チケット料金=前売3,500円






楽座風餐 第25回  さよならを教えて   2013年11月 7日

〔観劇者〕 府川 雅明  林 日出民


 佳作

 一人一人の描き方が丁寧で、演者も役柄の個性をしっかり出そうとしていたので、役者さんもそれに合わせて化けやすかったと思う。90分間退屈せずに、一つの流れに沿って見ることができた。見る側に何の不安感も与えず、終始落ち着いて観劇できる内容だった。途中、笑いを取る部分で笑っていた観客を眺めるとカタルシスを得て帰っていくのだろうということが表情からもうかがわれた。その後、山場を作って、最後はしんみりとさせる。ふんだんに。3500円の観劇料を満たすものを詰め込んでいた。しかし、うっかりするとそれで終わってしまう印象だ。今日の芝居を一言で表せば、佳作に尽きる。

府川 僕も最後まで安心して見ることができたけど、その安心という意味は、例えば、小説の芥川賞、直木賞というタイプで分ければ、直木賞的作品だったということ。登場人物は二組のカップルとそれを取り囲む親友や仕事仲間といった明快な関係の構造で何の違和感もなく、話の流れに余分な難解さもない。すんなりと世界に入っていけた。さて、しかし、それで終わったのでは劇評でも何でもないので、ここを起点に感じたことを話したい。


 岩代文雄

 いきなり目にとまったキャストの話をすると、白洲本樹さんの大家の演技が良かった。でたらめな個性ではなくて、普遍化された個性に触れる演技ををしていた。『こういう大家っているよなあ。』と思わせる。こうした演技ができる役者は貴重だが、逆に言うと、長いこと芝居を続けて、このレベルの演技ができない役者は演劇に向かない。

府川 白洲さんは今日は大家の役だったが、次は別の役柄もこなせるということだね。

 そう。こういうのは日本人が得意とするところじゃないか。江戸時代の式亭三馬は物語でいかにもそうだなあという48人の個性を書き分けた。落語にも通じるところだが、身体表現で演じ分けるのが、まさに役者だと思うから、今回のベストアクターは白洲さんだ。

府川 おそらくまだ日本人に身分社会が残っていて、この職業にはこの顔、この言い回しといったイメージやたたずまいが演者と観客の間で共有できるんだね。それを前提にして成立させる芝居だな。

 それが安心感の源泉。グッド・オールド・デイズということ。現に今日の芝居はラストで3人の大人が回想シーンで体操着の中学生に戻る。早船さん自身がまんざらではない中学時代を持っていたのか、つい最近まで存在していた日本の風景を再現していた。宏美は亡くなった父親の工務店を引き継いで悪戦苦闘をするという、ホームドラマの本流のような安心感。この世界の中で白洲さんの演技がはまっていた。これからの時代、われわれが郷愁を感じてしまうような構図、人間像をぶれなく描き、またそれをしっかりと再現できる俳優を集められれば、根強いファンを獲得できるように思った。失われつつある形を観客に示す力が与えるものは決して小さくない。

府川 金を持て余し気味の大家が、自分の肝入りの劇団を見るためにわざわざ京都まで足を運び、おみやげに生八つ橋をたくさん買って周囲にその紙袋を配るという脚本は巧みだなあ。ここで脚本の話に戻せば、ニール・サイモンの戯曲みたいなすれ違い夫婦の泣き笑い、ビター&スイートネス、男女間のある普遍像が見れて、そこからカタルシスが自然に生まれる。

 確かに佳作。だが、絶品ではない。元が取れる以上に『やられた!』と舌を巻くようなサプライズや喜びはなかった。今まで体験したことがないものを感じたということはなかった。お約束の品を破綻なく賞味したということ。

若い劇団にありがちな、過剰な笑いを求めてしまったり、オーバーアクトに陥る誘惑を一歩手前で食い止めることで、今日の作品はさらにグレードアップする。一種のサービス精神としてのコミカルなシチュエーションと紋切型はしばしば結婚するが、その瞬間は喉の渇きを潤すとしても、反動としてのしらけた余韻が時間の経過とともに蓄積してくる。結果として芝居が良くなることは決してない。むしろ減点を積み増す。今日はこの微妙な一線をところどころ踏み外していた。

府川 僕も全く同感だけど、作演出の思い入れの過剰さとかって、作る側からはなかなか見えないんじゃないかなあ。

 だからこそ、岡目八目というか、僕らのような第三者がどうしても必要になるんだと思う。

府川 例えば、通し稽古ができるようになった段階で、口うるさい第三者に見せて、ありったけ言いたいことを言ってもらうと気付きのヒントが見つかるよね。実際にそうしたことをやっている劇団もあるわけだけど。

 しかし、繰り返すが、白洲さんはオーバーアクトをしていなかった。紋切型の大家を演じていなかった。大家という型はあるようでないものであって、彼自身が大家を創造してなりきっていたから、もともとそこにいるような自然な雰囲気を獲得できた。結果として、見る側は『ああ、そういう大家っているよなあ。』と腑に落ちる。脚本に対するこの解釈力が、演者の評価につながるのは当然だ。

白洲さんが生み出した世界から、その場には見えない仏壇や蝋燭やらが奥行として見えてきて、鑑賞に広がりを与える。ここをオーバーアクトで演じると、大家と仏壇はつながらないし、蝋燭の火も消える。ボヤ騒ぎも生きてこない。

府川 面白い大家ではなくて、大家の恰好をしたけったいな男になってしまうわけだ。

 一人一人が白洲さんのように演じれば、今日の芝居の水準は確実にグレードアップするはずだ。だから、脚本はよくできていたが、演出上は隙間がたくさんあった。この隙をチェックして役者に知らせるのが演出家の仕事で、演出が役者とつるんで客の受けを考えながら振付けちゃいけないと思いますね。

府川 今、林さんが自然な雰囲気って言ったけど、これは演劇に限らないんだと思う。例えばアートの世界で本当に息をのむ作品って、作者の変な手癖が消えてしまっているでしょう。これはあくまで僕の推測だけど、白洲さんにはあまり細かい演出の注文は出ていないんじゃないか。逆に、武内宏美役のほうは劇を引っ張っていかないといけない主役ということもあって、かなり指示が出ているような気がする。また、それを必死にクリアーする方向での熱演を感じた。でも、その方向って敢闘賞にはなっても、殊勲賞にはならない。

 だからこそ、惜しい。

府川 親から家業を引き継ぐ娘の人情やけなげさと幼馴染の婚約者の男の合理性やプライドを巡る対立、煩悶がとてもよく出ている脚本だった。印象に残る。

この終盤のクライマックスを盛り上げるお膳立てとして、洋介が登場の最初からあからさまな不機嫌さを漂わせているのが、いかにも思わせぶりな演技で鼻白むね。宏美に何度も感情を爆発させるけど、僕はクライマックスの1回だけでいいと思う。むしろ観客にいつ爆発するのかと思わせて寸止めにしたほうが効果が大きいのじゃないか。

 変な例えだが、スカンクが本当に手ごわい敵に対してくさい液体を放つのは、ここぞという1回切りだ。スカンクは目立つ色をしているので、あとは、また敵が現れたときに出すぞ出すぞと尻を向ける演技をして遠ざける。

ところで、リーフレットを読むと、「お芝居はとてもささやかな人間関係をテーマにしております。」という早船さんの言葉がある。全くそれで結構だと思う。しかし、見る側にとって決してささやかではない演出があったことが気になった。ささやかすぎるから、歌謡ショーめいた受けねらいのシーンを入れようなどというサービスは全く必要ないと思う。まさにささやかな人間関係の世界に徹することに終始すればいいのだし、観客はそれで十二分芝居を堪能する。

いずれにせよよくできた脚本だと思う。嬉しいことです。シェイクスピアやチェーホフ、他人のふんどしを借りた翻訳ものばかり企画する劇団が多い中、オリジナルで勝負する気概に芝居の醍醐味がやはりある。


 石井夏子

 何で芝居をめぐって、あれやこれやとあたかも完成形があるかのように話したり、また完成を求めて作品が作られるのかと言えば、人間は死ぬからだと思う。もしも人間が死ななければあえて完成をあせることもない。一方では死で行き止るのにもかかわらず、完成などないのに、それを求めようとする。だから、人間はつくづく矛盾に満ちた存在だ。

楽座風餐としては、今日の演劇の中にその死の闇の世界が出てきた以上、どうしても踏み込まざるをえないが、あまりにも死が軽く取り扱われている。ここが僕が佳作以上のものでないという所以だ。

府川 僕は林さんの生死観とは違うので異論はあるが、今日の舞台では確かに死が中途半端に位置づけられていたかもしれないね。

 皆さん、若い人たちばかりだからだろう。激しくぶつかりあったりする根源は、人間はみないずれ死ぬからだ。現に夏子が2階から飛び降りて死に近づくシチュエーションが出てくる。しかし、口で言っているだけなんだな。想像で作っている。その想像裡においても、手をかけていない印象を否定できない。ここの部分をもっと踏み込めば、芝居の色合いも深まるだろう。観劇後の余韻も一段と味わいのあるものとなるはずだ。そこが得られなかったのが残念だ。

府川 夏子に精神を病む者としての気配があったかというと……。

 第一に憑きものがない。飛び降りをするような者には憑きものがある。昔で言うと、キツネがくっついている。ときにキツネの顔がスッと姿を現す。完治していればもうキツネは出てこない。そういった片鱗が全くなかった。だから、飛び降りは唐突すぎて、口だけの印象になる。

府川 夏子が飛び降りの事件後に、再び、宏美と洋介のもとに訪れて「二人は私の事件をさかいに関係を修復したとか。」、あるいは「せめて君たちへのショック療法になると思ったけど。」と言う。夏子の飛び降りがカップルの和解のカンフル剤、手段になるかのような楽屋落ちのプロット説明になっている。ここは観客が夏子の思いを想像する楽しみの部分であって、役者が先回りして口に出したら完全に勇み足なんだね。

 それを言わないと物語全体が平板になると危惧したのではないか。

府川 あるいは、ここを説明することでうなづく観客層を対象に芝居をしているということかな。

 お手軽さが際立っている。徹底してやるなら、セリフも演出も違ってくる。ビルの屋上から下を覗いて、一瞬でも飛び降りようとする体験も必要ではないか。

府川 いずれにせよ、夏子の飛び降りの設定は、そこだけかなり日常性から逸脱した事件なんで、全体の中ではバランスを欠いてしまって闇が突出しているんだけど。それを放置したまま終わらせちゃった。

 闇を出すのは経験の浅い人間には難しいのかもしれない。だったら例えば、夏子が実は隠し子を育てていたといった設定に変えたとする。これも唐突で、作者に何か体験的なものがあった前提での仮定だが、その場合も隠れた母親の顔が演技力として要求されてくる。闇を描こうとすれば、その分演技のハードルは高くなる。だったら、最初から描かないほうがよっぽどスッキリする。描きやすさからいえば、夏子より宏美のほうが楽だろう。夏子に今日のようなキャラクターを与えてしまったら、決して一筋縄ではいかないという意識が欠かせないと思う。力点をどこに置くか。闇にもっとせまって夏子のキャラクターを十分に取り込む世界を舞台上に反映させるのならば、宏美や洋介の造形も俄然違ったものになるだろう。彼岸の意識も抱え込んでの和解劇に変身する。

府川 しかし、冒頭の全体印象でも言ったように、今日の芝居は安心感が第一で、そもそも形而上的なものを目指してはいないんでしょうね。舞台上のリアリティーは、日常のリアリティーとは別の時空間が存在するのは当然で、今日の場合、クライマックスに向かって、火事、飛び降りと事件が連続して起こって、カップルの和解へと雪崩れ込んでいく。その時間の流れの中では、観客は巻き込まれておつきあいをする。だけど、後で振り返ると、やっぱり予定調和的なドラマの枠内に収まっていたなという印象になるなあ。

 役作りが浅いのではないかと言いたい。夏子の最初の登場場面では、彼女は明朗で、賢明で、きれいでというキャラクターを印象づける。しかし、その後の展開を見れば夏子にも心の闇が存在することは明らかなので、すでに最初の登場において、夏子はその闇も抱えた存在として役になりきっていないといけない。勿論、直接、セリフで明示しなくてもいい。コマーシャルをやるのなら、そのときそのときの演出に従ってうまく対応すればいいが、演劇は多面性を持った一人の人物を統合して表現する技量が求められる。

府川 そこが演劇の醍醐味だね。

 そうです。セリフ、動作とは別の“存在”としての演技があり、それを持っているかどうか。それをふんだんに漂わせているのが名女優だろう。

府川 夏子が飛び込む前のシーンで、観客に背を向けて一人で窓の外を長く眺めることが伏線になっている。一見、スマートな処理に見えるけど、ここにはほとんど演技力もいらないから、演じるほうは楽だね。

 夏子が2階から飛び降りるという設定の中途半端さが気になる。本気で死ぬなら屋上に行く。高いビルはいっぱいあるのだから。だから、本気というよりも、むしろ狂言的性格を持っている。ゆえに、宏美や洋介の前で自分の事件をショック療法にしてほしいなどと言うセリフも正当化できるわけだ。いい子だからこそ、いい子疲れの反動で、みんなに迷惑をかけたいという性格も伺われる。と、すれば、狂言性に徹した別の描き方はあるだろう。

府川 夏子が「ああいう病院に行ったことがある?窓に鉄格子があって、二重トビラでロックされて、みんな突然叫んだり……」と言うけど、これも狂言で済ましていいものかしら。楽座風餐としては、現場のリアリティーと演劇のリアリティーを重ね合わせて見ることになる。そうすると、この精神病院の描写はどうかなあ。

 僕は精神病院に見舞いに行ったことは何度もあるが、まず匂いが違う。部屋に備え付けの便器を使うし、毎日定時に係が便を集めて廊下を移動する。子供のものと違って量も多いから、院内全体に独特の匂いが漂う。加えて患者は一般に無気力だから着替えを嫌がるし、入浴も面倒がって遠ざける。

府川 体臭が立ち上がってくるね。それに薬の副作用で口臭もきつい。

 「今度、見舞に来て。」と笑顔をふりまく人間が1ヶ月も鉄格子のあるところに入院はしない、よほどの重症でない限り。数日程度の休養のための入院ならばわかるが。

ここはセンスの問題が問われている。筋として、話としてはいくらでも書けてしまう。そこを『今、ここは書けない。また書いてはいけない。』と自覚して、誘惑を思いとどまるか。逆にそこを突破するために苦しめば、豊かなその先が見えてくるのではないか。ここをお座なりに済まして押し切ると、生命のないセリフだけが残ってしまう。やはり僕の結論としては佳作に落ち着く。

府川 想像だけで済む部分と、想像だけでは許されない部分があるんだね。そのあたりを切り分けていくのが楽座風餐だと思いますよ。



楽座価格=3,500円

 


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