チケット料金=前売 5,500円





 

楽座風餐 第20回  ストリッパー物語   2013年7月20日

観劇者   林 日出民   府川 雅明


 第一印象

 3時間近い長尺芝居でも退屈しなかった。テーマが明確だった。世の中は結局、チンコとマンコしかない。戯曲自体もよくできていたし、楽しく見られた。

府川 楽座風餐がらみでは翻訳ものがこのところ偶然多かったが、日本人による日本人のための日本の演劇は、当たり前だが、ディティールまで腑に落ちる。

 余計な介在物がないから無駄がない。今日の舞台背景となる60年、70年代は自分も経験しているが、過去の回顧ではなく、無条件に生き生きと入ってきた。

府川 今日は一言、傑作だ。最高の芝居と最低の芝居は、あまり語るものがない。むしろ語りすぎることに注意しなければならない。

 特別に独創的なものは何もなく、70年代のドラマに頻繁に登場するやくざがかった演歌の世界だ。にもかかわらず、強く引きこまれた。演者らがゾンビでなかったからだ。ここに今日の芝居の魅力と技量の秘密のすべてがある。


 ヒモの世界

 重を演じるリリーフランキーは当たり役だ。ヒモという存在を見事に造形した。妻子の桎梏を捨てて逃げ、ストリッパーのヒモになることは、男の潜在欲求として、あるいはあるだろう。しかし、ただのごろつきをリアルに再現するから面白いのではない。ヒモに徹することは決して努力では及ばぬことを見せつけるからこそ面白い。

ヒモになり切ろうとして挫折したまことは、我々と同じ位置にいる。世の凡人は自分を含め、男は自分で稼いで初めて一人前と考える。その逆コースを突き進む重は反面教師的英雄像すら浮かび上がらせる。

府川 男はつきつめれば自己過信によって勃起してナンボの生き物でもある。プライドなしには生きられない。プライドをかなぐり捨てて、いいかえれば男を捨てて生きることと、女がストリッパーとして生きることは、人間世界の底を支える深い連帯だろう。しかし、それは重と明美の個性が創り出した演劇上の確かな幻想だ。

リリーフランキーの演技があまりにもリアルなので、想像が広がる。作家も一種のヒモの変種だろうという想像だ。観客に豊かな想像を与える舞台は成功の条件だ。


 演出

 演出の技量、センスに感心した。暗闇と間の使い方が特段に美しい。演出者の勝利だ。60年、70年代に確かに存在していた暗闇と間が蘇ったのだ。

例えば、前半のシーン。重が現れた座長に殴られる直前、二人のヒモを相手に明美のことを語る。ストーブがついている傍らのソファーに寝転がっている。ここでの語りは、あたかも今、自分の前で斯界の話を聞かされている臨場感がある。

府川 あの半暗闇の語りのシーンは、リリーの演技力もさることながら、彼の発話の前にすでに舞台の雰囲気が40年前のお膳立てをしていた。最後尾の観客にギリギリ届く声量だったのも効いている。間を詰めればもっとコンパクトな芝居になった。それをあえて引き伸ばした。

 にもかかわらず、その間は限りなく心地よく、終わってみればあっという間だった。ここまで長い芝居を見れば、どこかに欠伸がインサートされるのが観客だ。しかし、今日はそれがなかった。

間を嫌い、間があくことを恐れる。間が苦しくて、思わず手持ちのスマホを取り出してメールをする。これが我々の状況だ。演劇もそうなっていないか。

府川 暗闇と間、かつての日本には空間と時間に遊びがあった。いいかえればみな、今よりももっと演劇的に豊かに生きることができた。間と暗闇が消滅した神経症が現実だ。人々は生産と消費のために24時間埋め尽くされている。これが果たして文明の進歩か。


 最後に

府川 舞台に花道が設けられていることを知らなかった。かぶりつきの席を予約したかった。すぐ前の席に大柄な男が座っていたので、花道での白黒ショーの演技が全く見えなかったのは非常に残念だ。

 ストリップの楽屋の出入り口にかかる暖簾のさりげない傾き。詳細なところまで演出が行き届いて隙がない。重要なことは、どんなに他の役者が見事に演じていても、一人が学芸会芝居をすれば、全体が瓦解することだ。今日の芝居はそれを一切許さなかった。それですでに元が取れたが、さらにプラスアルファーのギフトがあった。楽座価格は当然、支払った以上の値段になる。

府川 リアリティーとは現実に起こることの再現ではなく、観客の心中に深く刻まれることをいう。例えば、8人だけのストリップ一座は現実にはおそらくありえないが、そういう問いは全く意味がない。



楽座価格=6,500円

 


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