥の鳴き声を入れるべきではなかったかと思う。

府川 舞台は明らかに異国の地である。しかし、日本領事館の中で舞台の多くの時間が費やされる。そこにいる人間は日本人で、方言があるとはいえ、会話は日本語である。極論すれば、もう異国の設定なんかどうでもいいとならないか。秋岡などというほら吹き坊主が、頭のおかしな女を引き連れて居座っているだけではないか。政治運動にかぶれた数人の若者が出入りするだけではないか。

いや、違うと。ならば、ほとんど日本人しか出てこないマニラであっても、決してわれわれが事前了解している場所ではないはずだと林さんは言いたいのですか。僕も同意見だ。

なぜか。マニラという記号だけで、「ああ、マニラね。南国ね。」という観客の安易な見立ての了解を覆すところに、舞台演出の面白さがあるはずだから。


歴史状況の情報があり、そこに動くさまざまな人間群像があり、そこにドラマが必然、生まれる。否、それだけでは足りない。足りないものは何ですか。

 匂いです。文字どおりの匂いは、舞台で出すわけにはいかない。しかし、先にも言いましたが、南国が人に呼び起こす原始感覚ともいうべきものが、日本では決して体験しえない熱情や怠惰さの匂いをともなって発散するはずだ。

それは演者一人ひとりに求められていて、今日の芝居は秋岡と娼婦たちの中にそれを特に味わうことができた。


 楽座価格

  5,800円です。

府川 5,400円です。




楽座価格=5,600円

 


                                                                         ▲楽座TOPへ