チケット料金=前売3,500円






楽座風餐 第2回 トラベラー
  2011年11月13日


〔観劇者〕 林 日出民  府川 雅明


 プロローグ
         
府川  大田省吾が日本の現代演劇にとっていかに大きな存在であろうと、また本作がある意味で大田省吾に献じるものだとしても、さらに大田省吾の演劇論がいかに全うであろうと、いや全うであるがゆえに、冒頭、スクリーン上に彼の肉筆らしきテキストを映し出すという演出は最悪だと思います。芝居を見る前に内容をすべて種明かしするような、あるいは自由に観る権利を与えられている観客に見る方向づけを啓蒙するような無神経さに、私は席を立って帰ろうかとさえ思いました。もしも権威づけのための演出だとしたら、中身の乏しさを言い訳しているのではないかという不安を与えてしまう。 

  いわゆる大田省吾ファンのため、長らく続いてきた劇団の最終公演という感傷からでしょう。中身を見ればわかることなのにということですね。さて、そのスクリーンが消えた後、出演者全員が唯一の道具立てであるブロックらしきものを動かしながら割り当てられた台詞が始まります。藤田さん、小林さんの後に数人の若い役者たちが続きますが、その若者たちの台詞が聞くに堪えなかった。いきなりトーンダウンしてしまった。台詞が下手ですね。一所懸命練習したと思いますが、「これからこんな下手な役者が出てきますよ。」とばらしているようなもの。単に暗記した台詞をしゃべるだけというのは、奇しくも井上さんがリーフレットに書いていらっしゃるように最も避けなければいけないことでした。ですからそれが実際に見抜けていないとすれば由々しき問題です。

府川  この舞台は大田省吾に対するオマージュなのだから、まず演者全員に語らせようというのなら、結婚式のスピーチと同じことになる。

  芝居が結婚式と違うのは、身銭を切った観客が存在するという一点ですね。3500円という金額をどう受け止めるのか。あそこは藤田さん一人で良かったのです。                             
府川  弱点はなるべく見せないようにするのが芝居の鉄則だと思う。特に最初のシーンは細心の注意が必要でしょう。第一印象で芝居の水準をおのずと判断するのが見る側の生理ですから。ですから、うまい人だけに演じさせるというのは正攻法ではないか。それから若手の台詞の下手さについてですが、寺山修司が役者に本を読むことを命じていたことを思い出します。ふだんから本を読む習慣がないと、例えば大田省吾のような思想性に富んだテキストは、表現、解釈以前に抽象語に対する自然な発声、対応ができない。ですから単にアーティキュレーションという技術の問題ではないです。

  もっとも、舞台の進行に連れて、後で若手同士でひとつのシチュエーションを任せられたシーンでは違和感なく観ることができました。このことはまた後で話したいと思います。 

府川  演じる側、制作する側というのは、どうしても型を決めて安心しようとか、役者の出番の帳尻合わせをしようとか、あるいは特別の思い入れというものがあります。しかし、見る側の生理として、本芝居に限らず、年中余計ではないかと感じる部分が出てくる。それを率直に伝えることが大事だし、見る側の責任でもあると僕は考えます。そうしないと観客不在の演劇になってしまう。


 柔らかな肉

  このあとどうなるものかと不安に思ったのですが、その後、オムニバス形式の個々のセクションが進んでいくにつれ、若手同士で一幕を受け持つところでも違和感なく見れるようになりました。というのは、各セクションの終わりにはそれぞれ納得のあるしめ方をしていたし、見る側に十分に共鳴感を与える脚本、演出だったからです。

府川  プロローグが最悪という気分で本編に入りましたが、若者二人が出てくる「柔らかな肉」あたりから演技が生々としてきて、役者にギリギリのところまで演じさせようとおとしまえをつけ始めたあたりから俄然面白くなりました。それまではあまりにも観念的すぎて、テキストを事務処理している感じで退屈でした。「柔らかな肉」から以降は最後まで裏切られることはなかった。 

 「柔らかな肉」について具体的に言いますと、どこかしら不意に面白くなるのが演劇の大事なところで、内田さんが瀧腰さんに感化されて”ニーチェ、510円”などとわけわからず高揚してきて叫ぶというのは無条件に楽しかった。 

府川 二人が同じ台詞を執拗に繰り返すくだりをテキストだけ読んだら単調すぎてどこが面白いのかまったくわからない。これが演劇の秘密ですね。 

  ただ、あれにも演出の技術が隠れていて、内田さんが、あまりに早急に瀧腰さんに呼応してノリノリになってしまうとしらけるし、反対にあまりに鈍重に反応すれば見ている側はじれったい。そのあたり、二人の間のやりとりがピタッとはまっていた、演出が丁寧でしっかりしていた。その中で内田さんも瀧腰さんの力が引き出された。若手に力を発揮させる演出をしていました。 


 夢の鮭

  同様のことが、やはり若手が受け持つ「夢の鮭」でも言えますね。人間が鮭になるという唐突な設定から始めるのですが、ここでの台詞は決してうまくない。しかし、熱っぽく語りかけるうちに説得力が出てくる。これは一所懸命やっていれば観客に伝わるという精神論で言っているのではないです。精子をかけたい鮭のオスの欲望、それを受け入れるメスの欲望、そして最後には狂気のように三人で、あるいは三匹が動き回るあの感じ。あれが人間においても欲動としてあるからです。人間の根っこに触れてくるからこそ共感を呼び出すんです、若者の演技が生きてくる。太田さんの脚本、井上さんの演出に深みがある。これがもしも、うわついた脚本と演出で同じ設定のものを表現したら、全く見るに耐えないものになる危険性を孕んでいる。

府川  この芝居はキャリアのある役者が、言葉で舞台をリードする内容だと思いました。この手の演劇の場合、若手は往々にして脇に追いやられてしまう。ところが、トラベラーでは若手の絶対的な経験不足を補うために、水の中で体をばたつかせたり、路上のベンチに乗って大声を張り上げたりとアドリブぎりぎりの全身を使った必死の、それこそ若さを生かした演技を課すことによって、ベテランの技量と拮抗して緊張感を生みました。優れた演出でした。他のシーンでもそうなんですが、設定されたシチュエーションとアドリブが役者の身体表現によってかろうじてバランスを保つというスリリングさに溢れていました。 

  そうですね。枠を決めながらも、その場でその場でイレギュラーな事態が起きても大丈夫なようにできている。そこが面白かった。願わくば、2、3回見られたら、そのたびごとに演技者同士の呼吸で微妙に違うものに出会えたでしょう。

府川  この芝居はシーンごとに二人、ないし三人でのかけあいが多いわけですが、稽古や本番を通じて、表現が深まり、熟していけるように工夫されている。その意味で何度も見る価値のある芝居かもしれない。


 重い男/再会

林  中年男が見知らぬ若い娘を路上で襲おうとする。あの狂気の感覚。40代、50代の男には誰にも実感としてあるのではないか。いみじくも七海さんの台詞にあったように「猟奇的殺人をしてしまう。」かもしれない自分が野獣と化す一歩手前で、その体を丸ごと外に出して軽くして何とか平常を保とうとする。そんな中年の心理を演劇的に再現していた。人間の深い業のようなものを表現していた。 

府川  業という言葉は意を得ています。僕も男なので、個人的に「重い男」は強い実感がありましたね。「重い男」が中年男性のヴァージョンだとしたら、裸足になって芝生を踏む「再会」は、幼いころにあった自分の感覚を取り戻して、しばしそれに浸るという中年女性の生理を象徴させていたのではないか。


 愛の完成

林  老夫婦二組がしつこく抱き合うシーンに深いものを感じました。大人の芝居です。絶対に今の20代、30代では作れないだろうと思わせる。二人が若いころを久しぶりに思い出すとなると、メルヘン仕立てのノスタルジーの再現劇に陥りがちですが、歳を取ると、そんなに簡単には昔は蘇らないですよ。「あなた以外の人でもよかった。」と言わせるところがいい。お互い、あなたが一番ではないけど、ここまでの生涯をともにしてきた。いずれ死ぬんだからということで、何かの結びつきを感じあっている。若いころは、目の前にいる異性が世界で一番という思いでしょう。年配はそれまでいろいろの経験があって、いろいろの選択の可能性があったわけです。

府川  私の周辺の年配の観客も実感をともなった反応をしていました。内実のある台詞で観客に深く説得させる芝居を見せるためには、やはりキャリアが必要だと改めて思いました。 

  歳を取るということは、一般には肉体の衰えや性の衰えでとらえられがちですが、今日の芝居はそれを否定して、60代、70代でも若者同様に性欲はあるし、反対に若者だって老人と同じく死の衝動に支配されているということを描いた。死の衝動をより強く感じるからこそ、若者は活動的になるわけですからね。生と死を軸にした人間の一生を見ることができた。 

府川  人間は一生、欲望に突き動かされた存在だという芝居の一貫したテーマは揺るがなかった。その欲望の旅が表題のトラベラーの意味だろうと僕は受け取っています。人間と鮭と一体、どこが違うのか。言葉を持っていることだけの違いだろうということを実感できた。


 誕生

  トラベラーで最も重要なのは、中盤の「誕生」における不倫カップルのベッドシーンでしょうね。脚本、演出の側からするとおそらく難所でしょう。なぜなら、最も個人的で、密室で行われるべき行為の再現ですから。これがポルノなら簡単でしょう。単に濡れ場を演じることの難しさを言っているのはありません。人間の一生を旅ととらえたときに、子供が生まれるというのは若い世代に属するイベントでしょう。しかし、ここでは決して若くはない中年の不倫カップルにその役割を与えている。若者と老人の橋渡しの世代です。藤田さんと小林さんは厳しい役回りを与えられた。役者として一番やばいところに立っていた。 

府川  人間の生の誕生というのは、生物としてのアクシデントのようなものだ。そんなメッセージを僕はベッドシーンから受け取りました。カップルが睦みあっているときの「生まれた。生まれてしまった。生まれることができた。」という唐突ともいえる藤田さんの哲学的台詞が、俗なるベッドシーンを形而上的に押し上げた。

  いっぱい言いすぎたら言葉は残らない。作り手の自己充足に終わってしまいやすい。僕が唯一強く残っている言葉は、リフレインされたここでの「生まれた。生まれてしまった。生まれることができた。」です。言葉よりもむしろ演劇は見せるものであって、客席で聞く側からすると、たくさんの台詞は、まさに太田さんが言われるように「演劇は消える」のであって、残らない。ところで、「誕生」に話を戻しますが、あのシーンで一番エロティックだったのは、ベッドシーンが終わって二人が消えた後の床の乱れだったんですね。

府川  林さんが、演技自体ではなく、その後の床の乱れが一番生々しかったと感じた意味をもう少しつっこんで考えたいですね、なぜならここは劇の山場のシーンですから。芝居全体にも言えることなのですが、笑いが少なすぎましたね。言い換えるとインテリジェンスがない。失態や誇張での笑いはあったけど、それらは綾小路きみまろ的な笑いの質にとどまっているんですよ。例えば「誕生」のシーンでは、人間が生まれてくることの諧謔というかおかしみのようなユーモアがほしかった。「生まれた、生まれてしまった。そして人は死ぬ。」それは間違いないことです。しかし、それを表明するときに生の暗さや無常観がまとわりついてくる。現在のわれわれの文化の限界と言うのかな。突き放したような、大きく包み込むような愛とか知性がないんです。林さんが床の乱れに目がいってしまったのは、芝居の中に欠けていたものを補おうとした反応だったと僕は思いました。

  ユーモアがないと生々しくなりすぎちゃうんですね、服を脱いで生身の体をからませるだけというのは。くそまじめになってしまうのかなあ、われわれは。確かにそうした笑いが場を解放させて、次の状況を切り開いていく。これは芝居だけの話ではないわけです。しかし、そう思うと藤田さんと小林さんのシーンは勿体なかったなあ、二人の演技の実力から言って、もっとふくらますことができた。いずれにしても中年の不倫という設定は、今日のように人生の流れを描くときにはとりわけ難しい。二人は健闘していたと思うが、ここはもっと深めることができたという思いが残ります。


 全体をふりかえって

  全体を通じて確かな共鳴感がありました。同じ空間、時間を共有できることが演劇の最大の醍醐味ですから、直接観客のハートに訴えかけてくるものに勝るものはない。狂ったように暴れ出す若者、性を求める老人、裸足で芝生を踏む女性の原始的感覚、いずれも非常にリアリティーが感じられて良かった。私はこれはひとつの本物の芝居だったと思います。このリアリティーは、どんな時代にも人間である以上変えようのないものに触れていた。私は前回見たものと比較することを遠慮しません。「家電のようにわかり合えない」では、そういう共感を得られなかった。家にある電気製品に素材を求めてもダメなんです。

府川  まずわれわれの中に変わらずあるものから逃げずに、それをしっかり捕まえることを出発点として、現実には不可能な夢や、忘れていた思い、潜在的な欲望を掘り起こして演劇空間の中で具現されたとき、見る側は心を動かさざるをえない。

  そうですね。例外なしにわれわれの中にあるものを舞台上で効果ある形式を創造して役者という生身の身体を使って見せる。これが芝居の本質でしょう。演劇である以上、役者という肉体を通すことは決して避けられない。今日はそれを味わえました。

府川  そういう一番の根本がとらまえられていたから、細かく見れば穴ぼこをあれこれ指摘できるとしても、前提としての安心感のようなものを見るものに与えていた。

  そういうことなんですね。だから若手の台詞回しが頼りなくても、結局は聞くに値するものになってくる。逆にいうと、根っこなしに過激なことをやればやるほど身苦しくなる。今日は明らかに文体がありました。太田さんのテキストはオムニバスという形でエピソードごとに切れ切れになっているにもかかわらず、一貫して流れるものが伝わってきた。これは非常に強固な文体でした。


楽座価格=3,500円