チケット料金=前売4,000円





 

楽座風餐 第11回  ハイ ゑびすホテルです 2012年9月30日

観劇者   府川 雅明   林 日出民


見終わった直後の感想をひとこと

府川  今回で第82回を迎える劇団鳥獣戯画の公演ですが、私は初めて見ます。観客に常連が多いことを予想し、下手をすると本も役者も内輪受けで、拒絶感を味わうのではないかと危惧していましたが、全くの杞憂でした。途中一度、観客がペンライトをふることがありました。何かお決まりの約束事でもあるのでしょうか、あまりに自然なので全く違和感がありませんでした。

  見終わったばかりの印象をいうと、非常に心地良い余韻がありまして、それが何であったのかをこれから考えていきたいと思います。


今回の芝居におけるリアリティー

  私は観劇のスタイルとして、内容のリアリティーの有無を一番大切にしています。舞台上のリアリティーとはまさに現実感のことですが、これはかえって日常的ではない、不条理なことが起こったときに生まれると考えています。つまり何でも整いすぎたら逆に嘘っぽい、不条理こそがリアリティーの故郷でしょう。そして笑いもまたその不条理から出てくる。悲劇と喜劇は鏡の裏表で、言い換えればサッカーのオウンゴールのようなものです。一所懸命に守ろうとして、逆に自殺点を相手に与えてしまうのは、悲劇でもあり、喜劇でもあります。あるいは、かつての日航機事故における逆噴射もそうでしょう。パイロットが必死に操縦を元に戻そうとした結果、予想もしない事態に陥った。この後に『逆噴射家族』などという名の映画まで生まれた。

これらは、当事者が真剣であるゆえに、思いを移入すれば悲劇であり、突き放して見れば喜劇でもある。いずれにせよ、そこにはリアリティーという土台がある。

今回のお芝居を喜劇と仮定するならば、いわゆるテレビのピン芸人のお笑いのためのお笑いではなく、リアリティーの土台を持った喜劇だったと思います。なぜなら、舞台となる新発田という場所は豪雪地帯で、そこで旅館を続けることの困難さを思って画策する息子と、それでも旅館を続けようとする母親との間に生まれる葛藤や誤解という悲劇的土台がしっかりと前提に立てられた上で、作り手が場面に応じて微妙にギアーを変えつつ、笑いを乗っけているからです。そうした構造の中で、演劇を見せてもらったという思いが強い。だから最初から最後まで安心して見ることができた。先ほど私が言った心地良い余韻は、一つにはここにポイントがありますね。

ディテールに触れましょう。地域の祭のシーンで、町長がチャップリンよろしく登場して手際よく自慢の手品を披露しますね。ときどきわざと失敗したりして、周囲から失笑を買ったりします。ふだんは仕事に真面目な人間だが、根は誰よりも目立ちたがり屋で、ハレの場で隠し芸を見せる感じが非常によく出ていた。「あー、こういう人っているよな。」と思わせる説得力がある。きちんと人物を観察していないと造形できないこうした演技が随所で見られました。

府川  リアリティーということにこだわったとき、林さんのいう人物描写とは別の角度を考えるとき、僕は、舞台となっている新潟の新発田という豪雪地帯の寒さや雪がそこで暮らす人々に与える重さ、生活の不便さなどの背景が出ていたようには思えなかった。各地の自然条件からフィードバックされる皮膚感覚から出てくる雪国の人々独特のものの見方とか、あるいはさりげない所作や会話の中ににじむ地域性が表現されていただろうか。真冬の東北、北陸のホテルに泊まった経験からいうと、雪の中に閉じ込められるという意識が強かったので今日のお芝居の舞台の風景には違和感を覚えた。               
ミュージカルだから、そのあたりのリアリズムは取捨してもいいのだろうか。むしろ、歌や踊りの中にこそ、かじかむ手を擦りあう仕草とか、雪下ろしで痛めた腰をストレッチする動作など取り込むことができるのではないだろうか。そのあたりが記号的に処理されている気がした。地元でない外部の人間が、地域のネガティブな側面を再現するのはさし控えるという配慮をすると、NHKののど自慢のようにご当地の良い面だけを強調した、どこか嘘くさい、腰が引けたような建前の弱さが露呈する。今回、地元の戦国武将が登場して窮地を救うというプロットだが、敵対する武将の子孫も乗り込んできて対決するようなドラマ展開にすれば、もっと自由闊達な“悪口の言い合い”などをして、地元の本音も掘り起こせて、よりご当地の姿がリアルに出てきたのではないかと思った。

  府川さんの指摘する、風土の持つリアリティーですが、例えば、雪で閉じ込められる感覚と台風で閉じ込められる感覚はどう違うのか。僕が以前、石垣島に1週間ばかり滞在した時は、台風のために1日しか外に出られなかった。
そんな猛烈な雨風の中でサトウキビはいっぺんに総倒れするのですが、時期が立つとしだいに自力で再び起き上がってくる。生命力のたくましさを感じるわけです。雪国はどうか。雪の中に埋もれた植物は、春の雪解けを待ってじっと耐えるのでしょう。そしてやがて花を咲かせる。これも生命力のたくましさですが、現れ方がおのずと違うでしょうね。


ミュージカルという形式はどういう意味を持つのか

府川 ミュージカルという形式は、リアリティーの再現と矛盾するところがある。このことについて、今回のお芝居を通じて考えてみたい。

  僕は基本的にミュージカルは嫌いです。歌っている間に、仲違いしていたはずのカップルがよりを戻して、歌い終わると互いに抱きしめ合ったりするのは不自然で、どうもいけない。しかし、僕のいう不条理とは違います。先ほどの繰り返しになりますが、不条理の土台がしっかりしていれば、不自然さは大きな問題ではない。手法、趣味の問題になる。吉本新喜劇のようにお笑いを効果的にするためのプロットを持つ笑劇であれば、突き抜けたピン芸人を揃えて、いわば道化を並べて、順番に観客を笑わせていく。しかし、今日の演劇は不条理が前提ですから、その脚色として音楽や踊りを見せている。

府川  その前提をよしとして、部分部分において、うがった見方をすれば、ミュージカル仕立てというのはごまかしが利くところがある。普通のお芝居ならば、もっとシリアスに向かい合うべき深刻な意見の対立点をその場しのぎに解消してしまったり、あるいは展開の唐突な移行を果たすために強引にダンスを挿入したりすることができる。一方では、個々の演技が散漫に流れていくのを防いで統一感を持たせたり、役者の間にある演技のデコボコを修正するのに役立つ。もっとも、これらのことは、82回を迎える劇団に対しては今さら釈迦に説法でしょう。

37年間の劇団活動の中で、当然試行錯誤がさまざまあったことは容易に想像できるわけです。時代状況や劇団の持つハード、ソフトの資源、取り上げる台本や演出の個性、資金等々、総合的な判断の中で、ご当地ミュージカルという現在の形式に帰着しているのでしょう。

  ミュージカルなどという言葉を使うと、勢い西洋の演劇、映画のイメージをいやおうなく連想してしまいがちですが、舞台上で集団が歌い、踊るという原点に立ち戻って考えるときに思い出すことがあります。

沖縄の友人との酒宴に混じったりすると、興が乗れば、手を頭の上にかざしてくるくると回って自然に踊り出します。そのときのフワッと心も身も軽くなるような解放感と今日の芝居の余韻には似たものを感じる。

反対に最悪の思い出をついでに話しますと、学生のとき、北海道のユースホステルで、宿泊客が夕食時に全員呼び集められて、無理やりギター青春ソング大合唱会を強要されたことがある。歌わないと睨みつけてくる。そんなことは予想もしていなかったことなので、その夜窓から夜逃げしました。僕はその手の全体主義が大嫌いですから。

府川  今、いみじくも林さんが言われたことは今日の劇評の核心をついていると直感しました。カーテンコールで役者全員が踊りましたね。たぶん、いつものことなのだと思います。はっきりいって歳を取ったベテランの役者さんは体がついていっていない。若者向けのかなり激しい踊りでしたから。本来ならば、『下手な踊りを見せやがって。金返せ!』となる。でも、僕はそう感じなかった。老若男女が一緒に踊るというその風景に癒されたからです。


結い回るミュージカル

  沖縄では『結い回る』という言葉があります。結いとは結びつきのことで、回るとは隣近所の助け合いの習慣のことです。賃金をともなわない互助が今も生きている。お年寄りになっても何かしら近所との社会的なかかわり合いを持っている。要するに仲間外れにしないということです。

府川  孤独死なんてありえない。

  そうです。宴席でも仲間外れを作ったりしない。

府川  それを聞くとますます今回のミュージカルの理解が深まる気がしてくる。芝居の半ばで、豪雪スキーヤー役のユニコさんが登場して、普段着で踊りながら、途中からスキーウエアーに着替えて靴を履きかえてスキー板をはめて風を切って滑降するシーンがありますね。そのとき、まわりの役者さんが靴を履きやすいように近づいて手伝ったり、滑降のときの前傾姿勢をさりげなく支えたりしますね。この場面を見たとき、僕は関西のお芝居とははっきり違うなと思いました。勿論、関東でも新潟のテイストの芝居でもないと最初から思っていましたが。まわりの人間が、懸命に何かをやっている人間を自然にサポートするその間や空気感に心動かされるものがありました。

  確かに、黒子が出てきて済ますようなシチュエーションに、まわりの役者陣がすかさず対処するのはほほえましく感じられる。この劇団の中におそらく深くしみこんでいる独自の芸風なんでしょう。

府川  普通に考えればリアルではない。不自然です。でも、自然に受け止められる。そしてそれを自然だと受けとめている自分を喜ぶ観客の自分がそこにいた。これは嬉しい驚きです。

  その自然さとは、要するに文化の洗練ですよ。セリフから歌へ、歌からセリフへ、宴会の席で、自然に手が頭の上にのって立ち上るように、いかに自然に移行できるか。そこに演出の繊細な気配りが隠されている。その集積が観劇後の余韻へとつながっているんですね。私の心地良い余韻の正体はここにあったのか。

府川  そのことを考えるとね、僕は前言を翻すことになってきます。さっきは、ご当地性のリアリティーが不足しているのではないかと言ったが、それがこの芝居の眼目ではないということです。我々が失いつつある柔らかな共同体のコミュニケーションの回復のようなものを、全国行脚して掘り出していくのが劇団の眼目なのではないか。

一つ思い出したことがある。今日の芝居の会話の中には、ずいぶん洒落やら言葉遊びが登場した。『当たり前だのクラッカー』なんていう懐かしいものもあったけど、これは単にミュージカル上の約束事だなどと高を括っちゃいけないね。

児童心理学者が言っていたことだけど、昔は子供同士が喧嘩して相手の悪口を言うとき、『おまえのかあさん、デべそ』とか『デブ、デブ、百貫デ―ブ』なんて罵りあった。今はそういう“言葉遊び”がなくなってしまって、腹を立てるといきなり『殺すぞ!』になってしまうのだと。一見すると、言葉遊びのようなものは、くだらないものとか“気持ちの入っていないもの”だとか解釈されるが、実は反対で、言葉遊びがあるからこそ、翌日、喧嘩していた子供同士が笑顔で仲直りできる。子供のときにそういうコミュニケーションが育てられない大人が殺伐とした社会を作るのだと。

話がすっかり飛んでしまったけど、演劇っていうのは疑似体験の場でね、もしかしたら今、恐ろしく社会的に意義のあるものなんじゃないかなんて思ったりしますよ。

  日本は一つじゃないという喜びですね。北の芝居には、また北の朴訥とした良心の表われ出る舞台がある。領土問題とかを契機にして妙にナショナリズムの気運が高まっている中で、今日のような芝居は本当に心とろかせてくれるものです。


最後に

  役者について言っておきたいのは、ユニコさんの存在感です。振付を担当しているだけあって、とにかく体がよく動くし、声が大きい。突き抜けた笑い声が印象的です。非常にいいですね。全員で歌うときもこの人の歌声だけは埋もれずにはっきり聞き取れる。この人が踊りの中心にいることで全体が引き締まった。

府川  女将役の石丸さんの演技の安定感が群を抜いていた。もしも石丸さんがいなければ、ゑびすホテルは最初から倒壊していたでしょう。舞台のリアリティーを支えるのは、一貫してぶれない役者の演技です。

今回の楽座価格は5,200円です。

  僕は4,800円です。


楽座価格=5,000円