チケット料金=前売4,500円






楽座風餐  第3回  体育の時間
  2012年1月29日


〔観劇者〕 府川 雅明   林 日出民


 肉体の時間

府川  今日のお芝居を、例えば<(吉本新喜劇+少女コミック)÷2×お笑い>という風に、ツィッターの文字数で収まる言葉で高を括ってはいけません。役者それぞれが持ちネタを必ず見せるとか、同じ演技を執拗にやらせるとか、全員でこけるとか、後半にイノセントなマレピト役者が出てきて、みんなでいじり回すとか、そんな吉本の決まりごとを確認して喜んだり、批判するような観客じゃ情けない。
体育だけに専念する<時間>を区切って、そこで一所懸命に合目的に励む、励ませるという近代人の発想。かつて19世紀にマルクスが見た労働者の過酷な長時間労働を僕は最初に連想しました。つまり近代人特有のど根性です。

日本は現在、モダンからポストモダンに移りゆくときだから、<会社>とか<学校>という空間時間の中で、働け、頑張れの枠組みそれ自体、もういい加減勘弁してよと内心はみんな思っているわけですね。それを逆手にとって、まだ近代が生き生きと人々の間で信じられていた戦前に時代を設定したのは巧みだと思いますね。戦後の高度成長期に設定したら「3丁目の夕日」ともろにバッティングしてしまうし、ただのノスタルジー芝居と間違えられてしまいます。ですから今日の芝居をツィッター風にあえてくくるとすれば「近代の典型的なシーンを、笑いのテイストをまぶした上で丸ごとシュミレーションしたポストモダンなお芝居」になると思う。

  もちろん、小気味良く、修練された多彩なお笑いの仕掛けや大阪弁のしゃべくりの面白さだけで今日の作品を片づけてはいけませんね。観客から笑いを多く取ることを別に考えなければ、英語でもテーマは伝わりますよ。題名の「体育の時間」にあるように、体育、すなわち肉体と結びついた笑いを思い浮かべました。まず、いきなり冒頭からむさくるしい男がうら若い女子の体育師範学校の生徒に扮して登場しますが、これは別に手馴れたおカマ的面白さだけを作者が意図したのではない。そうではなくて、男の骨格や動きのほうが資源として、より肉体の劇が展開しやすいからでしょう。

府川  ポストモダンなんです。着るもので性別を区別する時代は、実際はもう終わっている。制度が強制するウソにみんな気づいています。

  人間の身体ってそもそも笑止なもので、どんな美人でも不良親父でも暑ければ同じようにじとじと汗をかく臭い存在です。風呂に入って化粧して、暴れ出そうとする肉体を精神でかろうじて抑え込んで匂わないようにしている。普通はとりあえず安定してすましているはずのその肉体が、この芝居では最初から構造を失って、むき出しになっている。

自分の学生時代を思い出してもね、いわゆる体育会系のやつらは筋肉を見せびらかして喜んだり、校内を素っ裸で走り回っていた。精神が抑え込もうとしているものからどこか解放されている感じがあった。クソ真面目な人間から見ると笑止千万ということになるわけですが、その汗臭さに満ちた健全さのエッセンスを今日の芝居の中で十分に堪能できました。笑いが決して卑屈なものでなかった。


ずるい大阪弁

  笑いが中心の芝居でしたから、どうしても笑いに触れざるをえません。関東人が笑いをやろうとすると、人工的なもの、かっこつけたものになります。日常の言葉がたぶんに辛気臭いものだから、いざ演劇をやろうとすると、あえて背伸びをして非日常の笑いへジャンプする。

関西の詩人の平居謙が新宿で大阪弁で朗読して観客に受けまくった。あとで彼に感想を聞いたら、「受けるのは最初からわかっていた」と答えました。関西弁はコミュニケーションに長けた言語です。相手に対して働きかけていく言葉です。だから、日常感覚の延長にお笑いが成立する。大阪で電車に乗って、オバちゃんや女子高生の会話を聞けばすぐ了解する。何気ないやりとりの中にすでに漫才の萌芽を僕なんか感じる。生活で鍛えられているから、もともと笑いの水準が高い。関東人から見れば羨ましくもあり、ずるい。小椋さんのモモおばちゃんの自然体なんて降参ですよ、関東人では絶対にできない<間>をもった演技です。

府川  蛇足ですが、関西のほうが笑いの文化がはるかに高度です。体育つながりで短距離走の例を出せば、黒人とアジア人くらいの本質的違いがあります。努力でカバーするとかいう問題とは違う。一例だけで十分だと思いますが、「アホ」と「バカ」とどちらが深い表現か。さらには「ドアホ」という活用形があるが、「ドバカ」はない。

関西では芸人が笑いに対して遠慮がないでしょ。関東から見ると、どぎつくていやらしい感じになるが、プロだから当然で、合理的です。関東の典型的な笑いというのは、北野たけしに代表されるような照れの芸なんですね。背伸びして面白いことをして、その後で素のシャイな自分をちょっと出す。外の部族と商業的交流をしない未開部族ってシャイでしょう。あの感じをスッと見せる。

いい意味では、職分階級がはっきりしていなくて、性向次第でお笑いの世界に入れるんです。もちろん実際は東大入試以上に非常に厳しい世界ですけど、少なくも「私のような一般階級でもそのまま人前に立っちゃいました。」という素人っぽさがどこかに残る。許されてしまう。で、関東平野は人口が多くて、マーケットが大きいから、関西的凝縮感もなく商売が成立する土壌がある。

今さらながらですが、明石家さんまがなぜ東京で受けるのかというと、本人は少しもシャイなタイプでないのに、シャイさを強調したからです。そこで関東人が彼を受け入れた。逆にプロに徹すると関西だけでしか受けない。笑いの本場は間違いなく大阪です。そういう違いをくっきりさせる考えはいけませんか。僕はこの際はっきりしたほうが良いと思うんです。例えば、今日の芝居では、早川さんが演じる東京のお母さんは立て板に水のごとく台詞にひとつの間違いもない見事なマシンガントークで面白かったですが、全く東京の人間に見えなかった。東京の人間が大阪の人間を演じられないのと真反対なこともわかって、ここはダブルで大爆笑でした。

  関東と関西を比較するのは、江戸時代からありました。式亭三馬の作品では江戸の下町に遊びに来た関西人がやいのやいのと江戸っ子とやりあう。互いに異文化をいじり合って笑いをとる。もっとも、それは劇の本質を語ることとは違いますが。

本題に話を戻して、僕がなぜこの劇評を続けるのかといえば、例えば、この芝居の場合、無条件に単に楽しいものを作る側が求め、見る側も無条件に楽しむというのでは満足しないからです。寂しかったり、苦しかったりするとき、身の上を忘れて笑い飛ばしてカタルシスを得る手段はいつの時代にもあります。吉本新喜劇をはじめ、すでに社会の中で定着した多くの人が享受する娯楽形式があるわけですが、2012年の今、生きているリアルな実感を味わいたいと思うんですね。欲が深いのかもしれないが、劇を見て、その中に入り込み、自分が現在生きていることの実感を得たいし、また、それを与えてくれるのが演劇の力であり、魅力だと思う。

府川  僕自身の反省なんですが、お笑いを主とする芝居を見るとき、笑いが与える気持ち良さに没頭してしまって、逆に芝居に深く入れないということがいつも起こります。批評を封殺する面白さという言い方は、要するに観客が怠惰であることを認めることと同じです。


なぜ 今 体育の時間が必要なのか

  改めて言いますが、これは「体育の時間」ですから、今われわれは肉体をどう考えて、何に使っているのかを考えることとつながります。パソコンや携帯に依存した生活には肉体の実感が乏しい。生活の中から身体を主体的、積極的に動かす場面が減って、貧しいものになっているのが現状ではないですか。

府川  なるほど、そうか。作者のわかぎさんは、われわれと全く同じ年代です。個人差があるので安易な世代論は避けなければいけませんが、もしかしたら作者の肉体に対する危機感が、この芝居を作る上でのモチベーションになっているのかもしれない。それは作者自身が生物の必然としての老化に対して持つ反動意識だけではありません。広く日本の社会を見渡せば、一線で汗水流して働き、好むと好まざるとにかかわらず経済成長に貢献してきた上の世代は引退を始め、一方、下の若い世代は、それこそエネルギッシュに筋肉を活動させたいのに、不景気で仕事がない。勢い、その狭間にいる中年世代にプレッシャーがかかってくる。今、何かしなければならないという無意識の切迫観念が見え隠れする。これは思い過ごしだろうか。実際、役者たちは、動く必要のない体育外のシチュエーションにおいても過剰に体を動かしていた。この演出の底意は何だったのか、気になる。

  身体を動かすことは悲しみを氷解させます。昨年の大震災以来、さまざまな苦しみ、悲しみが日本人の中に蓄積している。仕事を失えば金もなくなり、家の中に閉じこもるしかない。身体を動かさなければ言葉も出てこない。部屋の中で電子機器を相手に交わす言葉はどこか虚しい。閉塞状況が確かにあるでしょう。だから、大いに肉体を動かし、声を張り上げるのはいいことだ。いいことだと思うのは、自分の学生時代の経験の共有を舞台空間が与えてくれたから。

学校で数学やら古文といった陰気くさい授業の合間に訪れる体育の時間は、僕には爽快でした。数学や古文の授業を日々の労働の時間に置き換えたなら、その隙間が、今日の「体育の時間」でした。だから、お客さんたちが観劇後、すっきりして席を立った感覚が僕には納得できる。 

府川  体育の時間は、学生時代を終えた今でも変わらず必要だというメッセージだね。

  じゃあ、それなら吉本新喜劇だって同じことじゃないのか。どこが違うのかということになる。この芝居にプラスアルファーの何があったか。これが問われてくる。しかし、ここから先は一度見ただけでは何も言えない。わかぎさん、また劇団の世界についてさらに知らなければならない。

府川  後半に組み込まれた師範学校経営の存続をめぐるシーンでの、例外的に動きが少ない静かな金勘定の会話のやりとり。あれは肉体労働、体育の時間と対比されるべき〈頭の時間〉です。さらに言いかえるなら、世界の槍玉にあがっている非実物経済、金融工学、不労所得の時間でもあるといえる。


体育の時間のゆくえ

府川  演劇は集団表現だから、いわば社会の縮図の再現ですから、それを目の当たりに見るという体験から得るサムシングは貴重なものです。小説を部屋で一人で読むことでは決して得られない臨場感がある。

僕が<今>を感じたのは、いよいよ後半も押し迫ったころに舞台に流れた君が代です。何とも言われぬ、身の引き締まるようなきなくささを感じた。80年代に同じものを見たら、パロディーとしか取らなかったかもしれない。僕は君が代自体が嫌いではありません。それが流れたときに急変した場内の雰囲気がこわかったんですよ。個人のけなげな奮起が国家の栄誉に気持ちよく収まるシーンが、現在の状況において妙に強い感染力を持つなと直感しました。

戦前と今は違う時代であって、「近代」を支える土台はすでに失われているのにもかかわらず、不意に新鮮にせりあがって来る感情が運んでいく未来を一瞬感じて不安になった。それまでのお笑いの世界が吹き飛んだ。

  今は、どんづまりの時代状況で国民全体がものを考える気力を失っている。体育のこわさは個人がものを考えずに突き進めるところにあるね。肉体がみんな一斉に動き出すときの一糸乱れぬ統一感の独特の魅力がある。笑止なはずの肉体が崇高さを醸し出す。幻想の産物です。

府川  笑止を笑っているうちはいいんです。しかし、じゃあ自分もみんなと一緒に遅れずAKB48と身体を動かそうということで、それが集団の強い快感をもたらす習慣に発展していくとしたら、体育の時間は別物になる。

  まさか作り手が意図して観客を誘導したとは思えませんが、一体どういう無意識が働いたのか。われわれの未来を予兆するものなのか。


 価格  府川 4,000円   林 3,800円


楽座価格=3,900円