チケット料金=前売5,000円





 

楽座風餐 第8回 南部高速道路  2012年6月17日

観劇者   林 日出民  府川 雅明


観劇者の立場

府川
  今回の芝居は、アルゼンチン出身の幻想小説作家フリオ・コルタサルの作品の戯曲化ということで、すぐに原作を再現したもののように錯覚してしまいます。しかし、基本プロットは別にして、全くの別物ですね。なぜなら、原作のほうは小説で、しかも短編で、フランスのパリ近郊らしき高速道路が舞台で、1960年代に発表されたものです。一方、戯曲は丸2時間の内容で、日本が舞台で、21世紀に表現されたものです。(同時代性)という尺度で安易に両者を連結させることはできないことを最初に申し上げたい。具体的なことは追って話します。

  僕はフリオ・コルタサルが好きで、作品への思い入れが深い。ですから、いやおうなくコルタサルの小説の世界観が自分の頭の中にできあがっている。そういう立場から今日の芝居を観ると違和感が甚だしい。このことを大切にしたいですね。

府川  林さんが抱いた違和感とは何ですか。

  原作が持っているリアリティーが今日の芝居には欠如していた。ここがどうしても気になります。ここでいうリアリティーとは、交通渋滞に巻き込まれたのに誰も救援に来ないのが現実的でないということではありません。原作自体、幻想的手法で書かれた作品ですから。そうではなくて、観劇者、読者に与える迫真性、真にせまるものがないということです。どんなに荒唐無稽な設定であっても、「そういうこともあるかもしれない」と少しでも思わせることができれば、そこから想像が広がってリアリティーが生まれます。しかし、この現代の日本という設定で、例えば、渋滞で長い間、同じ空間に閉じ込められた者たちがお互いを本名ではなく、最後まで車の名前で呼び合い続けるというのは、いくら他人とはいえ、とりわけ妊娠までする恋仲の二人すら車の名前で押し通すのは、あまりに不自然です。

府川  そもそも原作では、車の名前でお互いを呼び合う場面はありません。原作で車の名を擬人化するのは、よそよそしい人間関係やどこかふざけたニュアンスや、またメタファーも含まれていますね。例えば、フランス車のルノーが、イタリア車のフィアットにぶつけられたはずみで、イギリス車のオースチンをぺしゃんこにしたなどというくだりの中に、欧州各国の政治状況も深読みできる。フランスという欧州大陸の中心を国境を越えて車が往来する感覚は、日本というほぼ単一民族の島国とはまるで違う。ですから細部で、ヨーロッパ世界の陰影に富んだ原作にこだわりすぎると怪我をします。


リアリティーをめぐって

  道路に閉じ込められた中で見知らぬ人間集団が一定期間やりすごさなければならないとき、飲食、排泄、SEXなどの生理的問題が不可避的に生じてきます。原作では何度も、水と食糧の不足が喚起される。幻想小説とはいえ、生理的問題は無視できない。特に生身の役者たちが最初から最後まで出ずっぱりの今回の芝居の場合にはなおさらです。排泄の処理については、原作には登場しない客を乗せていない大型バスを設定して、女性のトイレの問題を解消している。確かに大型バスはトランプをして時間つぶしをしたり、もろもろのプライベートな諸事をクリアーするのに便利な機能を果たしています。バスの運転手が女性にもてるのはサバイバルの意味からも納得できる。しかしながら、リアリティーという面で中途半端さは否めない。水木しげるが軍隊にいたとき、兵隊10人の糞便は3日でドラム缶をいっぱいにすると述懐しています。

短編小説では、誰がどこで生理現象を催したかなどのディティールに踏み込む必要がないし、かえって邪魔になる。コルタサルという短編の名手はまさにその省略の技法に長けている。ところが、中編以上の小説となるとそうはいかない。そこで退屈と思える登場人物の紹介や背景の描写の説明も必要になってくる。今日の芝居はたっぷり2時間あります。ディティールの設定に納得がいかないと、たちまち読者や観客は疑問符が積み重なって、芝居の本質への関心が薄らいでいきます。とくに、また繰り返しますが、現代の日本という設定に問題がある。

府川  確かに原作では、渋滞が起こったのは8月なのに、不意に「急に寒くなり……」などと簡潔に書いてすましているが、舞台上では役者が実際に揃って厚着をしたり、肩をふるわせないといけない。また原作では、雪が降り始めることなども書いているが、本当に降っているのか、渋滞に疲れた人間の妄想なのかあいまいです。どれくらいの時間が経ったのか、実はよくわからない。コルタサルが、神の視点からではなく、長い渋滞の中で時間感覚を失ったドライバーの心理の中に潜入しているからです。芝居では、観客に対してその種のアリバイを明確にするための音楽効果とか照明などの演出が必要になる。そこで、〈見立て〉をするわけですね。今回の場合、傘が車に見立てられている。

  僕は傘を車に見立てたアイデアは面白いと思った。移動するときは傘をたたむというのは感心しましたね。最初は奇異に感じたが、しだいに慣れてきた。

府川  そうですか。僕は、最初に話したように、原作と戯曲は全く別物と考えるのなら全く問題ないですが、もしもそうでないとしたら、車を傘に見立てるのは大失敗だと思う。なぜなら、原作において、車のフォルムが与えるイメージは非常に重要だからです。そもそもフランスは第一次大戦前までは世界一の自動車輸出国だったし、1960年代のフランス映画を席巻したニュー・ベルバーグの映像において、自動車は個人の自由を行使し、ときには秩序を破壊する道具仕立てとして大いに活用された経緯があります。とりわけ「出発」なんて映画は、ポルシェのレーサーに憧れる若者を描いています。

だからこそ、コルタサルは百姓夫婦にはアメ車フォード系のアリアーヌとか、若い娘には女性が好むドーフィヌとか、落ち着いた夫婦はファミリータイプのタナウスといったように見事に車種で人間を象徴させています。作者の深い企みが伺われる。原作を忠実に再現したいなら、極論すれば役者はいらないくらいだ。実物の車もどきを舞台の中心に置いて、ナレーションや字幕を駆使して人間模様を展開させるなどというほうがむしろ面白いかもしれない。もっとも、そんな金のかかる面倒くさい仕掛けをするくらいならば、いっそ映像化してしまったほうがよほどいい。

しかし、私は演出の長塚さんは、原作の再現をしたかったのではないと思っています。原作を利用して、現在の日本のおかれた社会心理状況を描こうとしたのだと断じたい。私はその線に従って劇評を考えます。


交通渋滞と日本の閉塞状況

府川  私がこの芝居を面白いと思うのは、原作に忠実であるからではなく、その反対に、原作のテーマを無視しているからです。原作では最後に交通渋滞が解消されて、閉塞状況の中でできあがっていた擬似的な共同体が崩壊していく戸惑いを、回想を織り交ぜながら作品全体の15%くらいを割いて描いている。そこにコルタサルのテーマが見て取れるわけですが、今日の芝居では、ラストシーンがあまりに短く、あっけない。

これは舞台演出上、仕方がないのかもしれない。なぜなら、観客は2時間近く、ずっとほぼ変わらない場面を、そして決して楽屋に引っ込むことなく演技する13人の演技者を見続けているわけです。その上さらに、それまでの長いシークエンスを思い出させるようなシーンを再現するのは、見る側も演じる側も拷問に近いでしょう。

私は、長塚さんが果たして意図していたかどうかは知らないが、結果として、この演劇は、現在の日本の置かれた状況を再現したものになっていると思っています。原作の不定形のつかみどころのない超現実世界に対して、生身の役者一人一人が、観客の目に触れる以上は、リアリティーを一つ一つ作っていかざるを得ないというタフな実験をしたんでしょう。役者の身になれば、相当しんどいはずだ。コロッセウム式で360度観客から見下ろされる中で、13人の演者が2時間、渋滞した高速道路上で生きぬく姿を演じ続けなければならない。しかも、役者の一人でもテンションが下がってしまったら、そこから穴が開いて、とたんに空々しいウソ芝居になってしまう。

推測ですが、互いに助け合って食糧を分け合うようなストーリー上の演技のモチベーションを支えたのは、役者たち自身が互いを鼓舞しあってテンションを維持し、芝居全体の雰囲気を壊さないようにする必死さだったのではないか。その真摯さ、緊張感が観客に伝わってきた。そこではもう原作と比べてどうのこうのの話ではないです。

はっきり言えば。私は最初は、テレビを見るごとく、舞台上の混乱する事態を傍観者的に眺めていたが、時間が経つうちに他人事ではなくなってきた。自分が交通渋滞で閉じ込められたら、一体どうするだろうかというテーマがせまってきたんです。そのとき、同時に、この芝居は現在のわれわれの社会状況を表したものではないかと思った。

  現代におけるリアリティーのない日常感。それは、先にも言いましたように食う寝る住む排泄するSEXするという人間の基本の営みが宙に浮くような意識が、交通渋滞の中でも継続されている。必然的に崩壊に向かう中で、その場しのぎの共同体が刹那の小さな楽しみにしがみついているさまを、今の日本のメタファーとして、高速道路上を舞台に仕立てているのだとしたら、確かに別の話になります。が、そのテーマ展開をはたして観客が理解し、納得して見ているのか否か。他人事ではなく、自分事として引きつけて見られるかどうか。役者たちはみな達者で落ち度はなかったですね。だから破綻がなかった。

府川  この芝居に主役は不要です。突出した個性的な演技は全く不要なばかりか、劇の本意を破壊する。観客と同じ、一般人、どこにでもいそうな人間を演じなければならない。そのことによって初めて、観客が〈自分事〉として芝居を見つめることができる。

私は今回の芝居を評することは、非常に難しい。なぜなら、すっきりしたカタルシスが与えられたわけでもなく、原作にあるような明確なテーマが示されているわけでもない代わりに、ただ演者がひたすら、非日常の状況設定に、手探りの演技で誠実に適応していくさまが強く印象に残るからです。いわゆる通常の芝居を見たときの感動ではなく、経験の共有の記憶がしぶとく心中に居座る感じですね。どこかの時点で、原作の再現は不可能と見切って、演出のコントロールが制御不能になった感じもする。

それは、やはり昨年起きた大震災と無縁ではない。いつ自分が異常事態に巻き込まれるかわからない潜在的不安の中で私たちは日々暮らしている。その社会心理が高速道路に閉じこまれるという不自由さの中、役者一人一人に無意識に投影しているに違いないと感じました。

  シチュエーションの中にどういうリアリティーが生まれていたかを見ていくと、食糧や水を調達するリーダー役の人間になることを皆がためらう場面があります。これはいかにも日本的で説得力があった。また、終わりのほうで「目覚めてしまった」と一人の若い女性がつぶやく場面があるが、本当に生き残りたいのなら一刻も早く、そこを抜け出すべきなのに、どうも辻褄があわない。各役者がその場その場で思いついたことを試している印象がぬぐえない。それは成功したり、失敗したりしているが、見る側がどこか楽屋落ち芝居につき合わされている感じだ。

府川  楽屋落ちを感じるのはなぜなのかを考えてみると、30代前後の登場人物が中心で、老人は死んだり、失踪したりして。無軌道に見られがちな若さが舞台を占めているからです。演出家とほぼ同世代で、一番表現しやすいという事情もあるのでしょう。高速道路の上というのは、日本の閉塞状況を暗示しているが、決して高齢化の福祉社会の縮図ではありません。運転する能力や財やモノを所有する、パワーのある者が勝つという生存法則にのっとった擬似野生の世界です。年寄りから見れば、クリスマスで歌い踊る若者は力があり余っていてうとましく、楽屋で浮かれ騒いでいるように見える。しかし、1960年代は東西冷戦こそ存在したものの狂騒的な世界だったのではないか。現在の日本で、若い世代がいきいきと生きることができる天国的な場所は、逆説めきますが、渋滞した高速道路のような特殊状況下かもしれない。それを若い世代は潜在的に欲望しているようにすら感じる。


最後に

  今回の芝居を観て思ったことのしめくくりとして言いたい事は、観客が置いてきぼりにされていたのではないかという疑問です。しんどいながらも演者や制作者たちは何かを表現しえたという自負や満足があるのかもしれないが、その努力がまっすぐわれわれ観客に向かっていたとはいえない。結果として、つきあわされた感が残る。私はコルタサルの愛読者だけに、大きな違和感が宿題になった。

府川  私は震災後の演劇について考えた。今回の芝居のラストのあっけなさは、われわれが、現実に起きたカタストロフに対して、いまだに何の手も打てていない無力感の裏返しだと思う。ニュー・ベルバーグ全盛だった1960年代のような、個人個人の勝手なふるまいが自由や希望の表現を担保した奔放な時代は終わった。だから現在における南部高速道路は、むしろ生存の危機にあたっての連帯や協働のような概念をもっと積極的にドラマとして成立させてもよかったのではないか。原作の意図を大きく裏切ることになるけれども、私は最初からこれは原作の再現とは思えないので。俳優陣はみな大いに健闘したのだから、その報いを与えるようなダイナミックなラストシーンが、長い渋滞に付き合った観客にとっても同時にギフトであると思うし、現在の状況を打開するサムシングともなりえるのではないか。


楽座価格=4,800円