チケット料金=前売5,500円






楽座風餐 第26回  世迷言   2014年2月 1日

〔観劇者〕 府川 雅明  林 日出民


 見終えての第一印象

 今日の作品を見て改めて思ったことは、演劇、お芝居というのは、脚本や筋自体が先行するものではなく、パフォーマンスによって成立するということですね。日本人なら誰もが知っている竹取物語の話から始まって、全体を通じて物語は周知のものばかりです。演出家が、芝居はパフォーマンス次第であることがよくわかっている。具体的なことはこれから話したい。

府川 林さんの言われるように、ストーリー自体は何の変哲もない。古典のパッチワークといっていい。それはさすがに退屈だろうからと、現代社会のテーマを盛り込んだり、洋風の味付けをしたりといった姑息なオリジナリティーを出そうとしていない。そのあっけらかんとした清々しさに好感が持てます。一言、爽やかなお芝居だった。深く考えさせるというものはおそらくはないが、この気持ち良さの記憶は長く残るでしょう。主演の篠井さんと僕は同年代ですが、演出の中屋敷さんとは親子くらいの年の差がある。何か心地よいギャップ感を味わいましたね。演劇を面白くすることに後ろめたさや無謀さがない。これを演劇の成熟と言うのなら、戦後、ここに来るまで時間が必要だったんだなと思います。


 能の偽装工作

 今日はパフォーマンスなんです。いわゆる文学的深さを求めるとしたら見られない。いかに古典を使って面白いパフォーマンスをするかという明確なコンセプトのもとに芝居を作っている。

具体的に言いますと、本格的な能楽らしく演技できる篠井さん以外の演者は、いわば“能の偽装工作”をしていると思いました。七五調のセリフ回し、声を張り上げる発声、独特の身体表現などお遊び的に能の手法を取り入れている。だからといって、ふざけているわけじゃなく、アドホックに採用するのでもなく、真面目に首尾一貫してこの手法で演じきっている。全体として一つのパフォーマンス・スタイルに徹している。センスが良いですね。

能楽そのものは、言うなればワンパターンのところがあるわけです。今日は途中から猿が登場しましたが、能楽のもとである猿楽だって、ストーリーはいたって単純です。ただ、その中に日常とかけ離れた発声や身振りを入れることで舞台を成り立たせているのが能の本質ですね。後半に登場する鬼女も、謡曲にいわゆる鬼女ものというジャンルがあって、筋はワンパターンなんですが、おどろおどろしさを出すことで、ちょっとただ事ではないぞという世界を作り上げる。つまり今日のお芝居は、そうした伝統的舞台をよく知っている人の手によるパフォーマンスなんです。

府川 しかも、伝統芸を忠実に再現するというのでもなく、意識過剰にパロディーを企てるのでもなく、その本質の面白さのエッセンスを素直に受け取って、僕たちの生きる今の世界に不自然のない形で再現している。

 この偽装工作を演じる側は楽しいと思いますよ。

府川 楽しんで演技しているのが伝わってきますからね。普通ではない発声、ちょっと素っ頓狂にも聞こえる大げさな声というのは、へたをすると一昔前の絶叫調の息の荒い実存的演劇になりかねない。けれども、筋はそれこそ日本昔ばなし。セリフが現代的にアレンジされていても根っこは洗練されている。

 若い女の子が舞台上で声を張り上げて動き回ったら、普通はみっともない事態になりますよ。しかし、そのような印象は与えない。つまり古典の良さというものを十分に活用しているんです。台本の元のネタが内容の水準を引き上げている。偽装工作だということを最初からあからさまにしても崩れないだけの安心の土台ができている。逆に言えば、もしも今日の作品を、文化遺産の継承みたいな雰囲気で文語調で再現したら、若い人は退屈して見にきません。だから、役者が現代風の服装で、現代の言葉で表現する。音楽も効果音もすべて電子音。それで十分に古典の面白さは満喫できるわけだし、またそういう応用が利かない、普遍性のない古典はそもそもクラシックの名に値しない。ただし、一つだけ言えることは、カジュアルな装いで登場してはいけないんですね。何かしら非日常的な派手な服装にする。今日の演者たちのいかにも現代風の毛羽立ったお洒落な装い、あれでいいんです。帝が女性であっても全くかまわないし、お婆さんが男性であってもかまわない。もともと能楽は抽象化が見る側に働いて、見立てで成り立っていますから。

中屋敷さんも演者も、何のためらいもなく楽しんでいる。要するに、非日常のスタイル化なんです。頭の固い能楽師から叱りつけられるような今日のスタイルは、しかし、新鮮です。中屋敷スタイルとも命名しますかね。この手法で今後のいろいろな展開が見えてきますね。


 演劇における独創

 独創的な芝居とは何かを今日は考える良い機会にもなった。そもそも本当のオリジナリティーはどこにあるのかということ。独創的な作家と言われるエドガー・アラン・ポーが『独創なんて人類発祥の神話にしかない。あとは独創でも何でもない。ただの組み合わせだ。』と言っています。今まで全く見たことがない独創的演劇などという代物を期待してはいけない。そうではなくて、舞台空間としていかに秀逸なパフォーマンスが目の前で展開されるか否かこそが最も問題とされるべきなんだということですね。

府川 当たり前と言えば当たり前なんだが……。

 しかし、独創性という名の下、いかに独善的なものが多いことか。

府川 今日の作品を見ていてね、サザン・オールスターズを思い出したね。桑田圭祐の音楽って、部分的に見れば、どっかの洋楽や邦楽のフレーズなり節回しなりの盗作てんこ盛りじゃないかとつっこみどころ満載なんです。けれど、全体としてはまぎれもなくオリジナルな桑田サウンドになっている。今まであるものの良さをすべて豊かに肯定して祝祭的に再提出する感じ。

もう一つはハイブリッドですね。能楽とエレクトリック・サウンドって一見、場違いな結婚に思えるけれど、体験してみると違和感があまりない。やれるじゃない、いけるじゃないのという。


 篠井英介あっての世迷言

 明らかに篠井さんがいなければ、今日の芝居は軽薄なものになったでしょう。他の役者はどう頑張っても、本格的な古典の演技はできない。だからこその偽装工作なんですが、それも篠井さんの本格性が一本柱のように立っているがゆえに生きてくる。

篠井さんのプロフィールに少し言及すると、もともと歌舞伎役者を目指していたようです。しかし、ご承知のように、斯界はほぼ世襲ですからね。勿論、一般人も役者になれますが、主役にはなれない。現代劇における古典芸能の技量の応用という篠井さんの選択は大正解なんだと思う。大正解というのはご本人もさることながら、私たち見る側が、その恩恵に浴せるからです。

府川 篠井さんは今日はそれこそ子供の世代を相手に演じたわけですけど、違和感なく溶け込んでいる。それは篠井さんのさまざまなキャリアの賜物だろうとは思うけど、役者として最も重要な資質である柔軟性、適応力を見事に表していたのではないですか。篠井さんのキャパシティーを感じました。テレビのお仕事なんかもすべて生きているんじゃないか。硬軟取り混ぜ、観客との駆け引きもできる。

 ええ。勿論、演者にはおのおの当たり役というのはあるでしょうが、『私はこの手の役しかできません。』なんて言う役者は、役者の自己否定でしょう。いかに与えられた役柄に対応できるかが俳優の力を判断する筆頭事項でしょう。


 最後に

 今日は6,200円です。このところ楽座風餐上で観劇した中堅層の作演出家たちが、苦しげに演劇と格闘している閉塞感を持つ印象の中で、今回の若く爽やかなパフォーマンスは、演劇の今後への希望のようなものまで与えてくれました。6,500円と最初は考えたが、これからも発展していく劇団、作演出家でしょうから、可能性の分はあえて価格に転嫁せずに決めます。

府川 6,000円代といきたいのですが、鉢嶺杏奈さんの顔を厚塗りさせてしまったことが個人的に非常に残念でした。折角の美貌を殺してしまった。

 それは演出上、仕方ないことでしょう。彼女だけ素顔で出すわけにはいかない。

府川 それはわかっているのですが、それにしても惜しいなと。姫なんですから何とかならなかったか。5,800円です。



楽座価格=6,000円

 


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