チケット料金=前売4,000円





 

楽座風餐 第15回  異邦人   2013年2月17日

観劇者   林 日出民   府川 雅明


全体の印象

  本日のダンス・パフォーマンスについて、各演者がおのおの高いレベルの肉体表現を披露し、申し分なかった。美術や照明も行き届いていて、作品舞台であるアルジェリアの暑気や地中海の雰囲気を出していました。石造りの家は宮殿を模したようにも見えて、演者たちはあたかもギリシア悲喜劇に登場するコロスたちのようで、ふだんは舞台の後ろに控えているはずが、時機を得て解放され、前面に出て、踊り始めて喋り出したという感じ。演出者の独創だと思いますが、今まで見たことがない新鮮さを覚えました。

リーフレットを見ると、小さな字で<『異邦人』 アルベール・カミュの原作よりインスピレーションを得た上演作品>とあります。となると、今日のパフォーマンスは世界文学としての価値を持つ原作の再現作品ではないということになる。後でも触れたいと思いますが、人口に膾炙しているこの小説独自のテーマである不条理性(馬鹿馬鹿しさ)はどのように扱われたのかが当然、気になります。この作品を取り上げる以上、どうしても避けて通れないからです。いや、小説とダンスは違うジャンルなんだから、原作は借り物にすぎませんとして済ますのならば、別に『異邦人』である必然性はないわけです。そのことが気になっているので考えたい。

府川  僕や林さんのように、カミュの作品を線を引きながら読み込んできた者としては、演題に見事に騙されたわけだ。僕は原作がそのまま再現されていないから不満だとは全く思わない。むしろそんなものなんか少しも見たくない。第一、死刑囚なんて設定は時代遅れですから。ただ、林さんと僕は全く同じ感慨を持つんですが、今日の作品を見て、ダンス・パフォーマンスの見事さと『異邦人』というテキストでなければならない理由とが強く結びつかない。おいおい語っていきたいんですが、『異邦人』という小説をダンスに変換する上で、原作を深耕すれば、もっと面白い機略が成り立つんではないかと僕は思った。これだけの制作パフォーマンスの力量があるのだから、まだまだ面白くなるはずだろうと。


ムルソーとは何か

  『異邦人』は主人公であるムルソーの心理と行動を中心に描いたものですから、ムルソーの存在感が決定的に重要になりますが、ムルソー役の森川さんには強い演技が与えられていなかった。原作に比べるとムルソーがおとなしすぎる。

府川  ムルソーがワン・オブ・ゼムという印象ですね。ダンスの中では、誰が主人公で誰が脇役でという突出した区別があまり明確に感じられなかった。各人が競うように魅せるパフォーマンスを展開していたこともあります。何となく集団の動きで、ムルソー役が中心であることがわかってくる。しかし、ところどころにセリフがはさまれるのですから、純粋な無言劇ではない。となれば、ムルソーは、そのセリフを効果的に駆使して原作の持つ面白さを引き出して、それをまたダンスへともっと立体的に還元していくことができた。ところが、森川さんの発声はか細く、演劇的なインパクトに乏しかった。特に今回のような広いステージではよけいに目立ってしまった。

  脇役の片桐はいりさんのほうが、もともと役者なので言説の力を持っていた。そこで私が最初にこの舞台に期待したのは、原作における主人公の語りと行為を分裂させる演出を見たからです。片桐さんにムルソーの言葉を言わせ、森山さんはムルソーの動作だけを受け持たせた。しかし、そればかりを多用するわけにもいかない。なぜなら、ムルソーとそれ以外の人間との対立構造が曖昧になって、舞台を支える柱がなくなってしまうからです。

府川  言葉というのは、対立構造を瞬間に明確にさせる力を持つ。それが演劇の魅力だ。

  その対立構造についてですが、小野寺さんは、ムルソーの世界とその他の人物との対立という図式で舞台を展開しています。しかし、それならば別に『異邦人』をあえて取り上げる必然性はなくて、他にもその種の作品はあるだろうし、もっとダンスの面白くなるシチュエーションに富んだものが見つけれられるはずです。

 『異邦人』が世界文学として価値を持っているユニークさというのは、ムルソーの個人的に特異な世界を描いているからではなくて、世界自体がムルソーだという点なんですよ。常識の反転なんです。われわれの生きている世界とは、一昨年の東北大震災に例を見るまでもなく、理不尽で不条理です。世界は別に人間に都合よく、人間の〈ため〉にあるわけではない。ところが人間は弱いので、理由をあれこれつけて世界を説明づけて秩序立てて安心しようとする。そしてその秩序を破るものに刑罰を与えたり、仲間外れにしようとするわけです。ムルソーはそうした人間の側ではなくて、その外の異邦、いわば自然の側に立っている。つまり理不尽な存在として生きている。その体現者なんです。

府川  東洋的な意味とは違いますが、無為自然とでも言うべきか。この原作の本意に従えば、演出は全く違ったものにならざるを得ませんね。しかしです。確かに林さんの言われることはもっともですが、そもそもわれわれ日本人にそのテーマは果たして受け入れられるかということです。なぜなら、ムルソーは、反キリストみたいな存在だからです。彼自身は救われたとしても、我々は置いてきぼりのままなんです。しかも彼はいずれキリストのように処刑される、何の復活の期待もなく。この苦さを深く感じるためには、キリスト教、とりわけカミュでいえばカトリックが身体にしみこんでいないと単なるスタイリッシュな人間造型で終わってしまうでしょうね。リーフレットの中に書かれた尾上そらさんのようなムルソー理解にとどまってしまうのです、キリスト教にとっての異邦人であるわれわれには頭でっかちで他人事の解釈で終わる。

要するに『異邦人』という作品が持つ本質は日本人から最も遠いということなんです。それを踏まえてのパフォーマンスなのかが問われてくる。だからこそ、僕はそれが舞台化され、しかもダンス・パフォーマンスだというから騙されたわけです。

  『異邦人』というタイトルでなかったら、僕は見なかった。


サブタイトルとしての異邦人

  とはいえ、原作の解釈とダンス自体の完成度は別のことで、分けて考えるべきです。女性陣の肉体の柔軟な動きは男性の私からみると誠に魅力的で、輝いていましたね。

府川  もちろんです。

  私は、以前にこの劇評でも取り上げた『南部高速道路』のように海外の原作を安易に舞台化することに賛成できません。オリジナルの優れた台本がなかなか見つからないので有名な作品に頼るのはわからないではないが、パフォーマーがどれだけ原作を読み込んでいるかが丸透けになってしまうリスクがあまりにも大きい。特に今日のように原作が世界各国で翻訳されて古典的ともいえる評価を獲得しているテキストの場合、比較される運命を免れない。

今回のダンスの水準に対応するテキストのあり方を考えるとき、『異邦人』はメインタイトルにするのではなく、サブタイトルにとどめたほうが良いと思う。例えば、すぐに良いタイトルは思いつかないが、「地中海に死す~『異邦人』より」といったスタンスですね。そのほうがよほど気兼ねなく、小野寺さんのワールドを展開できるのではないか。原作からインスピレーションを受けたというのなら、もっと原作から離れるべきでしょう。単に客寄せや話題作りで原作名を使うとしたら、慎まなければならないと思う。

府川  僕はダンスの表現技法について詳しくないし、テキストをダンスに翻案するにあたっての限界や可能性については、演出家やダンサーのほうが日々格闘しているのですから深く自覚しているでしょう。ですから、テキストの意味を理解しているとしても、あえて表現していないものも多々あるでしょう。ともかくも今回のダンス・パフォーマンスが僕に与える目の快感というものは非常にうれしいものです。

テキストの持つ深刻な不条理性などとは無縁の肉体の動きがもたらす解放感は明らかに別のベクトルで迫ってくる。カミュが『異邦人』を書き上げた二十代の青春性のようなものを彷彿とさせますね。テキストが持つ形而上的な意味や観念よりも、描き出される情景や心理の動きをダンスに見立てたところに、おそらく今回の作品の眼目があるように感じます。ですから見終わったあとに爽快感があった。観客の表情もそうだった。これは原作を読んだ後の重たい気分とは正反対のものです。ということは、林さんの言うように『異邦人』ではないタイトルを掲げるほうが自然だと思う。インスピレーションを受けたが、全く違うものだということをはっきりさせたほうがいいでしょう。もしもカミュが生きていたら、どう思うだろうか。そのとき、ダンス表現とは何かが本当に鋭く問われてくる。僕にはそこまで切り込めません。


ピストルとは何か

府川  原作からのインスピレーションに関してですが、主人公がピストルを4発撃ってアルジェリア人を殺害する場面を考えたい。原作における最大の事件であり、ムルソーにとって「すべてがここから始まった。」わけですから、ここを取り上げなかったら、もはや『異邦人』ではなくなるほど重要な場面です。

  あの殺害場面を今日はあっさり処理していましたが、テキストではじりじりと砂浜に陽の照りつける暑い午後にムルソーは身体中の血管が脈打って、ピストルの引き金を引くわけですね。引く行為自体は一瞬の出来事なんですが、そこに至るシークエンスをもっと生かせなかったのかなと思いました。

府川  原作を読んでいる立場としては、そのシーンの再現への思い入れが深くなるのは当然でしょう。ところで、カミュという作家は男っぽいですよね。

  間違いなく。

府川  神経的でサディスティックです。彼自身、戯曲家で演出家、役者でもあって、自身の戯曲の「カリギュラ」の残虐なカリギュラ役を好んで諳んじていたというエピソードが残っている。それはカミュの全作品に貫通する性向です。ピストルとは男の性衝動、リビドーのメタファーなわけです。現に男が射撃をするときは、男性ホルモンの分泌が一気に跳ね上がることが検証されています。ですから、ダンス・パフォーマンスとして、この部分は特別な工夫が必要だと思います。『異邦人』から最大のインスピレーションを受ける場面ですから。しかし、そこがあまり印象に残らなかった。というよりも他の場面と同じ強度だった。これは不満ですね。やはりあそこは照明や音響のアクセントも含めて、一つのクライマックスを作ってほしかった。

    3、500円
府川   3、600円


楽座価格=3,550円