チケット料金=前売 4,200円





 

楽座風餐 第35回  聖地X   2015年5月23日

観劇者   林 日出民   府川 雅明


 芥川賞か直木賞か

 全体的によく行き届いた芝居でしたね。何でこんな下手な役者が出ているのかなんていう印象は全くありませんでした。人数も役柄も適材適所で引き締まっていて、さらには話そのものの面白さだけではなくて、自己分裂の話をからめて、主題のキーワードでいうと精神と肉体、物体が出ていました。そのことはまた後で話します。

一番感心したのは、岩に注連縄をかけるだけで聖なるものに化けて神が宿るという信心の理屈が話を占めていたことです。その精神性を持ち出しているので、単なるSFっぽい推理劇奇譚で終わっていない。我々の痛いところを突いていると思います。

例えば、われわれはふだんお守りを鞄などに潜ませていますが、実のところ表にありがたい言葉が書いてあるだけです。これをわざわざばらして、中身を破ってみる勇気のある人間はいない。そんな我々の日常の生活心理を応用して作ったのが心憎い。そこが根本の面白さだったと思います。

府川 思い込み情報の実体化というモチーフ。

 思い込んだ内容を単なる情報として処理できないおかしさ。情報に肉体がのっかって、精神を感じてしまうと、何か割り切れないものが残るんです。

聖地Xというタイトルを推し量ると、冒頭と最後の日常シーンが呼応していて、その間に挿入されている日常離れの話が本編という形ですね。そこにドッペルゲンガーなんて言葉を持ち込み、ドタバタ風の人間関係の面白みを持たせたりする構成が巧みでした。夫婦の離婚というさりげない現代劇から始まっていく導入部もなかなかリアリティがありましたね。

府川 ん、ファミリー・コメディーかしらなんて思わせておいて・・・。

 親の資産に依存して独身生活を続ける山田輝夫はやや古い言い方をすればネット・オタク的存在です。妄想が作り出した身体をフロッピィ―のような情報体として抹消しようとしたが、結局はできなかったところに、生身の人間と虚構の中の人間の違いを観客に実感させる場のリアリティーが出ていました。

府川 作演出を兼ねる前川さんがセリフの一つ一つから舞台の役者の入りと出まで完全に自分の世界を再現しようとしたのが今回の観劇作品。で、のっけから戯言を言えば、山田輝夫は作者のまさにドッペルゲンガ―でしょ。役柄の中で輝夫が一番生き生きとしていたもの。あるいは演者の解釈力が高いのかな。

 何か前川さんの代わりに舞台内で演出家的にふるまって、他の若い役者をダメ出しする感じすらありました。

府川 安井順平さんの役者としての個性を当て込んだ台本だと思った。彼は、お笑いのプロだから、舞台上で間を作れる。相手役のツッコミができる。息が読めるんです。ダシャレではなくて “粋”な役者。なかなか魅力的な存在だね。

僕はお芝居を見るときに、漠然と「これは小説のタイプだと、芥川賞かな、直木賞かな。」って考えるんだけど、今日の芝居は直木賞タイプ。

そもそも演者が「ドッペルゲンガ―だ。」なんてセリフを吐くこと自体、その象徴だよ。抽象観念とか難語を並べ立てるのは通俗性の最たるものでしょう。これが芥川賞タイプとなると、読者の想像裡に“ドッペルゲンガ―”を想起させ、暗示させようとするわけで、登場人物が先回りしてテーマを直接漏らしたりはしない。

それで、全体としては最初から最後まで破綻無く、首尾よくできた上質の娯楽劇だったという印象。底浅い謎解き軽演劇なんか、今日のパフォーマンスを見てショックを受けて、みんな消えちまえという勢いがあって爽快だった。

   要の謎笑い

府川 輝夫がビビッドに描かれていると、その反動として、妹の要が何かもの足りなく感じるなあ、事件の一番の当事者であるにもかかわらず。どんなに短い結婚生活だったとはいえ、旦那の滋とくっついた何かの深い理由が一つでもあれば、最後に説得力が出てきたんじゃないか。もっとも、それが見つからなかったからこその離婚話でもある。林さんはこの点、どう考える。

 確かに夫婦関係がなぜ続いていたのかわからない部分があります。最後、気になったのは、第三の滋を処理しようというとき、要は滋との関係をうまく解消さえすれば忘れられると言う。忘れる話が何であったかの前提が我々には知らされていない。よほど忘れたい話でもあったのか。忘れたいというのは忘れたくないという気持ちの裏返しですから。風俗に金をつぎ込んだのが離婚の最大要因だとすれば、安易な記号を与えられただけということになります。

府川 要と滋がなぜ惹かれ合い、傷つき、別れることになったかの動機が説得力に乏しいのは、確かにこの芝居を軽薄なものにしている。特にフランス人のように男女関係のあれこれをオカズに生きる志向の持ち主が鑑賞すれば、大いなる不満を持つだろうね。「一番美味しいところを描いていないじゃない。作者はインポ?ドッペル話より、男女関係のほうがミステリーなのに。」とか芝居を見た後のカフェで辛口批評をかますかもしれない。  

だけど、ここはフランスなんかじゃなくて日本なんだよ。あえて前川さんを擁護すれば、この国の限りなきケーハクさを描きたかったんだと思う。くっつく理由も軽薄。別れる理由もご同様で底が抜けている。第二の滋は要の中の妄想の滋である以上、要が軽薄なんだから、滋が軽薄さから逃れる術も全くない。

要は地方の資産家のわがまま娘で、今時の若者なのに、通信販売のアマゾンも知らない。かなりカリカチュアされた人物造型だけど、基本は軽薄なキャラですわ。

だから要の素っ頓狂な笑いをあえて解釈すれば、「私って、今まで何でこんなに軽かったのかしら。お馬鹿じゃないの、いい歳して。」って人生で初めて自己に目覚めた時に出てくる女子の雄叫びってことか。

 私としては、第三の滋が残ったことが最も気がかりなところであり、同時に最も面白かったところです。一番最後に場面が転換して、第三の滋は要の心から忘れられ、その存在も消滅し、新しくお店を出して再出発するかのすっきりさ加減というのは、オチとしてできすぎているというのが私の不満です。

府川 どんなに荒唐無稽な内容でも、舞台上でリアリティが成立すればいい。ウイットに富んだ推理劇の性格からすれば、夫婦関係にあまりに入れ込むと、人情芝居に陥るから深く切り込まなかったのかもしれない。

だけど実際、夫婦関係はこんなにスッキリ終わるものなのか。そもそも今回の事件の発端は要が生み出した妄念なわけで、その当事者である要の最後の笑いがあまりにお安くないか。

 そうそう、あの笑い出したところが私はダメでした。奇異に感じたし、これはヤバいと直感しました。ここまで劇を引っ張ってきて笑わせた以上は、オチをつけないといけませんからね。しかし、笑いがおさまっていくところで、笑いを意味づけるうまいセリフが出てくることを同時に期待しました。

そのオチが、“滋を忘れられさえすれば目の前の肉体も消える”というもの。無理やりです。自然体のオチではないです。言い換えれば、芝居も2時間になった。そろそろ切り上げたいという時間制限の考慮でしょう。

  心理的時間計算

府川 前川さんは非常にクレバーな作演出者だね。観客の観劇時の心理的時間や疲労を計算できる。だからエゴイスティックなものは作らない。開始して40分前後でドッペルゲンガ―という言葉を輝夫に吐かせて劇の位相を変えて、1時間を過ぎる中盤の折り返しで、レストランでのミステリアスな劇中劇を長めに再現する。

なぜ、長めになるかというと、推理劇とミステリーの強度を高めるためだ。さらに言うと、これは僕の勝手な読みだが、レストランのオーナー役の森下創さんの出番を増やすためじゃないか。なぜそう考えるかというとね、僕は漫才のシティー・ボーイズのことを連想したから。安井さんが大竹まことで陽の笑い。森下さんがきたろうで陰の笑いなんだ。この両極のブレンドが味わい深いと僕は感じた。だから、次はどんな芝居で二人がからむのかなと興味が湧く。

しかし、エゴイスティックでない劇というのは一長一短があるな。林さんはそこに課題を発見するのがうまい。どうですか。

 第三の滋が出現して、それを情報として簡単に始末しようとする兄がいる。でも、最初に妹の要が何とかしようと滋に触ると、汗をかいていて生あたたかいので思わず引いてしまう。この話の主題は、人生のすべてにおいて記号処理はできないということですね、死や離別やらの問題の前では。

情報処理が殺人になりかねない。そこで、今度は兄が殺そうとするが、これまたできない。この滑稽な苦悩ぶりから明らかなのは、人間の中にこうした葛藤が生まれる限り、聖地はなかなかしぶといものと考えるのが自然です。つまり人間の記憶は決して簡単には消えないということです。思い入れが簡単に消えるものならば、聖地だって簡単に消えてしまいます。ならば果たして聖地と言えるのか。

第三の滋の存在は、要の笑いの一瞬から手早い死産のエンディングを願ってしまったと、私はそう思います。

  蘇るミイラ仏

 とはいえ全体として話はよくできている。舞台上の辻褄があっているので、見ていて気持ち良かった。ラストシーンもきれいにおさまりがついている。その上で言うのですが、第三の滋への愛着を私は禁じ得ません。第三の滋の存在を持て余すなんて思いは、おそらく作者の意図にはなかったでしょうね。あれば別の芝居になったはず。つまり、優れた演劇は、それを見た観客の想像力をたくましくさせるんです。
私がふと思い出したのは、上田秋成の円熟した晩年の作品、『春雨物語』の中の『二世の縁』です。坊主が入定する話なんですが。

府川 即身仏。

 ええ。生きたまま地面に埋められて、三日、四日と鐘を鳴らして念仏を唱え続ける。フッと鐘の音がとだえて、つまり仏になる。今回の劇団プロジェクト名ではないですが、まさにイキウメです。

この話の馬鹿馬鹿しさ、面白さは、この尊いミイラをわざわざ掘り起こしたあたりからです。死体にお湯をかけると肌が何やら生き生きとし始める。水を唇に含ませると、少しづつ動き出す。食べ物を与えると食するようになる。血色が良くなって、数日のうちにみるみる元気になり、すっかり元の姿に戻るわけです。

府川 フフ、滑稽だね。というか痛烈なプロテスト。

 こんな僥倖はないと周囲が喜んでいたが、この蘇った高僧が実に意地汚い。食い物は欲しがるし、色の道にも余念がない。生前、尊い存在と思われていた人物だから邪険に扱うわけにもいかない。さあ、どうすればいいかと慌てふためく。この状況が、第三の滋を前にした兄妹の狼狽ぶりとオーバーラップしました。 

府川 作者がどこまで意識しているかは不明だが、いずれにせよ、聖地Xというタイトルのイメージから、いかにも現代風のミステリーと錯覚しやすいが、そんなことは全くない。われわれの先人の文学を紐解けば、サンプルには事欠かない。つまり、極めて伝統的なモチーフだということです。

今日の芝居の中盤で、第二の滋がお手伝いさんのさおりに言い寄る場面がある。あれなんかまさに林さんの言う『第二の縁』の発想だね。やっぱり滋の本性は色、そして地方の富裕家のお譲の金が目当てという俗物さを出している。

  消去できない第三の滋

  前川さんは賢くて、二日間の新旧の滋の記憶を合体させるために、空きフロッピーよろしく第三の滋に記憶転写させるというアイデアは実に面白い。

しかし、記号的扱いではおさまらない事態、予定調和がこぼれ落ちてしまうところが、人間の肉体を駆使する演劇表現の醍醐味ですから、筋があまりに記号的に運びすぎて、きれいに成仏するだけでは物足りなさが残ります。

もっとも、仮に予定調和をはみ出すようなプロットを本番近くになって発見したとしても、最初の構想が綿密に出来上がっていれば、なかなか突き崩せないでしょう。そこをさらに踏み込んで抑え込むことができたら、さらに作品は懐が広いものになるはずです。

うまくいくかどうかは別にして、例えば、一番最後のシーンで、要の背後にでもヌッと第三の滋を立たせてみるのはどうなのか。

府川 エイリアンの続編みたいにね。死んだはずが生き残っている。

最後の場面についての僕の解釈を言います。第三の滋はきれいに消えた風に見えるけどね、要がこれから新しい商売を始めて、しくじったら、また昔の滋がべローンと出てくる直感が走ったね。滋を忘れて妙にすっきりしている要がかえって曲者で、軽薄さ自体を克服できているかは大疑問。繰り返すけど、アマゾンも知らないわけだから。そして確かにこうしたお嬢さんがいることを僕は事実としても認めます。

 いつも思うことですが、舞台上のリアリティ。これはエンターティンメント性も含みながら、その場で何の疑問もなく、辻褄が合って自然に観客を運んでいくのがいい芝居ですよ。ただし、そこで辻褄が合っていることを観客に意識させると破綻する危険がある。あくまで舞台上で出来事が必然的に進行しているように感じさせることが望ましい。

その意味では、第三の滋は無理やり消すのではなく、放浪するというのが自然ではないですか。僕に言わせると、三番目とか三男坊って放浪のイメージなんです。今じゃ少子化で子供が少ないけど、一番目、二番目までは世間に承認されやすいが、三番目となると違う。

この世の中で生き場を失っている人たちの中に、もしかしたら第三の滋が紛れ込んでいるかのような想像を駆り立ててくれたら、今日の劇はより不気味で味わい深いものになったのではないか。勿論、それはあくまで舞台上での辻褄合わせのリアリティです。

府川 第三の滋は、せっかくこの世に生まれてきたんだからね。勿体ないね。

  ディティールを拾う

  冒頭で、日本人ってのは信心深いと、やや自嘲気味に話すくだりがありますが、しかし、どうでしょう。実際、信じれば物事は実現すると思っている人間がはたしてどれくらいいるのか。

府川 今日の芝居は、直接、社会批判しているものは何もなかったけど、あえてラストをすっきり終わらせることで、今の状況の薄ら寒さを浮き彫りにしたと肯定的に評価したい。

 いくら信じたって現実はどうにもならんよと思いつつ、一方で、正月になれば神頼みで、神社で手を合わせるというこの妙な日本人の二重性。今日の話は、さっきの上田秋成にも通じるそんな土俗的な根っこから栄養を取っているからこそ話が生きてくる。それは大いに結構です。その根っこを切ってしまうと、単なる荒唐無稽な話で終わってしまうでしょう。

府川 要が柏手を打つ演技は、なかなか効いていたね。会場のみんなを代表して厄落としみたいなね。

 今日、巧みな演出だなと思ったのは、輝夫が第三の滋を後ろから縄で絞め殺そうとして果たせず、結局、縄を手から放した直後、「痛てえなー、チクショー」と叫ぶアクションです。本気で締めたら手が痛くなるだろう。あのリアリティは私好みですね。

府川 うーん、やっぱりね。いい芝居って、そういうディティールをきちんとすくうよね。台本の中にあったのか、演出で出てきたのか。とにかく芝居ってそんなところでほとんど決まる気がする。

  蛸壺化

 府川 今や集団表現は蛸壺化しているね。それは今日の芝居にも言える。同世代の極めて狭いサークルの中では価値観が流通できる。だけど、そこから外れた世代が書けないんでしょう。破綻なく作品をまとめようとすれば、その狭い世代の中で完結させればいい。その意味で今日は見事に守備範囲を出ていない。

 作者と等身大の人間だけね。

府川 作者の願望の一つかもしれない独身貴族?を中心にして、登場人物はそれより若い世代のみ。親父さんは殺してるし、おふくろさんは入院中でしょ。

 聖地と名がつく以上、日本人の消しようもない土俗的感性と無関係にはすまないし、実際に今日はそれが息づいているからこそ、作品に力があるわけですね。ならば、例えば、入院している母親の言及があってもよかった。

府川 出すとしても会話の中とか、結局、記号になっちゃうんでしょ。生身では出せない。だったら、最初っから排除しちゃったほうがよっぽど無難。神社の話とかも記号処理でしょ。土地持ちの資産家だったら、土地のいわれとか先祖のこととか気になるはずの人たちだと思うんだけどね。一番の保守層だから。

  聖地S

 今日は土地というものがテーマになっていると思います。作者が土地の聖性をどのようなバックボーンで培ってきたのかを問いたい。単に祟りますなどとというのは記号的捉え方です。土地そのものが浮かばれない聖地という意味もあります。

例えば、東京で言えば山谷地区。これはもう明るいネオンとかしゃれた建築物ではごまかせない。土地にしみこんじゃっているものがあって、絶対に気持ちが塞いで帰れますというくらいの地面がある。実は今日の作品の良さは、日本人に脈々と生きている地面の命の部分だと思うんですけどね。

府川 うーん。僕は、山谷の雰囲気は社会が生んだ一つの幻想にすぎないと思うな。だけど、直木賞を目指すならば、林さんが指摘するように土地にがんじがらめになっている人間の悲喜劇も交えての聖地Xということになると思う。欲張りな観客の眼で言うとね。土地って世界中のどこでも人間の欲望の変わらぬ対象だから。

聖地という観念は今後も残ると思う。だけど、時代によって受け止め方は変わるんだろうね。現代の聖地観は、通俗そのもの。そして、これは林さんがまさに挙げた上田秋成のころから我が国にあった。だって即身成仏した偉い坊さんにお湯をかけて蘇らせるなんて俗ですよ。欧米なんかよりよほど民度が高いと言う人もいるけど。

それに加えて、歴史を持たぬ若い帝国アメリカ進駐軍の神仏破壊政策だね。軍国主義に嫌気がさした我々が飛びついて洗脳された所産だよ。それに服従して暮らしているだけ。思想的に別に深みがあるわけじゃない。東北大震災以降、

日本人の土地に対する執着は、強化されたというより稀薄化したように思う。

過去から培ってきた日本人の感性やら生業の行き場がなくて浮遊しているから、聖地Xみたいなことを考えたくなる。だから駄目じゃないです。これは今日の作品の評価のことじゃなくて、我々みんなの問題だから。

 楽座価格

府川 いずれにせよ、今日の芝居に限らず、もはや現代演劇の内容自体に何からかの普遍的テーマを見出そうとするのは虚しいね。仮にあるとすれば、見る側自身が観劇を通じて得た個人的なテーマでしょう。それが豊かであれば、その観客にとって、その芝居は大成功。で、今回、僕はとにかく娯楽劇として十分に楽しめた。だから過不足なく4,200円。

 よくまとまった芝居ですが、要の最後の笑いだけが承服できない。その部分がマイナスです。3,800円。



楽座価格=4,000円

 


                                                                        ▲楽座TOPへ