チケット料金=前売4,200円






楽座風餐 第29回  ルミネtheよしもと   2014年 5月 13日

〔観劇者〕 府川 雅明  林 日出民


 無料の笑いと有料の笑い

 今回はいつもの劇評にはならないので、普遍的笑いと吉本の笑い、言い換えると関西の笑いを、吉本の芸人のパフォーマンスを見た今、分けて考えてみたい。吉本を論じるとなると、大阪を論じることになるかもしれない。

笑いは身近なものであるはずが、今日のように金を払ってわざわざ笑いを求める意味を考えたい。我々が見たのは昼2時からの回で比較的空いているものの、夕以降の続けて2回はいずれも500人の定員が満席になっている。これは一体、どういうことなのか。

府川 笑いをあえて分類すれば二種類しかない。タダで笑うか、金を出して笑うかだ。無料で笑うネタが自分および周囲に存在せず、かつ、笑いが健康長寿に効能ありとなれば、面倒くさがりの金持ちは笑うために吉本に足を運び、結果として吉本は潤う。

楽座風餐は金を出してパフォーマンスを見、元がとれたかどうかを考える場だから、あとで一人一人の演者を見積らせてもらう。金を払うから、とにかく騙して笑わせてくれという姿勢ではなく、金を払って見せる笑いなのだから、それが得だったか、損だったかという算盤勘定をすることになる。

ルミネ・ザ・吉本は休憩をはさんで110分。指定席予約で4,200円。実際はチケット入手の手数料がこれに加わる。一方、同じ新宿の老舗末広亭は、入口で3,500円の木戸銭を払うと、昼夜入れ替え制なしの日なら丸一日見られる。自由席だが、いい席を取りたければ早く来て並べばいい。中入り後の途中入場なら1,500円で、小一時間は笑いが楽しめる。楽しめるかどうかは人によるだろうが。

同じ金を出すなら、俺は末広亭を選ぶ。東京人だからとかは全く関係ない。単純に安くて笑いが多い。末広亭の演者は年寄りで、ネタも古い。しかし、今や日本人の四分の一は高齢者だから、古いもへったくれもない。市場としては侮れないだろう。

一方、吉本のほうはテレビに露出する若手から中堅の演者だ。ジジババの好むネタはやらない。しかし、高齢者は早晩死ぬし、若者はいずれ高齢者になるのだから、一世代、半世紀の長期投資と考えれば問題はないだろうし、
回収ができないとなれば撤収するだろう。実際、500人の席を毎日満たすというのは、劇団四季や歌舞伎のようなビジネスのプロの力技が絶対に必要で、アマチュアの劇団などの集客力は全く足元にも及ばない。

もう一つ言うと、そもそも吉本がブレイクしたのは舞台よりもテレビ媒体だったから、いわゆる演芸場のお客さんの顔の皺やシミを一つ一つ見ながら笑わせるというノリともテイストが違うので、そこに現場感を尊重する俺の立場からは根本的な不満がある。「テレビを見ればいいんじゃない。」ということになる。勿論、テレビに映る人間を生で見たいという客は多いだろうし、それが吉本の戦略だ。末広亭の立ち位置はアンチ・マスメディアだから、平気でメディアをおちょくれる。その反骨さはあくまでマイナーであり、好き嫌いを生む。

林さんは吉本は関西、大阪の笑いと言ったが、今日の演者、品川庄司もインパルスもはんにゃも関西ではなく、東京の吉本の所属だし、当然、関西弁もしゃべらない。『吉本に行けば、関西の笑いが堪能できる。』という錯覚を与え、客を呼べれば吉本の勝ち。しかし、若い客はそういう動機では来ないだろう。

吉本には確かに、大阪の新喜劇でサバイバルのために必死で培ってきた独自の笑いの技法があるし、今日もその片鱗を見せたが、それらはあくまで吉本の経営上の発明品だと思う。インテリ学者さんは大阪と吉本を結びつけて論じるかもしれないが、観客がたくさん入るなら、吉本は全員、関東の芸人を出すはずだ。いや、トリは関西人かな。なぜなら、東京のお客さんを本場大阪のなんば花月に誘導する宣伝になるから。料金もルミネ・ザ・吉本と同じだし。

需要があるところに供給が生まれるというよりも、需要の潜在性を掘り起こす供給が、あたかも強い需要の存在を暗示させるものだから、インテリが論じたがる因果ネタを呼び込むことってないだろうか、今日の一件に限らず。

繰り返すが、吉本はエンターティンメント・ビジネスのプロで、末広亭は素人だと思う。その点でいえば、吉本は信頼できる。観客が不便に思うことはやらない。だから駅ビル劇場なのだし、トイレも清潔だ。しかし利益無視とは言わないが、儲けの下手くそな末広亭のほうが、結果として安い値段で客をたくさん笑わせているのが世の中の妙味じゃないだろうか。

末広亭では松竹系の関西の芸人さんが出ることもある。最近は、相当、吉本を意識していると思う。『東京人は吉本なんか絶対に行かないぞ、この馬鹿が。』などとアホをほざく頑固な輩もいらっしゃる。くだらないこだわりだと尊敬するが、それは関西にも同様にあるだろう。

 吉本が別に文化を先導しているわけではなくて、所属の芸人の芸も質のデコボコが大きい。ただ吉本を育ててきたのは、銭を払う観客であって。それが大阪を中心とする人間であった以上、関西と無関係とは言えない。確かに吉本は府川さんが指摘するように、金を払って見る笑いだが、その根底には地域性が見え隠れしている。

私の妻は大阪生れではないが、十代を関西で育ち、私が会話のもつれの中でいきり立つようなことがあると、『そんなことで西の人間は真剣に腹を立てたりしない。そこは笑ってボケで切り返すところでしょ。』などと言い返される。どうも東京に住んでいると肩肘はって、鎧を着て生きているようなところがある。建前が多すぎて、いきなり本音で返されても柔軟に応答ができない面がある。日常会話におけるボケ、ツッコミの作法の土壌があるからこそ、吉本が育った。

府川 その話は面白い。関東か関西かとか、アメリカか中国かとか、サッカーか野球かとか、早稲田か慶応かとか、人間は自分勝手に対立軸を作って燃えるという性癖がある。それは劣等感や対抗心を生んで、人生の退屈を忘れさせる。

大阪から東京に飛行機で初めてきた奴らが、成田から京成線に乗る。車内の路線図の駅名を眺めて、『ユーカリが丘やて、人間住んどるんか。』とかいちいちツッコミを入れる。それを聞いた柴又の客が真っ正直に、『この馬鹿野郎!』などと怒鳴りつけるものなら、思う壺。これは人を怒らせるベクトルだが、笑わせるベクトルに変えれば、吉本になる。要は本音のコミュニケーションのきっかけ作りというわけだ。

 例えば、浅草育ちのプロレスラー、アニマル浜口夫妻の丁々発止のふだんの会話のやりとりは、別にネタで人を笑わせるわけでもなくて地でしゃべっているだけなんだけど、聞いていて思わず笑ってしまう。それは大阪の夫婦漫才なんかと全く同じで、つまり根の部分は実は関東、関西のへったくれもない。

タダにせよ、金を払うにせよ、笑いが生まれる現場は、例えれば、銭湯でお互いに裸になった状況に似ている。地位だのプライドなどをすべて脱ぎ捨てた中でこそ、人間のまっとうさが出てくる。

物事を笑って済ますなんて言うのは無責任だと考えられるが、むしろ健全な思考ではないか。物事を深刻に受け止めすぎるから、争いが起こる。自分が難しい状況に追い込まれたとき、追い打ちをかけるように自分を責めて悩む苦しむか、あるいはあっけらかんと笑い飛ばせるか。そんなことで人生の幸福が決まってしまうところがある。


 南方の笑い

林 その意味では、今の日本人は笑いが足りないでしょう。日本に来ているベトナム人やフィリピン人を仕事柄見ているが、日本に住みながら恐ろしく適当なんだね。用意すべき物を忘れるとか、時間を守らないとか。日本で暮らす以上、お国の習慣を変えるかというとあまり変わらない。そこを日本人は怒り出す。しかし、それでいいんです。われわれが仕事で致命的と思うミスも、彼らの国同士の人間には、お互いに笑って済ますことなんです。だから、それに合った言葉がちゃんと用意されている。

タイで言えば、マイペンライ。この一言で、ガチガチになりかかったものがお互いにふっと溶ける。2時間くらい約束の時間に遅刻しても『どうでもいいんじゃない。』となる。マレー語でいえば、ディダ・アパアパです。マイペンライと全く同じ効果があるし、沖縄でいえば、テーゲー。大概、大体という意味ですね。『いいじゃないの、人生、大体で。』と了解し合って、この言葉でニコニコする。

これらはいわば人間の原初的思考の表現で、尊いものですね。本当にそれでいいんですから。最初はこんなもんだった。笑いは古いものだと思いますよ。それではすまなくなった人間どもが、政治を語り、経済を作り、約束事を秒単位でこなしていくというストレスに満ちた世界を作ってしまった。まさに、南方の生き方が身につければ、幸せになれると思うんですが。

府川 脱力。

 そう。力を入れていないから何も考えていないかというと、ちゃんと人間の機微の本質を理解している。

府川 漫才界の重鎮、上岡龍太郎さんの言葉が深い。漫才師は遅刻しても全然かまわないのだと。問題は、遅刻の言い訳が面白いかどうかやと。『信号機に青になれ、青になれと必死に念力を送りましたけど、どうしても駄目でした。』とか『今日は向かい風が強すぎて前進できませんでした。』とかなら許すと。このくらい笑いに味があれば、金を払うだけの芸かどうかなどと俺がみみっちく考えること自体、笑止千万だろう。

しかし、こうした総体も後世の人間から見たら、『何で笑うために金を払うんだ。』と驚かれるんじゃないか。林さんのいわれるように、笑いはたぶん人類の歴史くらい古いもので、だから、無理をする文明は決して長くは続かない。金を取る笑いというのは、現代文明病の疲労回復薬でしょう。でも別に吉本を批判するつもりはない。だって、少なくもあと1世紀くらいは同じ状況が続くだろうから。


 千鳥

府川 さて、ここから演者一つ一つを見ていきたい。まずトップバッターの千鳥。ボケ役の大悟は観客を小馬鹿にしたような不良っぽいふてぶてしさがあり、金の取れる存在だと思った。ダウンタウンの浜田に似た芯の強い荒ぶり加減がいい。大悟がネタを作っているのだろう。ネタを作れるボケは主導的にキャラを創造する。ツッコミにいじられるだけのボケというのは、かなり古い話だが、欽ちゃんの誘導に乗っかってうける素人役者とあまり変わりがなく、よほどの天然ボケでなければ生き残れない。大悟は今日の演者の中で最も注目したい芸人だ。しかし、新鮮さを失うとき、転機が不可避的に来るのではないか。

 途中から遅刻して入ってきた観客をその場でネタにして笑いを取っていた。こういう即興の現場対応が漫才の芸能の面白さの本質だと思う。完成されたものを再現する演劇とは違う。現場のリアリティーを鋭くキャッチして反応するところにお笑いの醍醐味がある。目の前の客は毎回違う。刑務所でやるときとホールでやるときでは違うでしょうし、その意味で、ただセリフを棒読みしていたような麒麟は実に面白くなかった。

府川 麒麟については、後で触れたい。


 エハラ マサヒロ

府川 ピン芸人を見るとき、笑う前に、まずソロ芸人の厳しさという印象がどうしても先に立つ。これは評者として偏しているのだが、漫才よりも点が甘くなる。例えば、アメリカの黒人のピン芸人クリス・ロックみたいに命を削るような黒人自虐ネタを速射砲のように言い放つ姿は、悲劇のヒーローのように孤独の影が濃い。だから、笑わせるだけでなく、その姿が泣かせるから金を払うということはありうる。エハラは塾教師のネタを熱演し、最後はムーン・ウォークのサプライズを披露したが、体を張った迫力を買いたい。


 品川庄司

府川 今日の漫才の中でベスト。金を取る笑いには二種類あると思う。アホの坂田や間寛平に代表される突出した存在感で笑わせる、もう一つはあらゆる笑いの技法を駆使して笑わせる。品川庄司は後者だ。間、無知、勘違い、ナンセンス、誇張、くり返し、ダジャレ、形態模写、はぐらかし といった笑わせる技法をふんだんに駆使して、観客の全身のいたるところをくすぐってくれる。昼の客の少ない中、話のマクラに『漫才ブームの終わりを感じる。』みたいな皮肉を一言言って軽く流す。ここを『席の後ろがスカスカで風通しがいい。』とか『今日のお客さんはよっぽどヒマなんでしょうね。』などと言って笑いを取ろうとする漫才師は、センスが悪い。

 生を見て初めて、品川庄司にこんなに芸があったんだと思った。テレビ電波に乗っかっていただけという印象は嬉しく裏切られた。

府川 ネタのディティールがよく練られているし、最初はロー・キーで学園幽霊話まがいで入って、庄司がアクション・シーンを始めるあたりからテンポが急加速する。終始、手を抜いていない。二人のお笑いに勝負する眼が良かった。

テレビ芸が駄目で、劇場の芸が本物だなどと簡単には比較できない。当事者にしかわからない、それぞれの難しさがあると思う。しかし、劇場の目の前の観客を生身でいかに笑わせるかに必死になる姿に触れることこそ、楽座風餐の眼目だから、品川庄司は一押しだ。スタイルを確立させつつ、壊していくような自在さは、キャリアの自覚がなせる業か。ただ、体を鍛えている庄司だが、いずれは体の動きで勝負できなくなる時が来る。そのとき、どうするか。コンビを解消するのか。少し心配になった。


 チョコンヌ

府川 吉本新喜劇を彷彿とさせる四人による一幕物のコントで、いたるところに吉本の笑いの技法が織り交ぜられていた。惜しむらくは、映画監督役のツッコミが内場勝則や辻本茂雄だったら、もっとまわりのボケ役をいじくり回して、ドカンドカンと笑いの仕掛けを爆発させられたろう。こうした集団のコント、軽演劇はタダでは出会えない笑いを与えてくれる。だからこその吉本新喜劇なのだと納得する。


 はんにゃ

府川 金田は20代の若さで、ジャニーズのような華がある。舞台に立つと、金田のまわりだけパーッと明るくなる。だから、当然、若い女性ファンがつく。ちっとも面白くないネタでも、箸がころんでもおかしい女の子が全部拾って笑ってくれる。何でもウケるというのは自分の身に引きつけて考えると怖い。早晩にこの女子のファンたちは結婚し、お笑いから離れていくのだから。瞬間芸ならぬ旬間芸で終わってしまう可能性がある。そうなれば、先の品川庄司のような水準への到達は望めない。

もっとも、そんなことを考えても仕方ない。古典落語のように、あらかじめ決まったネタで勝負するのではなく、あくまで自分のオリジナルで勝負する芸なのだから、どのような形であれ、芸人生命が短かろうが笑わせられればいいし、それに賭ける芸人の汗は、異性から見ればスポーツ選手のように魅力的なはずだ。


 インパルス

府川 板倉が爆笑問題の太田光に似たキャラの存在感があって、まわりが右を向いたら、絶対に左を向くような、すね切った姿勢が一貫している。こうした偏屈さは芸人修行で体得できるものではなく、生来の気質だろうと思わせる。

ツッコミ役の堤下は、やはり爆笑問題の田中に似て、板倉とは対照的に大方の人間の代表のような凡庸さ、常識を持ち合わせているから、いわば観客の代表とも言える。今日のネタも、板倉がひたすら子供じみたわがままを最後まで押し通すだけのたわいのない話だ。しかし、それでも金を取れると思う。なぜなら、演劇の役者は舞台が終われば役の人格を解かれて一市民に戻ることができるが、板倉のようなタイプの芸人は自分の日常言動がイコール芸なので、舞台の仕事で芸を見せて終わったら、元に戻るというわけにはいかない。

言い換えると、一般人と同じように特別の演技を要求されずに自分の素で生活をしているのにもかかわらず、そのさまを見せて金を取ることができることを意味している。これを支えるのは、存在が世間から村八分になっている状況に耐えるか、あるいはそれが習慣として身についているかしかない。いずれにしてもその有様の強度が見る側に伝わるとき、タダで笑ってはいけないと思わせる何かが滲み出ている。


 麒麟

 お笑いというのは、たとえ仕込んだネタを披露するにせよ、現場の状況に対して、その場が最も盛り上がるような臨機応変さが面白さの根本にあると思う。そこにまたリアリティーが生まれる。ただ覚えていることを言うだけでは下手な芝居を見ているのと同じことになる。繰り返すが、麒麟の漫才は、観客を見ずに一方的におしゃべりしているだけで、ちっとも面白くなかった。

府川 確かに麒麟の漫才は、相方の話に予定調和的に反応するパターンばかりで、古いタイプのしゃべくり漫才の下手くそな物真似のように思えた。その責任は田村の工夫を欠いた相槌に原因する。しかし、俺は川島のトークの内容に注目した。川島のネタは「ありえないこと」というよりも「それって、確かにあるよね」という日常のディティールの発見ネタで、言うなれば、小心者がまわりの動きを細かく観察してから自分の行動を決めるような慎重さの諧謔だ。

お下劣な話はしないし、大げさなハッタリもない。これは今の若者のメインストリームを体現しているから、若者を安心させるだろう。末広亭では絶対に見ることが不可能なパフォーマンスだ。

観客の女の子たちをクスッと笑わせたり、あるいはデートのときなどにちょうど良い話のネタを提供しているとも言える。となれば、これは金が取れる。しかし、その手のネタはインターネットで探そうと思えば、どこにでもころがっている。従って、麒麟の生命線は情報の選択のセンスになるだろう。


 テンダラー


 観客の反応を見るときに、話のマクラに観客の印象を話したりすることがある。テンダラーは大阪の芸人だが、昨日のお客さんが関東近辺ではなく、全国から来ていることに触れて、どこか不安げな感じがあった。

府川 それは林さんの鋭い観察眼だと思う。金を取る笑いという視点から、あえて東京と大阪を比較してみたい。東京の芸人が大阪で受けないというのと、大阪の芸人が東京で受けないというのは決して同じではないと思う。

大阪では、観客の多くは地元か関西圏で、濃密でクオリティーの高い笑いの土壌がある。そこで生き残るためのノウハウがわからない東京の芸人がいきなり大阪に行っても、銭が取れる芸になっていないということになる。一方、東京は関東平野の中心にあって、関東六県の人口だけで4000万人になる。さらには旅行者も含め、全国津々浦々から雑多な人々が寄り集まってくる。

ここで大阪芸人が切れの鋭い芸を見せたれと勢い込んでも、アクが強すぎて空回りするだろう。もっと共通のコードを持った万人受けする“下手くそさ”がないと銭が取れないとなる。

だから、テンダラーがことさらに関西人意識を表に立てず、脱力した上で堂々と大阪弁で漫才を展開すれば、余分なアクが抜けて、その余力をパフォーマンスに向けることができ、さらに面白くなると感じたのは俺だけだろうか。


 最後に

 今日は3,400円です。

府川 3,200円。内訳は千鳥500円、トレンディー・エンジェル100円エハラマサヒロ250円、品川庄司700円、チョコンヌ500円、はんにゃ100円、レイザー・ラモン100円、インパルス400円、麒麟150円、テンダラー400円




楽座価格=3,300円

 


                                                                         ▲楽座TOPへ