チケット料金=前売 5,000円





 

楽座風餐 第7回  月にぬれた手  2012年5月20日

観劇者   林 日出民   府川 雅明


  見終わって何とも手ごたえのない感じがする理由を考えてみるに、今回の芝居は〈組み合わせ〉であって、〈創作〉ではないからという結論にたどりつきます。高村光太郎の生き方、彼の洋行時の体験、戦争賛美と反戦、智恵子とのかかわり、花巻での暮らし等々、史実を借りてきて貼り合わせ、同じ俳優に何役も与えてあてはめ、ところどころサービス的場面をくっつけて、一つのお芝居らしきものにまとめたものではありますが、作品を創造したとはとても思えない。

もしも創作であるならば、実存の味が出てくるはずです。高村光太郎やその周囲の人々を演じるうちに何ものかが立ち現れて動き出し、見る者が引き込まれて、観劇体験として身の内に入り、うまくすれば感動につながるという、そういうサムシングが、はっきりいって全くなかった。

府川  光太郎は幸いにして比較的長命な芸術家でしたから、約2時間の中で半生をまとめあげようとすれば無理が生じるのは当然予想されます。しかるに結果は、少年少女向け漫画偉人伝といった体裁に陥りました。萩原碌山のような夭折した彫刻家ならば、例えば、ロダンと真正面から格闘して倒れた一日本人の魂の記録として、すっきり収まるかもしれない。光太郎のような、当時の社会とも深く寝た、起伏にとんだ人生を演劇で描くには、例えば、芸術をめぐる智恵子との心理的葛藤だけを独自に切り込んだテーマなどに搾ることで、ずっと実のある内容になると僕は思いましたね。

  光太郎に関する生前のエピソードを紹介してもらっただけで終わった。その中には僕が良く知っている内容があったし、知らない情報もいくつかあったという限りでしか残念ながらない。なぜこのような事態になるのか。

簡潔にいえば、高村光太郎の芝居ではなく、渡辺えりの芝居だからです。マスメディアで名の通ったパーソナリティーの表現を見たい観客のための芝居であって、芝居の随所にその計算、配慮が十分すぎるほどなされている。現に渡辺さんは舞台上で役を演じていない。しゃらくさい役柄など必要ないんです。素の姿をそのまま出せばいいのですから。つまり今回は渡辺えりを見に行ったということに尽きます。あとは何も残っていない。

府川  梅沢武生劇団に代表されるような大衆演劇ならば全く問題ないです。テーマが高村光太郎であろうが、オーギュスト・ロダンであろうが、要するに梅沢冨美男の立ち居振る舞いや艶笑などが映えることこそが醍醐味なのだから。しかし、いみじくも会場の外に貼られた高村光太郎の数々の写真を見れば、どうしたって〈高村光太郎の人生〉を描くドラマと考えるほかはない。ところが肝心な最も存在感を発揮すべき光太郎役の男優が、渡辺えりの途中登場によって、すっかり萎縮するとは一体、どういうことなのか。珍しい笑劇の一形態ではないかとすら思いますね。

  高村光太郎をダシにしている傲慢さを見せつけられると、期待していた分、裏切られたという思いが強い。ちょっとした学芸会芝居を見た感じだ。知り合いが舞台に出てきて喝采を送るのに似た雰囲気は、若手の劇団ならいざ知らず鼻白む。『はい、あなたは、このシチュエーションではこの衣装で、こんな感じでお願いね』と言われて、役者が楽に演じているように見えたのは残念です。

府川  僕は演劇とテレビは根本的に違うものだと考えます。むしろ対立するものだとさえ思う。ところが、今日の芝居は明らかに「テレビを見る」ような構造になっていた。15分1エピソードでコマーシャルが入るような、状況を沸き立たせて、脈略もなく閉じる手際良さは、視聴者を決して飽きさせないマーケティングが行き届いているし、きわどいことは決して深入りしない用心深さもテレビそのものでしたね。

例えば、アジア人と欧米人の人種差別の問題とか、都市と田舎の格差とか、戦争と芸術家の蜜月といった、おりおりのシリアスなイッシューが掘り下げられるのかと思いきや、司会者のような仕切り役の人間がしゃしゃり出てきて、茶化してしまい、予定調和させる手法が非常に気になった。

また、東北人が福島の人間も盛岡の人間も一緒くたにされている。東北という広い地域にそれぞれ存在する差異を最初から捨て去って、東京の観客が一般的に受け入れている〈東北人像〉のステロタイプに従って、人物像を作っている。僕なんかよりも渡辺さんのほうが、よほどこの点に敏感なはずだと思うのですが……。茶の間のうわべの理解で通念が消費されているテレビの無節操さに対立すべきであるはずの演劇が、やすやすとテレビの軍門に下ってしまっているのは腹立たしい。

ここまで、渡辺えりに対して厳しいことを言ってきたかもしれない。しかし、僕が一番憤っているのは、渡辺さんのような才能のある演劇人に、このような芝居を作らせて何も言わない観客に対してです。批評が絶対的に不在だ。これでは表現者の力がどうにも発揮できない。不幸なことです。


楽座価格=2,000円