チケット料金=前売4,000円





 

楽座風餐 第13回  楽園   2012年11月11日

観劇者  府川 雅明    林 日出民


見終えてすぐの印象   DON'T STAND BY ME.        

  『楽園』を題名にしているのが大きな主題、問題だと思います。内容としては、私自身、男ですし、幼少のころはあのように遊んだ一人でもあるので、実感的、感覚的にいろいろとよくわかるんですね。とてもきめ細かく手を入れて作っている。『ああ、こんなやつがいたな。』と思わせる一人一人の造形がうまくできている。

その間に、また胸苦しい思いが大変よく出ている。『明日、先生に言いつけてやろう。』という世界とか、威張っていたやつがたちまち立場が逆転して泣かされたりするのを見て、十二歳のあの頃に戻されましたが、およそ楽園という気分にはならない。非常に胸苦しい思いが迫ってきた。不快な気持ちではないのですが。

私は、彼らが長じたのちに一幕がひょっとしてあるのかなと予想していたんです。その大人になった時点から見れば、十二歳の隠れ家での出来事はやはり楽園だったのだと納得させる何かがあるのではと。しかし、彼らの未来を表すものは、服装と、文字として彼らが社会に出て何をしているかの簡単な字幕説明だけでした。つまりは、リアリスティックに時間が経過して過去を振り返るような散文劇ではない。小学生のときだけを描いて、楽園と名付けているところに何か蓬莱さんの深い思いがあるんだろうと。それを考えたい。これが最初の印象です。

府川  西宮の高級住宅街に『苦楽園』という実在の場所がある。僕は4、000円を払って見る観客の一人として、おおざっぱに言えば観劇の評価は、「儲かったわ。」か「金返せ。」のどちらかになるんだけど、この芝居は「金返せ。」のほうだ。『ロマンサー』とは雲泥の差だ。同じ作演出家の作品とは思えない。内省も韜晦も詭弁も知らない、要するに内面にもう一つの自我を持っていない、人間として底浅い小学生たちが隠れ家で好き勝手なことをし、そのうちの一人が不幸にも一生にかかわる怪我をして終わるだけの話を、『楽園』という言葉の持つメタファーの力で、さも何か、社会的にか実存的にか奥深い意味があるかのように仕立てている。子供を演じる役者たちに、大人になったときの姿で登場させたり、字幕で一言、未来図を示して、観客に芝居の時間的重層性を与え、後は勝手に想像してくださいと放り投げている。

十二歳の四人の少年が煙草を吸ったり、ピストルを撃ったりして、その後、彼らの一生の記憶に残る事件に遭遇するというプロットなどは、ステーィブン・キング原作の映画『スタンド・バイ・ミー』そのままではないかと思わせる。もっとも『スタンド・バイ・ミー』は、月並みなプロットと思いながらも引き込まれる古典的な教養小説の味わいがあって、見終わった後に元を取った感があるが、『楽園』にはそれがないのが決定的に違う。

役者の演技のクオリティーを別にすれば、プロットの構成自体は2、000円前後のチケットで行われる多くの学生芝居と同列ではないか。それから、やっぱりラストは大事です。金を払って見に来る客に対して、いわゆる悲劇的なカタルシスもなくただ落ち込ませたり、不条理的な問いかけもない貧しい難解さで考え込ませて終わるのは、失礼だと思う。
しかし、ただ否定的言質を続けても少しも生産的ではないので、もっと具体的な話をしていきます。


子供と大人 大人と子供  ジキルとハイド

府川  『これは子供の物語である』とリーフレットに書かれているが、子供の再現だけなら平板すぎて30分とは持たない。篠井ユリコが開始30分前後に登場して、舞台を重層化させるのは不可避的でしょう。含意される中身は 決して、子供の物語だけではない。
子供は大人と違って次に何をしでかすかわからない意外性があるので、大人の芝居の予定調和的退屈さを免れる。子供のおかれているリアリティーは生々しくて、劇的で、刻々が格闘であり、サバイバルです。若さとはそういう過酷さ、旺盛なエネルギーがつきまとう。今の中国人のエネルギーにも似ている。歳を取るとそういうしんどさに心身がついていかなくなる。良い意味でも悪い意味でも賢くなる。僕が最後まで見入ったのは、若い生命特有の打算のない行動の再現に引きずられたからだ。だからといって、その意外性に深みがあるわけでは決してないのですが。大人になるというのは、しらけることだとただただ再確認させられた。

僕はいわゆる子供が登場する児童文学などよりも今日の芝居のほうが新鮮で面白かった。なぜならテキストは、描写の過程でどうしても作者(大人)の世界観が介入してくるからです。子供を見つめる第三者の目が物語を支え、ときにモラルをときに啓蒙や知識を説こうとする。そういうおせっかいが、行為だけの再現である演劇ではできない分、より純粋な形で子供の世界が迫ってくる。例えば、最初のほうで山上と瀬戸が二分近くセリフもなく、ボール遊びに興じる印象的で美しいシーンがある。これこそがまさに演劇の醍醐味ではないだろうか。

  しかし、だから4、000円に値するかといえば、ノーですね。自分の小学生時分を回顧すれば、いじめたりいじめられたり、エッチなこともしたし、乱暴もした。が、芝居小屋までわざわざ足を運ばなくてもそんなことは思い出せることですから。子供時代の再現だけで満足する観客もいるかもしれないし、子どもの恰好をした大人たちの芝居だと考える観客もいるかもしれないが、僕は子供と大人の重層性を考えたい。

場の設定から子供と大人の入れ替わりについて考えてみたいですね。 地下の隠れ家がある。雨宿りで大人の恰好をしたまま、心理的には子供に戻っている人間たちがいる。つまり、彼らは実際には警察官やプロレスラーとなった人間たちなんだが、地下の階段を下りていった先で恰好は仕事着のまま、すっかり十二歳当時の過去が立ち現れているというわけです。それが証拠に、外の現実空間を遮蔽させる意味で、雨が降り、雷が激しく鳴っていたのが、雷が鳴りやみ、雨が晴れると階段を上がっていく。そして外に出ればまた大人の現実世界に戻るんです。楽園とは彼らが子供に帰ることができ、大人になってからではできない自由を味わえる自己解放の場所ということになる。ところが、篠井ユリコだけは階段を上る途中で転落して上りきれなかった。字幕にあるように、現在は行方不明で所在がわからない存在になっている。暗示されるのは、彼女が転落以来、いまだに足をひきずったまま人生を送っているということです。未来を奪われた存在と言いかえてもいいのかもしれない。

府川  なるほど説得力がある解釈ですね。たぶんそうなんでしょうね。大人の服装をしている意味も天候のことも説明がつくし、ある種同窓会奇譚のような感じもある。同窓会というのは、すっかり禿げ上がったり、髪の毛を染めあげて外見がすっかり年寄りになっていても、お互いに昔話を始めると、気持ちは小学生に戻ってしまうものですから。だから足をひきずっているとか、脱がすと競泳用のパンツ(モダンスイマーズの比喩なのか?)を履いていることなどには一切頓着しないある種の共同妄想空間がそこにできあがっているというわけですね。だけどね、問題はそれが面白いのかっていうことなんです。

僕がこの芝居を通じて自分自身で一番驚いたことは、大人が子供帰りしているのではなく、子供が背伸びして大人の恰好をコスプレで真似していると錯覚してしまったことです。勿論、その解釈でも部分的には筋が成立しますが、底が浅すぎる。やはり林さんの解釈がまっとうでしょう。このとき、子供と大人の差異がほとんど感じられなかったことがショックだった。我々を取り巻く社会がポストモダン化していて、大人と子供の区別が難しくなっていることの再認識です。我々にはもしかしたら、現代劇で大人の芝居が成立しないのではないかという恐怖感を覚えた。これは面白いどころでの話ではない。演劇の存在意義にかかわるからです。ある意味では面白すぎる。

  大人になったときの服装で子供の話を展開することが、事前に見る側に提供されないという形式は、私はやはりすっきりしないものを感じる。字幕から読み取りなさいだけではすまないし、そんなことは大したことではないんだよということでもないだろう。やはり大人と子供のつながりは何かあるに違いないと思うことは自然でしょう。

府川  となると、僕はいろいろ想像をたくましくしますよ。例えば、コンビニ店員姿の瀬戸が、警官姿の姫島の銃を奪って拘束したとき、「弱いくせに、弱いくせに。」と呪詛のようなセリフを吐きますね。子供にしては妙にルサンチマンを蓄積した演技になっていた。これなどは国家権力の側に立つ警察に対して反感を持つフリーターの社会弱者といった大人の世界の構図をトレースできる。けれどもこうした類推を与えるから演劇が重層的に豊かになるかというと、そんなことはない。もっとも、この種のアイデアは面白いなとも思った。これから日本が言論統制が強くなって、まともな体制批判の表現が制限されるようになったとき、大人の世界のメタファーとして子供に戦争ごっこをさせたりして、何か言われたら『いやあ、これは単なるこどもの物語ですから。』とごまかせますから。

  作り手が陥りがちな説明調を避けている蓬莱さんの潔癖さはとても良いと思うんだけど、そのやり方を間違えると逆効果になる。

府川  不親切。

  不親切です。

府川  これはむずかしい塩梅ですね。説明過多でも説明不足でもいけない。

  説明をせずに、きちんと伝えなければいけないです。説明しなくても、観客が主題をしっかり把握できればいい。その土台を基にして観客は想像を広げられるから。しかし、それが把握できないと、劇を堪能することはできない。

府川  その土台が例えば、通俗的に『人はいじめをせずに皆で仲良くしよう。』というメッセージであったとする。多くの観客がそれを求めているのだとしたら、制作側は見る側に依存しないわけにはいかないから、通俗的な芝居を作らざるを得ない。あるいは意識せざるをえない。それを打破しようとしたら、一つには蓬莱さんのようにメッセージを曖昧にする、あるいは明確には提示しないようにする方法もあるだろうと思う。けれども、観客がもっと成熟したら、蓬莱さんの方法をめぐって、なぜそうならざるをえないかが当然、問題になるはずだし、今、僕はそれを問題にしたい。どういうことかというと、あまりにも日本では劇評のレベルが低いから、制作する側の創作意欲がなかなか解放されないということです。だから芝居が窮屈になるんだね。


なぜ篠井ユリコだけが十字架を背負うのか

府川  僕がどうしても納得がいかないのは、なぜ篠井ユリコだけが悲惨な目にあうのかという点です。これは趣味の問題であって、良い悪いの問題とは違うと思いますが、篠井をこんな目にしなければ僕はもっと『楽園』を高く評価したいです。ここが一番ひっかかる。ただの子供芝居だとおもしがつかないから、『スタンド・バイ・ミー』よろしく、十二歳にとって一生忘れることができない事件を設定したのではないかと穿ってしまう。ユリコが足をひきずって登場するのは、その後のアクシデントの前フリなんだけど、「だから、どうなのよ。」と思う。篠井がアクシデントを起こす因果性、必然性を無邪気な子供の過失以上には提示できないわけです。そして、その状況をただ提示して観客にあれこれ想像させることは良い趣味とはいえない。林さんが言われるように、よけいな説明を極力排して観客の想像の余地を残すのはいいけれど、そもそもその前提として、提示する状況自体の内容のセンスが絶対的に必要だと思います。

  篠井の視点から見ると、後遺症が残るほどの怪我をしてしまったことが、その後の篠井の行方知らずを導いていますね。この芝居を篠井を中心に据えれば、彼女はこの町から、そして少年たちの前から姿を消し、字幕で提示されたように行方知らずとなったのかを少年たちを動かしながら綿々と説明した芝居とも見えてくる。隠れ家のシーンで男たちと篠井はあまりにも対照的な存在であり、男たちは決定した未来から未決の『楽園』に迷い込んだ。篠井は男たちにとって、未決の未来がそのまま決定したところの楽園に迷い込んだことになる。

府川  僕は篠井ユリコをここまで貶めるプロットを容認できないので、なぜそういう設定をするのかをあれこれ考えてしまいます。一つは作者が女性に対する憎悪を潜在的に所有しているのではないかということです。もし、そのような隠れたモチーフがあるのだとしたら、女性に媚びる芝居の多い中、男の本質を珍しくえぐった演劇として『楽園』を僕は男の立場から擁護したい。少し長くなりますが話しますと、小学六年生というのは女子のほうが身体が大きいし、精神年齢も男子よりはるかに高い。男性教師を言いくるめるくらいませた女子もいる。そういう中で男子は女子に対する身体的精神的な劣等感のトラウマを植え付けられる。米国のウーマンリブは、このような背景から出てきたと指摘する学者もいる。儒教とかイスラム教が男子と女子を一緒にさせないようにするのは、一つには、一緒のままだと男子が精神的に女性に去勢されてインポテンツになり、子孫を残せなくなることを防御するための知恵ではないかと思っています。勿論、これは歴史的な男性原理から来る考えです。

『楽園』は、小学校のときに女子からナイーブな自尊心を傷つけられた男子が大人になり、再び小学生に戻って女子を復讐するという劇構造を持っていると考えることも可能です。実際、劇の中で姫島は篠井にそそのかされた三人の男子によっていじめられ、裸にされてしまうし、SEXに対する初心さを馬鹿にされる。しかし、篠井自身も自分のファンクラブが自分を馬鹿にするためにできたものであることを知って深く傷つくので、喧嘩両成敗なんですね。やはり、篠井が一生のハンディを負うような怪我をするというプロットは不公平で、やりすぎだと思う。

もしかしたら、作者は小学生のときに女子にいじめられた経験が実際にあったのかもしれない。逆に、人をいじめた経験はなかったのかもしれない。いじめた経験があると、大人になってものすごく後悔するでしょう。できれば思い出したくないでしょう。だから、このような芝居はつらくて書けないと思う。自分の懺悔の芝居なら書くだろうけど。

  子育てに耐え切れず、しつけを放棄したり、暴力をふるう親は、子どもが自分と同じ成長過程を目の前で再現するのがたまらないからということがある。芝居の話に戻ると篠井だけは偶然というよりも、故意に男たちの世界に侵入してきた外部者として位置づけられていますね。後から登場するのもその解釈を後押しします。そして、男女間で身体的接触をしないままラスト近くに来て、男たちの秘密の楽園の存在を皆に知らせようとする篠井を最初に体に触れたときにアクシデントが起こる。男女関係を意識し始めた小学六年生の不器用さのようなものが、結果として取り返しのつかない出来事の直接の引き金になります。

府川  しつこいですが篠井の設定を僕は決して許せないけども、思春期の入口にある小学六年生がその後の人生を決める時期だということを強く印象付けるメタファーとして、篠井の設定が選ばれたとしたら、確かにそういうことはあると思う。彼らはすでに身体的に子孫を残す能力を備え始めていると同時に、異性を意識しなければ生きていけないような苦しい自我に苦しみ始めるからです。ヘンリー・ミラーの『南回帰線』なんかでも、男が女を意識し始めることでいかに堕落するかが描かれている。人生におけるこの演劇的な端境期に目を当てているのは、『スタンド・バイ・ミー』のプロットを部分的に踏襲しているとはいえ、作者の慧眼だと思う。


なぜ少年が四人で少女が一人だったのか

府川  最初に言ったように、少年四人というのは、成功例としての『スタンド・バイ・ミー』が意識されていると僕は思うし、また実際、舞台としても一番安定した人数ではないかと思いますね。小学六年生というのは、もちろんいろいろなタイプがある。親や兄弟の影響、あるいは生来の早熟さなどから少しも子供っぽくない、打算的な子なんかもいるだろう。しかし、作者は舞台化にあたって慎重に四人のキャラクター設定をしたと思う。できる限り一般的などこにでもいそうなタイプを作り上げている。人数を多くすれば、それだけ子供の世界の再現は広がり、豊かになるでしょうが、収拾がつかなくなるでしょうね。

  大人の恰好で子供時代を再現するんだったら、例えば、ホームレスのようなみすぼらしい男が小学時代は秀才だったりとか、逆にバリバリのスーツを着ている男が、小学生時代は手のつけられない悪童だったりといったギャップがあることが人生の面白さですが、そういうことは最初から作者の関心からは外れている。別の芝居になってしまいますから。

府川  設定において子供時代と大人の間の年齢差の隔たりがさほどないこともあるでしょうが、80年代のころには日本の社会はすでに保守化していますから、階層の逆転というのは起こりえないという現実もあるんでしょうね。

  漫画の『ドラえもん』なんかは類型化が巧みで成功していますね。一事が万事ダメな主人公ののび太に、秀才のできすぎクンがいて、親のスネかじりの金持ち息子スネ夫、そしていじめっ子ジャイアン。けれどもおのおの憎めないところがあり、お互いがお互いを必要とする補完関係になっている。これに優良な子女しずかちゃんをマドンナとして加えると、奇しくも今回と同じ男4女1。



演技について

  篠井ユリコ役の深沢さんの声の大きさ、太さは特筆すべきで、舞台に強いインパクトを与えましたね。「必殺!」のひと声で場面の転換ができる。

府川  同感です。一方、深沢さんとバランスを取ろうとしたのか、山上役の西條さんの声がおとなしかった。たぶん意図的なものだろうと思います。今回の芝居における役者の評価は難しいです。子供らしさを全面に演じ切ることが評価軸なのか、それとも大人の部分を暗示させる演技が評価軸になるのか判然としがたいからです。

  彼らは別に子供っぽく演じているわけじゃないですから。いかに子供っぽく演じているかは評価軸にはならないでしょう。

府川  僕は深沢さんは存在感があって素晴らしいアクターだと思います。しかし、この『楽園』という芝居に関しては、彼のパフォーマンスが充実していればいるほど、いわゆる欧米的な人間中心の演劇性の色彩が濃厚になってしまい、そのことが『楽園』が持っているもう一つの魅力ある世界観を逆に殺してしまった気がしています。見終わった後に僕が息苦しく、篠井ユリコのアクシデントを許容できなかったのは、深沢さんの演技が迫真的だったからです。必然性のない、しかし取り返しのつかない災難が無垢な者たちによって偶発的に起きてしまう結果の重苦しさを、深沢さんは熱演によって増幅させたのです。

「演劇は人間が行うものだから、人間中心に決まっているじゃないか。」という批判を覚悟で言いますけど、僕は前回見た同劇団の『ロマンサー』にも感じたのですが、いわゆる欧米的な近代人としての<人間>が前提の芝居を蓬莱さんは必ずしも再現しようとしていないのではないかという疑いを持っているんです。むしろ泉鏡花の『夜叉が池』のような芝居。一見すると干ばつを救う龍神の人身御供となる<人間>が主人公のように思われるが、真の主人公は<土地それ自体>であるような構造を持つ芝居を標榜しているのではと僕は思っていて、『ロマンサー』にも『楽園』に共通した感触を持ちます。


楽園とは何か

  およそ芝居の印象から『楽園』というタイトルがストレートに結びつかないために、『楽園』というタイトルの意味を見る者に考えさせる作者の意図は見事に成功していて、我々もそれにはまっていますね。

府川  ええ。われわれがモダンスイマーズの芝居をなぜ続けて劇評に取り上げるかというと、制作側が陥りがちな説明過剰さやおせっかいさを回避して、観る側に見方を強要しないように工夫されていて、さまざまな鑑賞を提供してくれるからです。

  それは完成度の高いものであって、さりげなく作れるものではありません。もしも観客すべてに我々が感じるのと同様の自由さを提供できているとしたら、『楽園』は大成功でしょう。『楽園』という言葉が一般的に持つ、万国共通ともいうべき退屈なポジティブ・イメージの油断を突いて、言い換えると楽園の再定義を見る者一人一人に問いかけている。

府川  答はわれわれ見る側に任されていると思うので、僕は楽園を三つの側面から考えます。一つは、篠井にとっての楽園。もう一つは少年四人にとっての楽園。そして最後には擬人化された楽園です。林さんは先に、篠井を中心にした芝居という解釈を挙げました。僕もそれは有力だと思いますね。

  篠井だけは、少年たちの目から見た像になっている。字幕では篠井だけが行方不明になっているが、これは少年たちが客観的に第三者の目から未来が規定されているのに反して、少年たちの主観の中に篠井の存在が収まっていることを意味しています。

府川  ええ。篠井は自分のファンクラブが少年たちの間でできていることを知り、いわば女王気分なんです。そのクラブが本当は自分を弄ぶためのものと知り、揚句には大怪我をするまでは、篠井は人生のピークともいえる心理的楽園状態がそこにあったと言えます。
ある意味で、篠井は少年の間の異性のシンボルでもあった。篠井は、彼女の不幸を思う少年たちが隠れ家を思い起こしたときに心中に登場させた像にすぎないのかもしれない。

第二の楽園解釈として、少年たちこそが楽園の享受者であったという解釈です。隠れ家、秘密基地という言葉が男の子に与えるイメージは魅力的です。僕の世代でいえば、英国のテレビ映画の『サンダーバード』の絶大な影響下にありましたから、秘密基地ごっことか隠れ家探訪なんてのは、およそポジティブなイメージしかない。もっとも携帯を持っている今の子は、今日の舞台の展開は成立しないでしょうね。隠れ家に閉じ込められたら、家か誰かに電話やメールをするでしょうから。男たちの楽園に篠井という女の子が侵入してくることで楽園は変質する。比喩的に言えば、ヒビが入る。<大人>の目を持つ篠井は、ナイーブな少年たちを感化し、誘導して、楽園の中に違う位相での喧噪を引き起こします。

いわば篠井は少年たちのイノセントな楽園の侵犯者として、その報いを受けるという解釈も成り立つと思う。僕がこどものころは、行ってはいけない危険な場所があちこちにあった。それは大概、大人にとって享楽的な場所なんです。最高の場所と言っていい。そんなものを子供のうちに知ってしまったら人生にコントロールが利かなくなると大人は判断するんですね。少年たちが見つけた場所は、彼らが好き勝手ができる場所ですが、あまりの楽しさゆえにハメを外せば即、命の危険を伴う場所でもあるわけです。映画の『イージーライダー』よろしく我々の自由とはそういうもので、すぐに行き止ってしまうものですが、それでも、それを可能にする場所は楽園と呼ぶ以外にはないのではないか。

  本来、場は何も意味していない。たまたま石ころにつまづいただけなのに、その石ころに何か意味を持たせると、たちまちうさんくさい石ころになります。

府川  第三の解釈として、僕が考えるのは、これは本当は子供の物語でもなければ、大人の物語でもなく、あえていうなら楽園ととりあえずは名付けられた<場>こそが主人公の物語ではないかという可能性です。姫島が階段を上るときにつまづくシーンがあります。姫島は『アブねえ、アブねえ。』と言います。これは篠井が後で転落することの前フリなんでしょうがね、しかし、別の解釈もできると思うんです。それは楽園の階段が老朽化して急で滑りやすいという<性格>の表現ということです。そうなるとね、全く逆のシナリオも可能になるんです。

例えば、篠井が、少年の一人から、この急階段が市大会の陸上競技のトレーニングに恰好の施設であることを教えられて、練習に励んで優勝するようなプロットですね。隠れ家が主人公で、それに人間が働きかけをするドラマという発想で考えるとき、篠井の怪我は悲惨なものではなく、楽園の階段の<性格>の表現の一つになります。僕のこの解釈は篠井を人間的な悲惨さの象徴から解放したいという意味もありますが、隠れ家という空間の表現に対する欲求でもあります。

たたくと不思議な音がするドアーとか、少しづつ壊れていく調度品とかが<主人公>である楽園の<表現>としてあってもいい。その意味では蓬莱さんの隠れ家に対する思い入れがやや乏しいことが僕には非常に不満です。何でこういうことを言うか。この第三の解釈は人間中心主義の世界とは逆の自然中心主義なんです。そして、先に申しました『夜叉が池』の持つ世界観にも通じているからです


最後に

府川  作者が小学六年生をリアルに描ける年齢、時期があると思いますね。人生の晩年になって初めて子供の物語が描けるという人もいるし、作家の最後の仕事は児童文学だなどという人もいる。その意味するところは、子供時代を人生経験や人間洞察の深みからより普遍的にとらえることができるということでしょう。しかし、子どものころのヒリヒリする痛みとか胸苦しさは、その記憶がまだ生々しく残っている時期にしか描けないと思う。その意味で蓬莱さんが自らの80年代の小学時代を再現したのは年齢的に時期を得ているのではないだろうか。

  最後に私が言いたいことは、作品、芝居がどこで成立するかを考えてみるに、やはり観客の前で観客の心の中で成立するという立場を取るということです。演劇はリアルなその場で行われて、あとは霧となって消えてゆくものです。だからこそ、芝居の実存を残すべく劇評が存在する。となると、『楽園』には不満が残る。登場人物の子どもたちそれぞれが長じた姿から退行した物語だったと言われても、そんなことは見ている者にリアルにはわからない。リアルにわからないものは芝居以外の要素、すなわち作者個人に帰属します。私はこの芝居を高く買えない。

府川  『楽園』は興行的な視点からは大きく三つの点で損をしていると思う。一番見てほしいはずの80年代に小学生だった観客は、一番劇場に足を運びにくい忙しい年代でもあることが一つ。もう一つは、ラストにカタルシスが起こらないので、観客がリピーターになったり、口コミで広げるモチベーションを欠いていること。三つ目は、お金も時間も余裕のある六十代以上の観客にとって、小学生時代は回顧の対象であっても、それ以上のものにはなりにくいことがあげられます。ですから、例えば、この芝居を「いじめの原因を考え直す」といった文脈でとらえて、教育的な関心を持つ人々に訴求するのはあまり意味がないと思う。やはり『ロマンサー』に見られた日本人の深層を突くような芝居として、堂々と勝負すればいいのではないか。またそういう奥行を含んだ内容だと思う。

    4、200円。

府川   3、800円。


楽座価格=4,000円