チケット料金=前売4,200円





 

楽座風餐 第5回 黄色い月  2012年3月18日

観劇者  府川雅明  林日出民


革新的なナレーション

  役者が演技をしつつ、同時にナレーションも引き受けるという手法が、今回の芝居の最大の特徴です。全体を通して小気味よい爽快感がありましたね。つまり、本来であれば状況説明のために演者を増やしたり、余計な時間を費やすところを、少ない演者がナレーションで済ませてしまう。その分、テーマの焦点がぶれすに、核心部分だけに観客を釘付けにさせることができる。

府川  75分の上演時間は通常の現代劇と比較して短いと思いますが、ここに20ものエピソードを組み込めるのは、まさにこのナレーション技法の賜物でしょう。冒頭でいきなり、主人公のリーが17歳で母親と暮らし、5歳のときから牡鹿の帽子をかぶりっ放しの地元じゃ有名な不良少年とナレーションで規定される。観客はその情報の洪水を浴びて、一気に芝居の中に入っていかざるをえない。

  さらにいえば、これは既成の演劇を挑発してもいる。ナレーションで済んでしまうような冗長な演技や無駄な場面設定の芝居が世に溢れているのではないかという疑問を提起している。逆にいえば、ナレーションによって淘汰されない役者だけが舞台に立つことができるという気さえしてきます。 

ある種の優雅な芝居の好事家からすれば、この方法論は邪道と片付けられるかもしれない。遊びが全くないではないかと。ただ、本芝居のナレーションはいわゆる棒読みのナレーションではないわけです。マシンガンのようにたたみかけるナレーター役の演技者が舞台上を駆け回っている。BGM的に演劇の外側に存在するのではなくて、身体が躍動する演劇の要素の中に有機的に組み込まれているわけです。それによって贅肉がそぎ落とされた清清しさが醸成されている。

府川  役者にナレーター役を与えて部分的に劇の展開を語らせる芝居が全くないわけではないですが、ここまで意識的に徹底的に演じられた現代劇を僕は見たことがありません。
もっとも、今回のナレーションが要求するシェイクスピア劇のような早口言葉を、各演技者が果たしてクリアーしていたかは疑問です。私が見たのは最終公演ですが、舌がもつれる場面が散見されたのは残念でした。台詞にナレーションが加わるのですから、役者に過酷で休みがないのは理解できますが。

それから、言い方は悪いけれども、僕は、役者が自分で演技して、自分を説明してしまうというのは、マスターベーションのような面白さがありましたね。本形式は自分で自分を盛り上げていって自己完結するような自閉性を実現しているように思った。内向的に閉ざされているのだけれども、その中では妙に開かれているような不思議なテイストを感じました。 

  人と話をしない役のレイラが、ナレーション上では饒舌であるという矛盾が面白い劇中効果を生むと思いました。人は人と話さなくても、頭の中では年中、話をしている。そんな当たり前の日常が、演劇では逆に稀であることに気づかされました。

力量のある役者が揃えば、人数が少なくても十分にドラマ世界を広げることが可能なことを証明した一つの作品ではないですか。今回のように、四人でも十分なんです。


ボニー&クライドとは比較できない。”はらわた”こそが重要

府川  この芝居の筋書きは、”ボニー&クライド”、”俺たちに明日はない” といった不良少年少女事件の現代版ではないかという指摘ができるのかもしれない、表面的には。

  筋書きをいえば、いたって古典的です。目新しいものではない。母の情夫を殺す息子の間接的な母殺し、そして生みの父の人殺しと息子の殺人連鎖といった設定も、現実的に全くないことではない。 

府川  そうですね。勿論、しかし、そんなことを比較するのは意味がない。

  なぜリーはビリーの胃袋を刺し、なぜフランクが、リーの両手を鹿の肉のはらわたの中につっこませるような行為を設定したかを考えたい。 

翻って言えば、はらわたの存在は人間の核心だからです。ベトナム戦争で死んだ兵士のはらわたを抉って胆嚢を食べると、超自然的な能力を発揮できるとか、ひいては弾丸にあたらないという迷信まで生まれた。はらわたの部分は骨によって守られていない。ここに弾が命中すれば、それが小さな穴であっても、内圧が一気に高まって、臓物が重力で下にドッと落ちる。 

要は戦争のリアリズムは、”はらわた”のことだと思う。そして、この芝居では、最後に主人公は自殺した父親の臓器を抉り出す。現実への最も深い関与が息子にテストされる。

何でこんなにも多くの人たちが演劇の制作に関わり、その作品をわれわれも含めて見に来るのか。やはり一時でも現実、リアルを見たいという欲望でしょう。 

府川  演劇はリアリティーを見せるための表現形式として機能するものであり、それが毎回試されている。だからこそ僕や林さんは芝居を見るわけでしょう。 

リーが『北に行く。I’LL MAYBE GO UP NORTH』と言うのは、警察から逃げたいからとか、生みの親に会いたいからですが、もっと根源的なリアリティーを僕は感じるんです。グラスゴーの人間にとって、ある意味でインバーネスのようなスコットランドの北部地方は自分のルーツを見出し、再確認する場所であり、象徴だろうことは理解できる。現にグラスゴー出身の友人も同じようなことを言っています、独特のくぐもるような、また鋭いアクセントで。 

  逃走先が北というのは、日本でも平安時代からあります。京の都にいられなくなった犯罪者はみちのくへと逃げる。なぜ南ではなくて、北なのか。 

府川  今回、全編にわたって流れるコントラバスの伊藤啓太さんの演奏が、”北”の雰囲気をいやおうなく呼び起こしました。特に、この演奏をベースにして『遠い、遠い。』とつぶやくような声で幕間に歌われます。原作にはない高田さんのオリジナル演出だと思うんですが、濃厚に北を彷彿とさせてリアルです。北半球の人間に共通する感覚がここにはある。
フランクが、昼は労働、長い夜は深酒の日々を送る。高緯度に住む人間に根のはったライフスタイルでしょう。 

  酒はまず冷え切った身体を温めるものであり、同時に心を深く暖めもする。 

府川  フランクが黒人音楽が好きなのは、同じ階級から来る共感をそこに読み取ったからでしょう。知識人が弄するようなこじゃれた台詞はほとんど出てこない。日々の当為にへばりついた人間たちの世界が『黄色い月』の基調です。ただムスリムらしき利発なレイラだけが中産階級の片鱗を見せている。それがラストのクライマックスで奔流のようにリーに溢れ込んでいく。


柄本さん、門脇さんの演技について

  演技者のリアリティーの表現を見るとき、リー役の柄本さんの演技は不満でした。いまどきの若者というイメージ作りかわからないが、そうでなければ単に感情移入のできない下手な役者と思われかねない。台詞を棒読みしている印象を免れない。

府川  ところどころ台詞に感情をこめない柄本さんのフラットな舌足らずな言い回しは、すべての観客に喜んで受け入れられるものとは思えない。しかし、劇中何度も登場するこの芝居のキーワード。『来る?それとも来る?』このフレーズの声調が妙に頭に残りました。海図のない今の若い世代をいみじくも端的に表現していたのではないか。

  若い人間には若い人間のリアリティーがあるでしょうし、同様に我々にもある。そしておのおのの世代で感じ方が違うんだからということもできます。しかし、若いときは面白いと思ってやっていたことを後で振りかえると気恥ずかしくなって、『何であんなものにこだわっていたんだ。』ということもある。不特定多数の観客を相手にする芝居である以上、やはりそこに世代を超えて普遍的に説得力を持ったリアリティーを与えることが演技のベースではないだろうか。

府川  リーのように殺人を犯してしまう、やくざ的な性格を演じる場合、一般人のように一貫したキャラクターの安定性があるのではなく、いつもはおとなしいけれども、ある瞬間に豹変して何をしでかすかわからないような狂気が要求される。その点、柄本さんは、できる限り舞台上でわがままになろうと奮闘していたと思う。

  柄本さんと門脇さんの演技には、若手特有の学芸会的な演技がところどころに見られました。パターンで処理していて、正直眠くなるところがあった。ここがどうしてもひっかかってしまう。中川さんや下総さんのようなベテラン俳優に比較したら経験不足なんだから仕方がないではないかと言うかもしれない。しかし、僕は身銭を切って芝居を見に来ているんです。この立場を離れて何かを言うのは逆に無責任なことになってしまう。

僕は憑依したものが見たいんです。上手下手とは別ですよ。柄本さんには演じているのか演じていないのかよくわからない印象があった。そのとき演じていることを忘れるほど役柄が憑依していれば、演技の質は必然的に変わるはずだ。

府川  憑依は修練によって身につくものですか。生来的な才能や個性と結びついているのではないか。経験を踏めば憑依できるようになるものなのか。

  若手が自然に演技しているといっても、それがこちらに意識されてしまうのはまずいんです。わざとらしくなる。一方で大事なリアリティーがある。門脇さんが上着一枚を脱いで肩を露出させると、ピカピカなんですね。そこに二十歳のまぎれもない生の肉体がある。ここに演劇を見に来る理由がある。 

府川  門脇さんは、若手ながら滑舌に破綻がなかった。聞き取りにくい台詞はありませんでした。これはやはり観客への最低のマナーだと思う。 

僕は高度経済成長の時代に生まれ育ったので、演劇に限らず、表現物を見るときに、”日々向上していく”視点が無意識に入っている。しかし、平成生まれの若者は、生まれてからずっと社会が頭打ちの状況です。上の世代が”頑張れ”という呼びかけを彼らはどう聞くのだろうか。リーもまた、頭打ち世代なわけです。そういう中で生きること。また、それをどう表現するか。柄本さんに与えられた実践的課題ではないかと思った。だから、この芝居だけでなく、柄本さんのこれからに注目したいですね。


中川さん、下総さんの演技について

  僕は中川さんのナレーションは、場を自分に引きつけたもので優れたものだったと思います。ナレーションというのは脇役だと思って油断してはいけません。シチュエーションによって脇役がいきなり主役に躍り出る。このとき、役者とは何なのか?劇とは何なのか?が問われる。物語の展開の中心でないのにもかかわらず、実体を持ってしまう。人間が生身でやっていることの驚きがここにあります。これが演劇の醍醐味です。

府川  中川さんと下総さんの演技があって、まず土台ができたからこそ、リーとレイラのバラードという若者が中心となる芝居が成立したことは間違いありませんね。

  蛇足ですが、若手だけでは絶対に成立しない芝居です。リーの母親役として中川さんがほんの一瞬でも出たほうが良かったと思うんですが、それがなかったのはなぜなのか。

府川  ラストで、中川さんが何も言わずに舞台の端にずっと立ち続けていましたね。あれがリーの母を象徴させていたのか。

  中川さんのあの容姿と容貌が、この芝居には不可欠でしたね。

府川  そうですね。和風の女優だったら絶対ダメです、最初から選外でしょう。 下聡さんの自堕落でダメな親父っぷりは、作られた演技に見えなかった。何か下聡さんのふだんの生活からにじみ出てきている感じを強く持ったんです。ですが、もしも品行方正な方だったら、もう脱帽するしかないですね。

今回の下聡さんはものすごく難しい役回りを要求されたと思います。熱演でしたが、情夫のビリーと実父のフランクは、普通なら別の人間が演じますよ。それを一人で演じ分けなければならないのですから。


翻訳について

府川  ほぼ原作に忠実に再現された芝居であるにもかかわらず、翻訳劇につきまとう違和感がなかったのは、第一にストーリーがスコットランドだけで起きうることではなく、今、日本のどこで起きてもおかしくない同時代性を持っていたからです。

  自分を見失って、スーパーのトイレでリストカットする思春期の思いつめる女の子、親の愛情を受けずに街中をわが家の部屋のように徘徊して好き勝手なことをする男の子。またひとたび傷害事件などを起こせば、ヒステリックに大々的に報道して当事者をラベリングするマスメディアといったものは、全く日本と変わることがない。

府川  自分にリアリティーを見出せずに犯罪を起こしてしまう若者は、逆説めきますが、犯罪を犯すことによって、初めて自己に気づく。そして、逃走し、自然に密着した田舎の生活の素朴な生活の中で、美しい満月を見て、幸福を感じる。表題のイエロー・ムーンは、レイラが言う、黄色い月光でリーの姿が一瞬、金色に変わるという至福の時間のメタファーですね。

  しかし、そういう平和な時間というものは決して長くは続かないのが人間の常です。それがリアルな現実です。 

府川  僕は翻訳者の谷岡さんの翻訳は相当の腕だと思います。翻訳調の不自然な臭みがほとんどないし、かといって反対に大和言葉の湿っぽさが出ないような抑制も効いている。ですから、この芝居の成功の隠れた功労者ではないですか。

リーがラップを刻みますけど、”牡鹿のリー。でっかくって太いツノ。もう子供じゃないっつの。女がほっとかねーつの。"なんて、すぐ覚えちゃいましたからね。


観劇料金
林 日出民  3、800円   府川 雅明  3、800円


楽座価格=3,800円